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『永下のトンネル』~第28回ゆきのまち幻想文学賞長編部門佳作~

 永下のトンネルに、兵隊の霊が出るってよ。銃剣を肩に掛け、椅子に座ってじーっとこちらを睨んでいるんだ。そして目が合ったら最後、体が硬直して動けなくなり、銃剣で一気に喉を突き破られる。そんな兵隊の霊が、永下のトンネルに出るってよ……

 僕はむつ市大湊駅に降り立った。中学一年の時、大湊中学校を転校して以来、二十年ぶりの大湊となる。
 僕は久しぶりに大湊の駅前通りを歩く。よく行った文房具店も、ビデオレンタル店も今は無く、シャッターを閉じた店が目立つ。
「昔はもっとにぎやかだったような……」
 僕は二十年の時の流れを感じた。
 バスの時間まで海岸通りを少しばかり散策していると、なにやら白く大きなものを牽引した車が、ごとごとと僕の横を通り過ぎた。
「ん? ヨットか……」
 そういえば、ここから歩いて十分ほどの所にヨットハーバーがあったことを思い出した。ほんのりと潮の香る、小さなヨットハーバーだった。

  僕はバスで川内方面へ向かい、城ヶ沢じょうがさわのバス停を降りた。そして国道を数分歩いた先にある、細い山道を山に向かって登り始めた。登るにつれてどんどん草木が生い茂り、山道はみるみる細くなっていく。先程まで見渡せた陸奥湾が、高い木立に隠れて見えなくなった。
「確か、この辺だったかな」
 僕は地図と記憶を頼りに山道を登り、一時間ほどかけてようやく目的地に辿り着いた。
『永下トンネル』
 車一台やっと通れるほどの小さなそのトンネルは、高い草木に隠れるようにひっそりと佇んでいた。入り口は錆びた鉄の柵で覆われ、色褪せた立ち入り禁止の鉄製看板が、今にも落ちそうに斜めにぶら下がっていた。
「なんか寂れた感じだな」
 二十年前はこれほど草木が生い茂ってはおらず、柵もなく、トンネルの中が遠くまで見通せた。石積みの重厚なその姿に、小さいながらも風格さえ感じられた。
 草木を掻き分け、僕はトンネルの入り口へと向かった。そして、トンネルの向こうに見えるほんの小さな光を見ながら、まだ中一だった頃の、不思議な出来事に思いを馳せた。

「なあ、知ってる? 永下のトンネルに、兵隊の霊が出るんだって」
「兵隊?」
「そう、銃剣を肩に掛けた兵隊の霊。なあ、翔太。転校する前に、一緒に永下のトンネルに行ってみるか」
「怖くない?」
「大丈夫。兄ちゃんがちゃんとついてるから」
「行こう、行こう!」
 夏休みも中盤を過ぎた頃、僕は四歳年下の弟と一緒に、永下のトンネルに向かった。
 大湊中学校には昔から、永下のトンネルに兵隊の霊が出るという噂があった。銃剣を肩に掛け、椅子に座ってじーっとこちらを睨んでいる。そして目が合ったら最後、体が硬直して動けなくなり、銃剣で一気に喉を突き破られる。そんな噂が昔からあった。ただし、その霊を実際に見た人は誰もいないし、見に行こうという人もいない。僕は東京の中学校に転校する前にそれを確かめたいと思い、弟の翔太と一緒に永下のトンネルに向かったのだ。

