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よく見る夢がある。

その夢の中で、私は大量の水の中に浮かんでいる。
頭上からは光が差し、水が揺れる度に光は揺ら揺らと回折する。
その水の中に吊るされながら、私はじっと自分の足元を見ていた。
魚のヒレのようになった私の足先遠く、
白いキラキラしたものが波を打って流れていた。

生まれてから一度も出会ったことのない光景だ。…でも私は、
その瞬間の水の温度や、緩やかな圧で押される感触さえ覚えていた。

VR学習による脳内バグなのか?…いや違う。
生きていたのだ、確かに。
私は、確かに地球で生きていたんだ。

今日も一日の始まりから、ディアーナの淡々とした講義が続く。
数学論は嫌いじゃないけれど、今日はもっと違う話が聞きたい気分だった。
「ごめん、ディアーナ、もう無理」
休憩まであと30分だったけど、私は自分の衝動に素直に従うことにした。
『無理とはどういうことですか?マアヤ』
「無理は無理、無理以上の何ものでもないよ」
この場合の「無理」ってのは、身体性を伴う人間の情動だ。
なので、AIのディアーナに対して、真にこの意味を説くのは難しい。

「もう少し補足するなら、違う話がしたいの。
 数学論の残りは次回にして欲しい」
数秒の間があって、ディアーナが回答する。
『提案は有効なコミュニケーションの一つです。受け入れます。
 何の話が良いですか?』
ちなみにこの間は人間のための余韻。
ディアーナの結論は既にfsec.で決まってる。

「昨日見た夢の分析をしたいの」
『夢とは、睡眠中あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像…』
「あ、あ、あ、ちょい待ち、待ち…」
インプットされるとアウトプットせずにはいられない…、
ひょっとすると…これが、AIにとっては一種の情動なのかもしれない。

そんなディアーナを上手く制御して、私は昨日見た夢の光景を探り当てた。
「…こ、これだ…」
ディアーナが探り当てた映像が、部屋全体に立体ARとして投影される。
『前時代の21世紀に撮影された海の中の映像です』

不規則に揺れる大量の水。
頭上から差し込む光が乱反射する空間。

そうなんだ…これが「海」なんだ…
講義で聞くのと実際に体験するのでは全然違う。
地球表面積の実に7割を占め、塩類を含んだ水の非常に大きな広がり。
そんな知識なんて、なんだか何の役にも立たないように思える。
こんな大量の、しかも自然の水の中にスッポリ埋まったら、
どんな感じなのかな?
知識以上の体験…そんな感覚を、私は必死で想像した。

『マアヤが見たものはおそらく、遠浅な海岸の白砂でしょう』
ディアーナのこの言葉に続いて、部屋の床一面にもARが投影された。

あの…白いキラキラした波打つもの!

『白砂は主に炭酸カルシウムを主成分とし、
 サンゴや貝殻の死骸に由来することが多い…』
そこからディアーナの解説が永遠に続いたけど、
ほとんど耳には入ってこなかった。
部屋の中、波を打ちながら形を変える白砂を追うように、走りまわった。
砂って…どんなものなのかな?
あれに触れてみたら、どんな感触なんだろう?

そんな衝動が私の心を奪っていた。

「…私、きっと、地球に生きてたんだと思う。ディアーナはどう思う?」
不用意にもそんな言葉が口を突いた。
AIに対して、些かバカなことを聞いちゃったな、と思ったものの、
覆水盆に返らず。
例のごとく、人間のための余韻の間の後に、ディアーナが答えた。
『マアヤはこのダークムーン・ステーションで生まれたNext Childです』
想像通りの答えが返ってきて、溜息が出そうになった次の瞬間、
『しかしながら、マアヤの中に「記憶がある」という点は、
 一概に否めません』
…と、ディアーナからの想定外の答えに、私は息を呑んだ。

『人間の記憶についてはいまだ解明できない部分も多いのです。昨今の研究者たちは、量子論的DNAには複数の情報体がある可能性を示唆しています。ここから考察するに、遺伝によってもたらされる情報が生体反応のみならず、もっと複雑な生命活動に影響している可能性もあります。つまり人間には、出産による外界との身体的接触、それ以前の記憶がある可能性も否めないのです』

