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食べよ。歩めよ。

コンビニの前で、
女の子たちが雨宿りをしていた。
通りに背を向け、
白い電灯が明るい店内の方を見ている。
みんな少し猫背になって黙って立っていた。
近くの高校の制服に、
お揃いのリュックサック。
スカートから延びる細くまっすぐな脚も、
お揃いみたいだった。

彼女たちが沈黙していた理由は、
カップラーメン。
肌寒い雨の夕方、部活帰りなのだろうか。
温かいカップラーメンを、ずずず、と
威勢良く啜っていた。
《カップラーメンと私》
の世界に入り込んでいる。
無我夢中で熱々の麺と格闘する姿が
とてもチャーミングで、
私は、彼女たちの明日が
楽しいものであるようにと願いたくなった。

美味しそうに食べる人は、
見ているこちらまで
しあわせな気持ちに近づけてくれる。
人目をはばからずほおばる顔は、
お腹が満たされる喜びでぴかぴかしている。
心も満たされるならば、
間違いなく明日も元気でいられる。

例えば
私が作った料理を誰かが食べる。
材料となるキャベツや玉ねぎや
おとうふや鶏肉や。
そこから私のちからで刻んで、
煮たり焼いたり味を決める。
私の手で作り出したものが
誰かのくちに入り、
体と心をつくっていく。
口の端にソースをつけながら
私の作った料理を噛み砕いて、
身体に取り込んでいく。
そうすると
お腹の中からじんわりと
食べ物プラス私のちからが燃え出して、
その人を支えることになるのだろう。
今日を、明日を、
乗り切れるように。
私の魔法が効きますように。
そう願いながら料理を作る。

私が作ったものではなくても、
大切な人や飼い猫が
食事するのを見ていると、
食べることは
生きる意志表示なのだなあと思う。
それはとても尊い光景なのだ。

どんなに悲しくても
いつかはお腹がすく。

大好きな人が死んだ時、
何も食べたいと思わなかった。
だってあの人は永遠に何も食べないのだし、
私も食欲なんてとうの昔に忘れた。
食べるとか、どうでもいいことだった。
でも。
どんなに悲しくても
どんなに生きることを放棄したいほどに
心が水没しても、
いつかはなにかを食べる。
それが今を生き残っている者の宿命なのだ。

故人が遺した物を片付けた帰り道。
同行してくれたあの人の父親に促されて、
気の進まないまま
ラーメン屋の暖簾をくぐった。
かなり無理をしてくぐった。

「無理をしてでも、
ひとくちでもいいから食べな」

割り箸を差し出しながら
その初老の男性は言った。
私は湯気の立つ醤油ラーメンをすすった。
寒い心に温かさが沁み渡った。
最初のひとくちで、
そうだ私、実はお腹が空いていたのだな、
と思い出した。
私はあの人のいない世界で
こうして生きている。
永遠に歳をとらないあの人とは
違うところでたしかに生きている。
申し訳ないけれど、
私はここにいることを心身で選んだのだった。
いつかいつか、また。
遠い空の上で再会する日まで、
私はあの人の分もこの世を味わうことを
引き受けた。
あの醤油ラーメンが、
立ち直りを後押ししてくれることに
繋がっていったのだった。


カップラーメンに夢中の
彼女たちの横を通りすぎる時、
一番手前の子の割り箸に
湯気の渦が、するん、
と巻きついていたのを、私はたしかに見た。
あの湯気が彼女を温め、
お腹を満たし、
ちからを得て歩いていけるだろう。
明日は晴れるといいね。
明日も仲間たちと
泣いたり笑ったりしてね。
通りすがりのただの人である私にさえ
元気を分けてくれたあなたたちの未来が、
明るいものであることを
願っているよ。


#元気をもらったあの食事

文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。