「おい、翔太。わいから離れるなよ」
「うん、兄ちゃん」
 僕らは手をつないで恐る恐るトンネルの中へと足を踏み入れた。暗くなっては怖いからと、晴天の昼間にやってきた。しかし中は暗く、寒く、まるで闇夜のようだった。僕らの声と足音だけが、木霊のように耳に響いた。
 十分ほど歩くと、光が辺りを照らしてきた。出口がもうそこに迫っていた。
「兄ちゃん、なんも出ないよ」
「そうだな、なんも出ないね」
「なーんだ、つまんない」と翔太が僕から手を離したその時、
「お前ら、どごさ行ぐんだ?」
 背後から声が聞こえた。びっくりして僕らは振り向くと、着物姿に草履を履いた、坊主頭の二人の少年が僕らを凝視していた。
「あっ、いや別に……」と慌てていると、背の高い方が僕に尋ねてきた。「お前ら、名前何ていうんだ?」
「名前? わいは拓也で、こっちは弟の翔太」
 翔太は僕の後ろに二三歩下がった。
「たくやとしょうた? 変な名前だな。わいは正一しょういち、そしてこいつが弟の正二しょうじ。お前ら、年はなんぼだ?」
「わいは十二で、弟が八つ」
「そうか、わいは十三でこいつが九つ。ほとんど一緒じゃないか。しかし、お前らどっから来たんだ。格好もなんか変だし」
 正一は、僕と翔太のブルーのジャージ、散髪していないぼさぼさの頭、そして派手な色のスニーカーと、目を上下させてじろじろと僕らを見ている。
「わいどは、すぐ近くに住んでて……」と少しびくびくしながら答えると、
「近く? そんな変な格好してる奴はこの辺にいるもんか。まあいい。とりあえず、こっちに来いよ」と言って、正一と正二はトンネルの入り口に向かって歩いていった。なにがなんだか分からなかった僕と翔太は、とりあえず正一の言うまま来た道を戻り、トンネルの外に出た。
 すると目の前の景色が一変していた。周りに草木が生い茂ってはおらず、山道が来た時より整備されている。立ち並ぶ木々も無く、陸奥湾がよく見渡せる。さらには、住宅地だった所が畑になっていて、建物が明らかに少ない。見慣れたはずの遠くの海上自衛隊も、いつもと雰囲気が違って見えた。「なあ、ここって大湊だよな」と正一に尋ねると、「何言ってんだ、大湊だよ。やっぱりお前ら、ここのもんじゃねえな」と、正一は確信したようににやりと笑った。
「さあ、山を下りるぞ。お前らに見せたいものがある」
 正一は僕らについてくるよう手で合図をし、正二と一緒に山道を下っていった。翔太はずっと僕の手をつかんで放さない。その手をしっかりと握り返し、二人を追って僕らも山道を下った。

 「なんか変だな……」
 町に出ると先程感じた異変が確かなものとなった。アスファルトの道路が砂利道になっていて、コンクリートの電柱が木になっている。あったはずのコンビニもバス停も郵便局も、何もかもが存在していないのだ。
 やっぱり変だ。ここは大湊ではない。
 僕はどこか知らない町に迷い込んだと思った。しかし、目の前には見慣れた陸奥湾と芦崎、後ろには釜伏山がはっきりと見える。形も大きさもなんら変わっていない。確かにここは大湊だ。でも何かが違う。茅葺きの家につるべ井戸、そして草履を履き着物姿で通り過ぎる多くの人達。僕は思った。
 過去にタイムスリップしたんだ。
 目をきょろきょろさせて落ち着かないでいる翔太に、時間が経てば必ず帰れると小さな声で言い聞かせた。翔太はすぐに落ち着きを取り戻し、ほっとした表情を僕に向けた。

 長い坂のある宇田町うたちょうの三叉路に僕らはやってきた。町の景色は違っても、道の場所は今とは変わらないので大体の場所は特定できた。この坂を海に向かって下りると海上自衛隊の東門がある。
「ここを下りるぞ。凄いものを見せてやるから」と、正一は僕らを急かした。
「この先は海上自衛隊だよね」と口にすると、「じえいたい? なんだそれ? この先は大湊要港部だぞ」と正一は僕を鋭く睨んだ。
 そうか、今とは時代が違うんだ……。
 うかつにしゃべらない方がいいと、僕は黙って坂を下った。

「これ以上行くな」
 正一は急に坂の途中で僕らを制した。坂の下には東門が見えるが、見慣れた様子とは全く違った。いつもは守衛さんの、出入りする隊員さんと笑顔を交わす光景がよく見られるが、そういう和やかな雰囲気は一切ない。杖のように銃剣を持った守衛さんが、厳しい顔で前を向いて直立している。
「あっ!」
 正二が何かを指さした。その指の方向に大きな船が見えた。大湊湾から芦崎を越えて、黒い煙をもくもくと上げながら芦崎湾に進入していた。
「護衛艦か? なんだか凄い煙出てるよ」と思わず口にすると、
「ごえいかん?」
 正一はまた眼光鋭く僕を睨んだ。
「さっきからお前何言ってんだ。おらほの軍艦陸奥だぞ。連合艦隊の軍艦陸奥。しかも煙出てるって、動いてるんだから煙出るの当たり前だろ」
 僕はまた口を滑らしたと思った。