不思議と…、その日のディアーナは饒舌だった。
よく分からない部分も多かったけど、
なんだかその言葉に強く胸を打たれた。

翌日は、コミュニケーション・デイ。
いつものホームルーム・メイトが集まる。
集まると言っても、もちろん、バーチャルでだ。
徹底した感染症対策のために、私たちは生まれてこの方、
誰ともリアルで会ったことがない。

「それちょっとおかしくね? 体験したこともない記憶があるなんて」
「なんかさぁ…新しいVRゲームとかになるんじゃね? 面白そう!」
…と、私の話に好き勝手言う男子たちに対し、
「でも、ディアーナの示唆だってあるんだから、一概には否定できないよ」
…と、唯一、私の味方をしてくれたのがウンギク。
一番の仲良しの女の子だった。

私たちの実体は、各個人の部屋に完全隔離されている。
実体は部屋に置いたまま、自身の3D虚像と共に五感を共有空間へ転送する、
このバーチャル・ホームルームだけが唯一、
人とのコミュニケーションの場所だった。

「まぁ…私の話は、ほどほどでいいよ…」
ホームルームでは何かしら、自分の考えや思いを共有しなければならない。
ちょっと気が引けたけど、私は例の「海」の話をしてみた。
みんながざわつくのは想定内。
話題の本人を置いてきぼりに、各々好きなことを語り始める。

ウンギクも他の子たちも、今年になってからのホームルーム・メイトだ。
ホームルーム・メイトは、不定期に入れ替わる。
生まれてから今まで、同じ歳の子たちには何十人と会ってきたけど、
その子たちが今はどうしているのか…全く分からなかった。

「ねぇ、それって、マアヤのお母さんの記憶なんじゃない?」
話題を変えたい私を押し返して、ウンギクが話を引っ張る。
それも、あまり気乗りしない話題でぶっこんできた。

このところ、「お母さん」と言うのが、ウンギクのイチ推しだった。
今年になってからの授業で、
私たちが父親という存在と母親という存在の生殖によって、
母親による妊娠・出産という行為の結果、
生まれてきたということを知った。
それからと言うもの、
ウンギクの「お母さん」と言う存在に対する恋慕は半端なかった。
不思議と…みんな、それに対して特段、反発も否定もなく
…むしろ好意的だった。

私だけ…一人、なんだか釈然としないものを抱えている。

「それじゃ、時間軸が合わないよ…
 少なくとも21世紀なら200年前の話だしね」
ウンギクが、得意のエモーショナル劇場を展開させたいのは分かっていた。
友達の願いを叶えるより、相変わらず、
自分の情動を優先させる身勝手な私が居る。
「はい、おしまい。さ、次いこ」
不服そうなメイトたちを横目に、私はその話を強制終了した。

ホームルームが終了すると、私だけの部屋にまた五感が戻ってくる。
私だけの…たった独りの空間。
コミュニケーションのストレスから解放された、多少の安堵感もある。
でもいつも…、千年の孤独に封印されている、そんな絶望感があった。

私たちの住む、このダークムーン・ステーション。
窓の外に広がる無限の暗闇に目を凝らしても、地球を見ることはできない。

ダークムーン・ステーションは、月の裏側に建設された人類救済の拠点。
感染症の時代を経て、核戦争で疲弊した地球。
その地球から逃れ、人類の生き残りを乗せたノアの箱舟。
そこから私たち人類は、新たな時代「月の裏側の時代」に突入した。

『疲れてますか?マアヤ』
私の心拍数と血圧の変化から、ディアーナがすかさず起動する。
私たちNext Childには、ディアーナの手厚いケアと教育が施されていた、
…と言えば、聞こえが良いが、

私には…なんだか、四六時中監視されているように思えた。

「大丈夫…ちょっとホームルームがエキサイトしただけ、お茶入れて」
こうお願いするだけで、今の私の体調に合う最善のお茶が淹れられる。

それだけ、私たちNext Childには、価値があった。

あらゆる感染症を克服し、智・徳・体技を兼ね備えた新人類。
次の新たな時代を担うため、地球へ帰還する最初の人類になるからだ。

ディアーナが淹れてくれたお茶を啜る。鎮静効果のあるハーブティだった。
なんだろう…入眠作用もあるのかな…?
急に瞼が重くなり、私はそのまま眠りについた。

その日…、いつもとは少し違う夢を見た。
目の前には、果ての無いうねりが一面に広がり、
耳の奥で、流体の打ち付けるような音が、周期的なリズムを刻む。
濡れた身体…、正面からの乾いた空気の塊に押され、
体熱が気化するような感覚。
人の声…、 笑い声…?
女の人が、私の手を引いている。
「‥‥」
名前を…、遠くでその人が私を呼んだような気がした…、優しい声だった。

