見出し画像

海砂糖をおひとつどうぞ#シロクマ文芸部

「海砂糖をどうぞ」
年に一度必ず訪れる海辺に、
小さなカフェがオープンしていた。
珈琲とともに店員が差し出したのは、
青く透明な砂糖の盛り合わせだった。
「お好きなものをひとつ選んでくださいね」
海砂糖は小さな石のような形をしていて、
淡い水色からコバルトブルーまで
たくさんの青色があった。
僕は紫色に近い青の海砂糖を選び、
手にとって明るい窓の方へ翳してみた。
深海から見上げた空みたいに、
青い光がちらちらと舞った。
「これはどこで手に入れたのですか?」
「昨日、そこの海で採ってきたのですよ」
店員は微笑みながら窓の外を指差した。
ゆったりと伸びる水平線に
午後の日射しが降り注ぎ、
煌めきが乱反射している。
この砂糖があの海で採れるとは。
こんなにも青く美しい砂糖を、
焦茶色の珈琲に溶かすのは惜しい気がした。
それでも僕はそれを珈琲に沈め、
スプーンでかき混ぜてカップに唇をつけた。



ぼくは晴れた午後の海にゆったりと浮かんで
空を見上げていた。
凪いだ海はとても静かだ。
白い雲が眩しい。
時々視界の端から端へ、鴎が飛んでゆく。
「康介、魚がいるよ」
水着姿の父さんが隣に立ち海中を指差した。
ゴーグル越しの目が笑っている。
ぼくは浮かんだままくるりと海中に向き直り、
魚を探した。
いたいた。
銀色の魚が、
日射しのカーテンの間を泳ぎ回っている。
気まぐれに行き先をかえては、
尾をはためかせて水を縫う。
きらりきらり魚が泳げば泳ぐほど、
海の中に光が溢れた。
「あれはなんの魚かな」
「すごくきれいだろう。鱗が光ってる」
海の底の砂に
ぼくと父さんの影がゆらゆら揺れている。
「捕まえて飼いたいな」
ぼくがそういうと父さんは首を横に振った。
「だめだよ康介。
この魚はこの海でしか生きられない。
水が合わなければ死んでしまうよ」
父さんの瞳が急に深くなったので、
ぼくは慌てて水を掻いて砂の上に立った。
大丈夫だ足はちゃんとつく。
ぼくは息を止めてざぶんと潜っては、
魚に手を伸ばした。
彼らはするりと身を翻して
ぼくを追い越してゆき、
爪の先すら触れることはできなかった。
父さんはそんなぼくをみて笑っていた。
父さんの日焼けした大きな背中が、
沖に向かってゆく。
波が少し高くなってきて、
ぼくの体を前や後ろへ揺さぶった。
父さんはどんどんぼくから遠ざかって、
青い海色にまみれる。
規則正しいクロールは波頭のリズムと重なり、
海とひとつになっていくようだった。
父さん、それ以上行ったら帰れなくなるよ。
父さん。


康介もいつか、
自分の力で大海原に泳ぎ出していくんだよ。
魚はここにしか住めないけれど、
康介ならどこへでも行ける。
大丈夫。
父さんの子どもなんだから。


強い風に煽られて聞こえなかった
あの時の最後の言葉が、
やっと僕の耳に届いた。


珈琲に涙がひとしずく落ちた。
僕は手の甲でぐしぐしと頬をぬぐった。
カウンターの中から
店員がこちらを見つめている。
バツの悪い僕は、窓の外へ目をやった。
今はもう会えない人の面影が、
蜃気楼のように
遠い夏の縁に立ち昇っていた。
海砂糖入りの珈琲は、
甘くて微かにしょっぱかった。
「あなたの心の中の海の思い出は、
深い色をしているのですね」
「そうらしいです」
「この店に来る人は誰もが
心の中に海を抱えているのです。
海砂糖入りの珈琲を飲むことで、
海にまつわる喜びも悲しみもすべて
あなたの中に溶け込んでいきます。
でも消えてしまうわけじゃない。
海の底の砂みたいに、
角が取れてまろやかになるのです」
だからこの珈琲もやわらかい味がするのか。
甘いのにかすかにしょっぱい不思議な珈琲。
高波みたいな記憶を、
静かな思い出に変えてくれた海砂糖入り珈琲。
父さんの13回忌。
僕は珈琲を味わいながら
遠くで光る海をぼんやりと
ただぼんやりと、
日暮れの灯台が辺りを照らしだすまで
眺めていた。


******

小牧さんの企画に参加させていただきました。
ありがとうございました。
ぎりぎりでしたが大丈夫でしょうか。
(間に合わせるために慌てたので
推敲が中途半端ですみません)

#シロクマ文芸部

文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。