 もくもくと黒煙を上げるその軍艦を眺めていると、海岸沿いの堤防に立つ、一人の老人が目に入った。その老人は背筋をぴんと伸ばし、軍艦に向けて敬礼をしていた。
 見たことのない老人の行動に、何してるんだろう……と首を傾げていると、正一は神妙な面持ちで話し出した。
「あの人は柳谷さんといって、海軍に土地を提供した地元の名士さんなんだ。海軍が来た時は土地のことでいろいろ揉めたようだけど、今はこうして国家の繁栄を願い、毎日こうして海軍に敬意を払っているんだ」
 正一は静かにその老人を見詰めた。老人はずっと敬礼を続けていた。

 ドーン!
 突然大きな音が響いた。
「正二、始まったぞ。お前らも来い」
 二人は海に向かって走り出した。僕と翔太も走って後をついていくと、先程まで静かだった海岸に多くの人が集まっていた。みんな一様に海を見ながら歓声を上げている。日の丸を振る群集の塊が、堤防に沿って遠くまで続いている。人を掻き分け四人一緒に堤防に上がると、海上では何隻もの軍艦が隊列を組んで走行していた。旭日旗が風になびき、遠くから軍艦マーチが聞こえる。どこからか「我が連合艦隊は!」と張り上げる演説の声も聞こえる。
 ドーン!
 再び巨大な音が響いた。軍艦陸奥が上空に向けて砲弾を放ち、砲身の先からどす黒い煙を上げていた。熱を上げる歓声と拍手。負けじと音楽隊も音を張り上げ、演説の興奮も頂点に達する。日の丸を振る音も地鳴りのように響き渡る。
 軍艦の隊列は、ごーっと低い音を立てながらうねりをあげて目の前を旋回した。そして空を覆うほどの黒い煙を吐き出しながら、芦崎を越えて、ゆっくりと大湊湾に抜けていった。
「凄かったなあ」
 正一が呟いた。放心状態で、何も言葉が出ない。目の前の勇壮な光景に、僕ら四人はただただ圧倒されていた。
「そうだ、いいもの食わせるから、ついて来い」
 町に余韻が残る中、正一と正二はすたすたと向こうに歩き出した。まだ興奮気味だった僕と翔太は、言われるままに二人の後をついていった。

「ここだ」と正一が指さした建物は、『丸美屋まるみや食堂』と大きく書かれた木造のぼろい食堂だった。正一に促されるまま中に入ると、数人の従業員が忙しなく動き回る中、たくさんの兵隊さんが黙々と食事をしていた。兵隊さんが僕に気付くと、箸を止めて僕と翔太をじろじろと見始めた。従業員たちも一瞬手を止めて、ちらっと僕らに目を向けた。
「おばちゃん、いつものやつ四つ」と慣れた口調で正一が言うと、「あいよ!」と髪を後ろに束ね、割烹着を着たおかみさんらしき人が、大きな木の蓋を持ち上げて、背中を丸めてなにやら作り始めた。「あら、友だちかね?」とおかみさんが手を止めずに正一と目を合わせると、正一は小さくうんと頷いた。
 ちょうど隅っこに空いていた四人テーブルの丸椅子に座ると、「はい、どうぞ」と僕らの目の前に、海苔が巻かれていない真っ白なおにぎりが一人二個ずつ、皿にのってテーブルの上に出された。拳ほどの大きさの真ん丸いおにぎりで、ゆらゆらと湯気が立ち、香ばしい香りが鼻に抜けていった。
「おい、食って見ろよ。うめえぞ」と言って、正一はそのおにぎりを一つ取り、がぶりとかぶりついた。弟の正二も「うめー」と白い粒を鼻に付けて、大きく口を開けて頬張っていた。海苔が巻かれていない白いおにぎりなんて食べたことがない。僕と翔太はためらいながらそれを口にすると、
「うまい!」
 かなり塩味が利いてはいたが、すぐに甘さが口いっぱいに広がった。一粒一粒が口の中でほろほろとほぐれ、普段食べているおにぎりとはまったく違うもののように感じた。
「うまいだろ、これは米だ。めしではなく米の塩結び。ここでしか食えねんだぞ」と、正一は目を細めた。
「稗めしって?」とまた思わず口にすると、「お前、稗めしも知らねえのか」と、正一は眼光鋭く僕を睨んだ。兵隊さんも食事を止めて再び僕に目を向けたが、お腹が空いていたので僕は気にせずそのおにぎりにかぶりついた。翔太も米粒を鼻に付け、もぐもぐとおにぎりを頬張っていた。もう一つ、と勢いよく二つ目のおにぎりにかぶりついたその時、ふと壁に掛けられた日捲りカレンダーが目に入った。日付を見ると
『大正十年九月二十三日』
 僕は我に帰り、食べかけのおにぎりを皿の上に置いた。
 僕らは大正時代にタイムスリップしたのか? あっ、母の携帯!
 僕は母から携帯電話を借りていたことを思い出した。
 家に電話しよう!
 僕は適当な用事を告げて店の外に出た。人目の付かなそうな狭い路地に入って小さくしゃがみ、携帯をポケットから取り出した。アンテナを伸ばし、番号を押そうとすると、後ろに人の気配がして振り向いた。
「何だそれ」
「あっ、いや」
 正一が後ろに立っていた。僕はすぐさま携帯をポケットに隠した。正一は怪しそうに僕のポケットに目を向けて、「なんだ、その四角いの」と指をさして近付いて来たが、「いや、なんでもない」と目を逸らして答え、取り上げられないよう携帯をポケットの中で握りながら、急いでその場を立ち去った。
 食堂に戻り椅子に座ると、正一もすぐに戻ってきて、「さっきから変な奴だな、ははは」と、僕の顔を見てあきれたように笑った。そして「またいいもの見せてやるから、ついて来い」と、店を出てどこかに歩き出した。
 隙を見つけて後で家に電話をしよう。
 僕は翔太の手を取り、黙って正一の言うことに従った。