次の日は、メディカルチェックの日。
『マアヤ、大丈夫ですよ。リラックスしてください』
明らかに不貞腐れの、態度の悪い私をディアーナが宥める。
と言うのも…数あるイベントの中で、この日が一番嫌いだからだ。
ほぼ丸一日、拘束されて自由が利かない、それどころか、
自分の身体を隅々まで調べられる…
決して、気持ちの良いものではなかった。

ぴちぴちの十四歳に、
丸一日掛けて調べるような瑕疵なんて、ねーっつーの!

全身のスキャンの後には、体液の採取。
微細な針は刺さってもほとんど痛くはなかったけど、
あの尖った先が身体に刺さるのは、正直ちょっと…苦手だった。

こんな時は楽しいこと、昨日初めて見た夢に想いを馳せた。
検索した結果…予想的中。私が見たのは、海の夢だった。
しかも今度は、海岸から海を眺めて、浜辺で遊んでいる夢だ。

やっぱり私には、地球に生きていた時の記憶があるとしか言いようがない。
何か似たようなコンテンツを観たことがあるか?と問われれば、
記憶にない。
それに、あの…身体性を伴う感覚の再現。
風に吹かれて、身体が乾く感覚なんて…
この月の裏側では絶対に有り得ない。

今の私として生まれてから、一度も味わったことがない感覚なんだ。

『次の工程は少し不快な感覚があるかもしれませんが、
 気を紛らわしていきましょう』
そんな陶酔中の私を、
ミッションに忠実なディアーナの一言が現実に引き戻す。

あ、あれだ…そう思った瞬間、私の不快指数がマックスになった。

そう…今年に入って暫く経った頃、とうとう生理が始まったのだ。
生理が始まったことにより、追加された工程…卵子の採取だった。
高性能内視鏡でアプローチしての採取、
これもほとんど身体に傷はつかないものの、
この…凌辱された感には強い反発心を覚えた。

…これ、何のためのものなの?

そもそも生理が来たこと自体に反発心があった。
『おめでとう、マアヤ。これであなたも大人の仲間入りです』と、
ディアーナは祝福したけど…、一ミリも嬉しくはなかった。

…ってか、「大人」って言うものが何なのか? 全然、腑に落ちていない。

社会学の中で「成人」の定義は習うものの、
実際に「大人」のExampleを知らない。
そう、生まれてからこの方、
自分と同じような歳の子たちとしか会ったことがない。
だから、生まれた子供にとって最初の大人が父親と母親だと聞いた時も、
怒りを覚えた。
見たことも、触れたこともないものを理解しろ、だなんて…
なんて横暴なんだ!と。

『マアヤ、よく頑張りましたね』
気が付くと、ちょうど卵子の採取が終わったところだった。
メディカル・アームが小さく唸りながら、私の身体から離れていく。

『残す一工程で、全て完了です』
残す一工程…、免疫強化剤の注入だ。
比較的太目の針が二の腕の筋肉に刺さると、
チクっとした若干の痛みがある。

痛みを紛らわすために、私はまた、あの夢のイメージを模索する。
そう言えば、あの声の人…一体、誰だったんだろう?
異物が流れ込む不快感と闘いながら、
私は必死にその声の輪郭を思い出そうとした。

その日の終わりは、居心地の悪い疲労感でぐったりだった。
『マアヤ、望みのものがあれば言ってください』
私を労おうとディアーナが心を尽くす…いや、ディアーナに心はない。
あくまでも、自己のアルゴリズムに忠実なだけ。
Next Childの心身の健康を保つことが、彼女の最優先の命題なだけだ。

人間は思いたいものを思ってしまう…、
尽くされている…と思いたい人間の願望が、
勝手に意味付けしてるに過ぎない。
そう考えた時、私の「地球に生きていた」という確信も…、
ただ、思いたいものを思ってしまっているだけなのだろうか?

