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花の咲く場所

これは世の中に疫病が蔓延るよりも
もっとずっと前に書いたエッセイです。

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数ヶ月に一度、朗読会を行なっていた。
物語の筋や台詞の部分を
数人で分担する朗読劇をやったり、
静かなピアノ伴奏のなか
本を読み聞かせたりするのだった。
いつもはカフェやレンタルルームで
その会を開いていたのだが、
友人の誘いで、
ある施設でぜひ、との話を戴き
見学に行くことになった。

明るい日射しが入り込む食堂。
みんなで唄う秋の歌が聴こえてきた。
入居者の方も職員の方も穏やかな表情で、
そこがとてもいい場所であることは
すぐに分かった。

施設のなかを歩いてまわる私に、
ひとりの高齢の女性が車椅子で近寄ってきた。
秋の紅葉はどこそこが綺麗だとか、
銀杏を拾う時はビニール手袋をしなさいだとか、
その女性はにこやかに話しかけてくれた。
家族と暮らしているの?
お母さんはお元気?
恋人はいるの?
毎日お仕事大変ね。
朗読会をしに来てくれるの?
楽しみしてるからね。
待っているから。

帰る時間になったので、
私は彼女の部屋の前まで車椅子を押して
送っていくことにした。

「お願いしてもいい?」

「ええ、もちろん」

彼女は私を見上げて微笑むと
そっと手を握って言った。

「いい?
心が疲れた時は、何かのお世話をするの。
お花でも野良猫でも何でもいいから。
ああ私、役に立ってるわって思うと、
生きる理由になるでしょう。
何かを慈しむって
こちらの心の蝋燭を灯してもらうことなのよ」

彼女の部屋の前まで車椅子を押していく時、
車輪の影がくるくる回るのを見ていたら
涙が溢れて困った。
笑顔で隠していた私の傷む心を、
本当は誰かに
見つけて貰いたかったのかもしれない。
見ず知らずの訪問者でしかなかった私に
差し伸べた、
彼女の皺のある小さな手は
とてもあたたかかった。
かなしみを越えてきた人のやさしさなのだと
感じたのだった。


私はいつの日かここで朗読会をする。
今日という日の連続が
彼女に会う日に繋がってゆくのだとしたら、
私は日々を疎かにしないでいたい。
まわりを見回して
自分にとって良いものを見つけていこう。
空が綺麗だったこと。
風が心地よかったこと。
鉢植えの花が咲き始めたこと。
日向で眠る猫の背中がまるかったこと。
誰かが誰かに優しかったこと。
今度は心からの笑顔で
彼女に知らせてあげられるように。


さりげない日常の足元には、
目には見えなくても
小さな美しい花が咲いている。
私はそれを見落としたり
見ないふりをしたりしないで歩いて行きたい。

花は今日もどこかで咲いている。
気づいても気づかなくても
たしかに咲いている。



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