 一時間ほど歩くと、ひときわ大きな建物が見えた。周りに高い建物が一切無いので、その建物だけがやけに目立って見えた。
「見ろよ、大湊ホテル」
 正一はその建物を指さした。
 大湊ホテル? こんな所にホテルなんかあったっけ。僕は首を傾げた。この辺りは大型店が立ち並ぶにぎやかな場所。
 確かここにはスーパーがあって、家電量販店とホームセンターもあって、その隣に大きな塀があって……。そういえば、その塀の向こうに何か建物があったような。あれが大湊ホテルだったのか?
「大湊にこんな立派なホテルができたんだ。凄いだろ」と、正一は胸を張った。
「今日は開業披露宴があるから……」と言いながら、正一はぐるりと周囲を見回した。そして「誰もいないな。行くぞ」と言って体を縮め、忍び足で正二とホテルの門をくぐっていった。勝手に入って大丈夫かと、僕は翔太と目を合わせたが、周りに誰もいなかったので、とりあえず僕らも小さくなってホテルの門をくぐった。正一たちの後ろに続いて静かに窓際まで向かい、並んで窓枠の下に身をかがめた。そして四人一緒に、下からそーっと部屋の中を覗き込んだ。
 中では白軍服の軍人さんが整然と並んで座っていた。奥の方では、胸にたくさんの勲章をつけた白軍服の軍人さんが、険しい顔でなにやら演説をしている。
「ほら、見てみろ」
 正一は声をひそめて言った。
「大湊要港部の偉い人たちだ。俺も勉強して軍人になるんだ。偉くなって、国のために働くんだ」
 正一は真剣な顔で部屋の中を覗き込んでいた。真っ直ぐに何かを見詰める正一のその目に、何度も見せた鋭い眼光と同じ光が映って見えた。
「君たち、何してるんだ!」
 突然声がして左を見ると、白軍服とは違う、黒い洋服をまとった背の高い男がこちらに近付いてきた。
「まずい、逃げろ!」
 僕らは一目散に逃げた。角を曲がりホテルの裏に逃げ込むと、突然暗闇に包まれた。目が慣れて周りを見ると、そこは永下のトンネルだった。トンネルはここから歩いて二時間以上かかるはずだが、僕らは永下のトンネルの中にいた。
「あれっ?」
 僕は、ポケットの中に携帯電話が無いことに気付いた。
「しまった、携帯落とした」
「けいたい?」
 正一は眼光鋭く僕を睨んだ。そして何か気付いたような顔をして一言呟いた。
「お前ら、もしかして…………」
 正一は僕の目をじっと見ている。なぜか体が硬直し、動けなくなった。「あっ!」
 正二が振り向いて何かを指さした。その方向に目を向けると、突然トンネルの向こうから雪が吹き付け、目の前が真っ白になった。息もできない猛吹雪。吹き飛ばされないよう足を踏ん張り、手で風をよけ、目を細めて風の方向に目をやると、光を背にした兵隊が、列を成してこちらに向かってくるのが見えた。 
「兵隊さんだ! 行くぞ」
「うん!」
 正一と正二は兵隊の方に走り去っていった。置いてきぼりにされた僕と翔太はその場で立ちすくした。その僕らに向かって、三列の兵隊が迫ってくる。
 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ……
 雪を被り、銃剣を肩に掛けた兵士の行軍。
 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ……
 表情は吹雪で見えない。だが目はこちらを向いている。眼光鋭く、僕らに向いている。
「翔太、目を合わせるな!」
 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ……
 翔太は口を開けたまま固まっている。
「翔太逃げるぞ!」
 僕はとっさに翔太の手をつかみ、全力で走った。
 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、
 足音が早くなる。どんどん、どんどん速くなる。僕は翔太の手を強く引っ張り、必死に走った。
 ざ、ざ、ざ、ざ、
 兵隊が来ている、直ぐ後ろに来ている!
 ざざざざ、
 ざざざざ、
「翔太、逃げろ!」
「兄ちゃん、助けてーーーー」 