この問いへの答えは、ディアーナの言う「量子DNA」の中にある。

DNA - デオキシリボ核酸 -
その二重らせん構造の発見は、前時代の分子生物学を飛躍的に発展させた。
しかし、全遺伝情報(ゲノム)の解読によっても、
「生命とは何か?」と言う問いに対し、
人類はいまだ答えることができない。

その問いに挑戦し続けているのが、量子生命科学だ。
分子のずっと奥の、原子、電子、陽子、中性子、
または、もっと奥の素粒子の量子状態による生命の定義

中でも、量子論的認知脳科学の分野では、
古典的論理の枠組みでは理解することの出来ない、
人間の推論や認知判断を扱う。

その中の一つに、人間の記憶がある。

ここに一つの謎がある。
私たちは生まれたその瞬間から、
ある程度の情緒と個人特有の才能を持っている。
快・不快から始まり様々に分岐する感情は、
一体どこで学んできたものなのだろうか?
また、身体的な発育と共に、個人特有の才能も明らかになってくる。
足が速い子、力の強い子、耳の良い子、手先が器用な子。
それらの情緒や才能も、一種の記憶と言っても過言ではない。

量子論的DNAには複数の情報体が存在し、それらの中に、
今の自分として生まれる前の記憶がストックされていると言う、
ディアーナの解説は、私の心を捉えて離さなかった。

しかし…私として、一つの疑問がある。
量子DNAの記憶は私自身の記憶なのか、
それとも受け継がれたものなのだろうか?

自分自身が「地球に生きていた」と確信する私にとって、
自分という存在が、
「父親と母親という第三者の介在によって、その生命が受け継がれてきた」
という事実は、かなりの衝撃だった。

自分の起源が…、そんな誰かのコピーみたいなものだったのか…と。

その瞬間、私という個体は私という独立した存在だ!という思いが溢れた。
人知れず…心の中では、そんな反逆精神が激しく暴れていた。

居心地の悪い疲労感は、私を眠りの淵へと誘った。
遠くで歌のようなものが聴こえる…、誰かが静かに歌っていた。
次の瞬間、圧倒的な安心感が私を包んだ。
私は…、あの声の主に抱かれて眠っていた。

『マアヤ。今日の予定は全てキャンセルにしましょう』
次の日、経験したことのない不快な倦怠感で目が覚めた。
風邪すら、滅多にひいたことがないのに…、
なんだろう…身体の自由が利かない。

苛立ちの中…気怠い頭で、昨日の夢を手繰り寄せる。
薄々は分かっていた…けど、認めたくはなかった。
でも、生物としては必然だ。
…地球に生きていた私は「お母さん」と暮らしていた。

「ははっ…」 思わず、赤ん坊みたいな自分が笑えてきた。
独立した存在だ!なんて、あんなに意気がっていたのに。
今はこの不快な倦怠感から逃れるため、
あの人に抱かれた安心感を再現している。
今の私のお母さんも…
このダークムーン・ステーションの何処かに居るのかな?
ふと…そんな、今まで考えたこともないような思いまで押し寄せてきた。

でも、いくら安心感を再現しても、肉体的な苦しさは増してくる。
不快な寒気と共に、身体の節々に痛みを感じる…、何なの?…とその時、
「ピィ」という短い警報音のようなものと共に、
私のベッドの周りがシールドされた。
カプセルのようになった私の寝床の中に、
空気が循環するような音が鳴り始める。

呼吸が荒くなる…、息苦しさと共に、身体が熱くなってきた。

急な体調の変化と、いつもと違う環境に幾ばくかの不安を感じ始めた頃、
永遠の鉄壁だった私の部屋が静かに回転を始める…壁が、壁に穴が開いた!
ぽっかり開いたその穴から、
何体かの生き物がぞろぞろとこちらへ近づいてくる。それは…、
ホームルーム・メイトの子たちでもなければ、ウンギクでもなかった。
今まで出会ったことのある誰でもない、人間たちだった。

「だから私は反対だったんだ」
「単純なアデノへの免疫がここまで弱いとは…」
「単純だと!? 重症化しやすい7型じゃないか、楽観視しすぎなんだ」

彼らは、私を閉じ込めたカプセル越しに何かを話し始めた。

「しかし、M-34はもう十四歳です…
 そろそろ完全体として遺伝情報を保管しないと…」
「…この状況から回復する確率は?」
「全くの不明です…」
「この子の優性遺伝に懸けるか…または、
 抽出した卵子に希望を見出すか…だな」
「智・徳・体技…全てにおいて優秀だったのですが…残念です…」