 ばっと目を覚ますと、僕は病院のベッドの上だった。翔太も隣のベッドですやすやと眠っていた。聞けば、僕ら二人はトンネルの入り口付近で倒れていて、それを営林署職員が発見し、すぐに通報したらしい。そして僕らはこの病院に救急車で運ばれ、一時は意識不明の危険な状態だったようだが、医師たちの懸命な処置によって、こうしてなんとか一命を取り留めた。よかったよかったと、両親はそばで泣いていた。携帯はやはりどこかで落としたようだが、そのことは問われることはなかった。
 それ以来、僕と翔太は永下のトンネルのことを一切話題にしなくなった。大湊を引っ越してからも、大人になってからも一度も話題にしなかった。

 あれから二十年。あの時の不思議な体験がどうしても気になり、あの日と同じ八月一五日、僕は再びトンネルの前に立った。あの日の出来事は夢だったのでは? トンネルに入る前に何かの原因で僕らは倒れ、そのまま病院に運ばれたのでは? 仮に本当だとしても、なぜ僕らは過去にタイムスリップをし、あの二人の少年と出会ったのか? そして、僕らに放った最後の言葉。
「お前ら、もしかして……」
 正一は僕らに何を見たのか? そしてなぜ、僕の体は動けなくなったのか……?

「どごの人だべ」
 振り返ると、一人のお婆さんがこちらを見ていた。
「何してんだい? こんなどごで」
 お婆さんは不思議そうにこちらを見ている。
「あっいや、永下のトンネルを見に……」
「永下? なしてこったらトンネル見さ来だの。こったらどご見さ来だって、あんだもおもしぇー人だいな。ところであんだ、どごの人だ?」
「東京です」
「やいやー、東京がらわざわざこのトンネル見さ来だのが。ご苦労だの……」と言いながら、お婆さんは風呂敷から、サランラップで包まれた白い物を取り出した。そして「ほら、ひとつ食べへ」と、僕にそれを手渡した。それは海苔で巻かれていない、真っ白なおにぎりだった。
「こんな山んなが歩いで、腹減ってるべし」
 そのおにぎりは、ちょうどあの日の、丸美屋食堂のおにぎりと形も大きさも似ていた。朝、家を出てから何も食べていなかった僕は、「いただきます」とそのおにぎりを頬張った。塩の感じや口の中でのほぐれ具合。あの時食べた丸美屋食堂のおにぎりと同じ味がした。
「塩味が利いてておいしいですね」
「そうだべ。うめえべえ」
「昔、似た味のおにぎりを丸美屋食堂で食べたことがありまして」と何気に口にすると、
「あんだ、急に変わったごど言うね。まだ若いのに、なして知ってらの! わいのばあちゃんの丸美屋食堂。あんだ、年なんぼなの」とお婆さんは目を丸くした。
「三十二……あっいや、ここであの、二人の少年と出会いまして……」と答えに困っていると、
「丸美屋食堂ったら、わらしの頃、戦争前にわのばあちゃんがやってだ食堂だで。戦争終わって店閉めだのさ、なして知ってらの」と言った時、トゥルルルと携帯の音が鳴った。僕の携帯かと思ったが、それはお婆さんの携帯だった。
「はい、はい、ん? なんも大丈夫でら。ミズだのキノゴだのいっぺえ採れだして、今帰るどごだ。それよりよ、丸美屋食堂のお結び食べだって人いだで。まだ三十なんぼだってよ。不思議なこともあるもんだいな。とにがぐ、もう帰るして、待っとれ」と言って、携帯を閉じた。
 丸美屋食堂のこと、知っているのか?
 このお婆さんに聞けば、あの日の出来事が分かるのでは。
「あっ、すみません。丸美屋食堂って……」と僕が言い終わる前に、
「今は便利だの、こうして山ん中でも電話でぎで。まあ、どごのもんだが知んねえけど、あんだも早ぐ帰れ。山はすぐ暗くなるど」とお婆さんは山菜をいれた竹の籠をひょいと背負い、そそくさと山を下りていった。
 僕はお婆さんを呼び止めようとはせず、下山するその後ろ姿をじっと見詰めた。その丸まった後ろ姿は、あの時見た丸美屋食堂のおかみさんに、どことなく雰囲気が似ているような気がした。 