そう言い残すと、彼らは私の元から去り始める。
去って行く彼らの背中を見て…私は、全てを悟った。

…私たちNext Childが、地球に帰ることはない。

免疫強化剤とは名ばかりで…あれは、耐ウィルス試験だ。
この試験をパスした者だけが、遺伝情報を保管し、大人になれる。
今までホームルーム・メイトだったあの子たちも、
この過程で淘汰されていったんだ。

そして…無事、試験をパスして大人になったとしても、
その先に明るい未来はない。
去って行く彼らの背中は大きく湾曲し、
身体を引きずるかのように歩いて行く。

月の重力は、地球の六分の一。
低重力下における哺乳類の繁殖が困難であるデータは、
何処かで見た記憶がある。
仮に誕生できたとしても…おそらく、
その後の骨格発達にも影響があるのだろう。
成長期以降の発達異常により身体は退化、短命に終わる可能性も否めない。

なんだ…私が、帰れるわけじゃないんだ…
私の、遺伝情報だけが帰れるんだ。

苦しさの中、朦朧とする頭で必死に考えた。
私たちNext Childは…人類の遺伝情報を乗せた、
生きたノアの箱舟に過ぎなかった。
頭で理解できても、感情が付いていかない。
これだけのEvidenceを突き付けられてもなお、実感が湧かなかった。
理性を飛び越えて、きっと心は「こんなの嘘」って思いたいって…
暴れている。

「…ディアーナ…」
いつも考えが混乱すると、私を導いてくれたのはディアーナだった。
こんな時こそ、ディアーナと話したかった。
乾いた喉でコマンドを実行する…だけど、ディアーナが起動しない。

…ディアーナとの接続が切られていた。

恐怖が、一気に押し寄せる。
生まれた時からずっと…ディアーナに守られてきた…
「……!!!!」
私は力の限りを振り絞って、ディアーナと引き離された恐怖に絶叫した。

太陽は大きくて、ジリジリと私たちに照り付ける。
海から吹いてくる風は少し湿っていて、なんだか塩辛い匂いがする。
私たちに吹き付ける風と同じ風に乗って、遠くで大きな鳥が鳴く。

お母さんの私を呼ぶ声がする…あ、
もう帰る時間なんだ、帰る?何処に帰るの?

振り返った途端、強い風に吹かれて、何かを手放した。
それは、白くて薄くてピラピラと風に巻かれると、海に落ちた。
海に落ちると、それは分解されることなく、長い時間、海を漂う。
そんなピラピラは、何処からともなくどんどん集まってきて、
海を覆いつくす。
最後には、波に砕かれ粉々になり、永遠に消えることはない。

…そんな、ちょっとしたことがきっかけで、
海はどんどん汚染されていったんだ。

…!? 暗闇の中、目を覚ます。
私を隔離するカプセル、その電子機器類だけが仄かに灯っていた。

…どれくらい、眠っていたんだろう。
あんなに熱かったのに…今は、その熱さえ感じない。
もう一滴の水分も残っていないみたいに、カラカラに乾いていた。

眠っている間、いくつもの夢を見た。

核戦争以前、生物は約200万種類も存在し、
人類の人口も約100億に到達する勢いだった。
いまや、厳選された数1000種の生物と、僅か数100万人程度の人類が、
この月の裏側で、なんとか命を繋いでいる…でも、それももう限界に近い。
地球環境に最適化した生物としての宿命。他の場所では生きられなかった。

ただ…地球を追われたのは、自業自得なんだ。

大量消費の果てに地球環境を汚染し、その顛末としての食糧や資源の枯渇。
最後は、覇権を争っての、核戦争。

残された生物と人類を保管し、
やがて自己修復が済んだ地球へ帰還を果たす。
「月の裏側の時代」…人類はこの命題のために全てを懸けてきた。
でも、この命題は…この200年間、決して実現することはなかった。