 青空の下、町を見下ろすと、様々な形をした色とりどりの家が、星屑のように小さく散らばっていた。遠くには陸奥湾が見え、四隻の護衛艦が青い海の上に整然と並んでいた。
 僕は大きく息を吸った。
 さあ、帰ろう。
 靴の紐を結び直し、これで最後とトンネルに目を向けた時、
「あっ、兵隊さんだ!」
 トンネルの中から子どもの声がしたかと思うと、息が止まるほどの吹雪がトンネルの向こうから吹き付けた。すると、
 ザッ、ザッ ザッ、ザッ……
 あっ、あの時の足音!
 猛烈な吹雪が顔に吹き当たる中、僕は目を細めてトンネルの中に目を向けた。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……
 吹雪を背に、雪を被った兵隊が、列を成してこちらに向かってくる。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……
 銃剣を肩に掛けた三列の行軍。兵隊の顔は吹雪で見えない。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……
 一糸乱れぬ行進の足音。
 あの時と同じ、あの時と同じだ。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……
 よし見てやろう。しっかりと見てやろう。あの日の出来事を、兵隊の顔を!
 一瞬一人の兵隊の目が光った。あの日と同じ鋭い眼光、あの時と同じ真っ直ぐな光。
 やはり正一君か? 君は正一君か!
 ゴーーーーッ
 突然の爆音に両手で耳を塞ぐと、鼠色の巨大な戦闘機が僕の真上を通り過ぎた。かと思うと辺りが急に薄暗くなり、町を見下ろすと、色とりどりの家は見る間に消えていき、なだらかな丘陵地が一面に広がった。その向こうには黒煙をもくもくと上げた幾多の黒い軍艦が、砲身を上に向けて灰色の海に点在していた。旋回する戦闘機の群れに軍艦が一斉に砲弾を放った。しかしその砲弾は戦闘機を大きく外れ、乱れ飛ぶ爆撃音と共に真っ赤な炎を上げて次々と軍艦は沈んでいった。すると、ドーンと耳をつんざく巨大な轟音とともに熱い空気が僕の体を叩き付けたかと思うと、雲の隙間から太陽の光が差し込み、鳥の声が聞こえ、花が咲き、赤、青、黄と次々と家が立ち並び、灰色だった空と海が抜けるような青となって目の前に大きく広がっていった。
 その海の上に、一艇のヨットが浮かんでいた。海の深い青に、真っ白な帆が美しく映えていた。
 そのヨットの向かう方向に、グレーに光る一隻の護衛艦が直進しているのが見えた。巨大な護衛艦と比べると、白いヨットはあまりにも小さかった。もしやぶつかるのでは、と思った瞬間、白いヨットはほんの少しだけ向きを変えて、何事もなかったように、護衛艦の船首の背後へと消えた。

(了)


あとがき
 第28回ゆきのまち幻想文学賞長編賞佳作です。主催者様から掲載許可を頂きました。ありがとうございます。
 いつものことですが、読み始めると直したいところが沢山出てきて、自分一人だと決断できず大変になるので(一度直して前の方が良い感じがしてまた戻すみたいな)、すこし体裁を整えながら一部だけ修正して、ほぼそのままの形で投稿します。
 下のリストは、青森県むつ市大湊地区を舞台にしている作品です。勝手に『大湊文学』と呼んでいます笑。海上自衛隊大湊地方隊などが登場します。


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