一度、壊してしまったものは…そんなに簡単には直らないんだ。

こんな結末になるとも知らず、
前時代の人々は地球の上で生を謳歌していた。
獲物を狩り、美味しいものを食べ尽くした。
快適な生活を求めて、化石燃料を燃やし続けた。
ひょっとすると、それはそんなに悪いことじゃなかったのかもしれない。
一人、一人が、ちょっとした身勝手を辞められなかっただけ。
その一人、一人のちょっとした身勝手が、
やがて来る終末を招いてしまっただけなんだ。

私が地球に生きていたのが本当なら、
私もその身勝手な住人のうちの一人だ。
それでも、私がその身勝手な住人のうちの一人だったとしても、
私は…今の私は、地球をそんな風にしてしまったモノたちが、憎かった。

私から、地球の自然に接する身体的な喜びを奪った、
私から、家族や友達と過ごす普通の暮らしを奪った、
私から、お父さんとお母さんと生きる安らぎを奪った、

…そんな全てが恨めしかった。

私はウンギクみたいに素直じゃないから、あんな風には出来なかったけど、
「…お母さん、辛いよ…、苦しいよ…」
命が消えそうな辛さの中、微かな声が私の口から零れた。
次の瞬間、いつも感じている光が、ディアーナの光がブーストし始めた。

『マアヤ。今の望みは何ですか?』
…ディアーナが、…こんな気の利いたこと、聞いてくるかな?
俄かに信じがたい…けど、確かに…この光は、ディアーナの周波数だ。
途切れそうな意識の奥底に、ディアーナとの接続を感じる。
その瞬間、
私の口から「…うみ、みたい…」と零れた言葉がコマンドとなった。

『要望は了解されました』

ディアーナの本体は、量子コンピューティングの塊だ。
私の奥の奥にある絶対真空のエネルギーが、
そのアルゴリズムの中に浸入する。

身勝手な私だけど…最後にもう一度、海が見たかった。

「…なんだ!? 小型偵察機が一機、予定外に飛び出したぞ!」
「え、何が起こった!? すぐ、デバックしろ」
「…いや、デバック・ログに特に異常は…ディアーナにも異常検知は無い…」

メイン・エリアのエンジニアたちが論議している最中、
私の意識を乗せた小型偵察機は月の裏側から飛び出し、
地球を目指していた。

生まれて初めての解放感! 自分の意志で好きな場所へ行けるんだ!

コックピットの計器は、月の表側まであと「10mins」と示していた。
胸の高鳴りを押さえつつ、祈るような気持ちで、その時を待つ。

月の表側に出た瞬間…夢にまで見た、地球が丸く浮かんでいた。

「M-34の意識脳波、確認できませんが、生命反応はあります…
 一体、何が…」
「母性をベースにした育成AI…
 アルゴリズムとしては正常な判断ってことか…」
「…ディアーナがM-34を解放したってことでしょうか!? 
 …回収しますか?」
「…いや、いい、あの小型機では大気圏には突入できない…可哀そうだが…」

あれから、半日くらいたったと思う。
地球の周回軌道まで辿り着くと、
潤沢な青い惑星は…今にも滴り落ちる果物みたいだった。

…綺麗だ。

あの白い部分はおそらく雲で、あの青いところが全部…海なんだ。
核戦争の後は、長い間、真っ黒な雨や灰が降り続いたと言う。
信じられない…こんなに綺麗なのに。
今もまだ人が住むことができないなんて。

でも、私は信じた。
きっと、私はあそこに帰れる。
帰ったら、絶対、海で遊ぶんだ。

ちゃんと帰れるように、私は私自身を地球に返すことにした。
小型機は減速すると、周回軌道を外れ、大気圏に突入。

一筋の光が、地球の空で燃え尽きた。

うみ、はじめてきた、うみ、たのしい。
ざざっ、ざざって、なみがきて、
みずにはいって、ぱしゃ、ぱしゃ、したら、もっとたのしい!

おそら、みたら…あれ…? しろい…おひさま?

「何見てるの?」
「おねえちゃん、あれなに?」
「あーお月さまだよ。昼間はね、白く見えたりするのよ」
「あたし…、あそこにいたきがする」
「えええ、お月さまに!!?? …まぁ、そういうこともあるか…」

なんかね、ずーっと昔、お月さまに住んでたことあるみたいよ。
人類はね、お月さまから来たんだって。

<終>


量子記憶

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2023年3月17日 初版発行

著者         宮坂満美
連絡先        Twitter: @suwano_sakuya

Copyright © 2023 宮坂満美
All rights reserved.

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