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『大湊ホテル』~第27回ゆきのまち幻想文学賞入選作~

 行き交う人々。交差する車列。周囲には大型店が立ち並ぶ。しかし、今そこに足を止める人はいない。高い塀に囲まれ、自らの存在を消すかのように、ひっそりとそこに佇む。
 ――大湊ホテル――
 訪れる人は誰もいない――。

「大湊要港部布目ぬのめ司令官、ただ今入ります!」
 ぴんと折り目の張った白軍服に、つばの尖った正帽。何十人もの軍人たちが、一糸乱れず隊列を組む。「一同! 敬礼!」空気を切る指先。ぐっと脇を締め、微動だにしない。
 ホテル入り口に、ほろ屋根の黒い官用車が入る。背の高い支配人が素早く近付き、ドアを開ける。「司令官殿、大湊ホテル開業披露宴へ、ようこそお越しくださいました」
「うむ」司令官は悠々と車を降り、ホテルを見上げる。司令官の目が大きく見開く。
「おおっ、美しい。これが大湊ホテルか!」
 真っ白な漆喰壁に、赤い瓦屋根。司令官は大きく息を吸い込む。木の香りが青空まで届く。「こちらへどうぞ」支配人に案内され、広間へと向かう。整然と並ぶ軍人たちと、挙手の礼をしかと交わしながら。

「いやー、緊張したなぁ」
 二人のボーイが、受付の椅子にどさっと腰を下ろした。すぐさま、背の高い支配人が早足でやってきた。
「おい、まだ休憩時間じゃないぞ」二人のボーイはしゃきっと立ち上がり、自分の持ち場につく。支配人は、少し斜めに傾いた柱時計を見上げ、ボーイに尋ねた。
「今日、最初の御予約は?」
「三時に二名の予約が入っております」
「気を緩めてはならない。まだ時間はあるが、精一杯準備をしてお客様をお迎えしよう」
 ボーイはすぐに準備に取り掛かり、支配人は披露宴会場へ足早に戻って行った。

「お母さん、もうすぐ着くよ!」
 砂利道を歩く親子二人。先程までの青空は雲に覆われ、風が強く吹き始めたとき、巻き上がる砂煙の中から、大湊ホテルがうっすらと現れた。
「お母さん、見て。真っ白だよ。すごくきれいだよ!」
「はぁー、すごいわねぇ。いいのかい、こんなところに連れてきてもらって」
「いいんだよ。さぁ、行こう」少年は母親の手を取り、入り口へと向かった。
 見たことのない大きな扉。少年は出っ張ったところに指を掛け、ちょっとだけ扉を開けて中を覗き込んだ。
「あれ、誰もいないよ」少年は、不安そうに母の顔を見た。「入っていいのかな?」「来るの、ちょっと早かったかねぇ?」母親もちらっと中を覗き、息子と目を合わせた。
 そのとき、柱時計の向きを調整していたボーイが二人に気付いた。
「お待ちしておりました」
 すぐさまボーイは梯子はしごから下り、それをカウンター裏に素早く運んで声をかけた。「三時に御予約の小松様ですか?」「はっ、はい。そうです」とっさに少年は返事をした。「ようこそお越しくださいました」ボーイは二人に近付き、「さぁどうぞ、お入りください」と、扉を開けて二人を歓迎した。
 少年は、そろそろと歩く母の背中に手を添えた。そして一緒に履物を脱ごうとしたとき、「あっ、どうぞどうぞ、そのまま脱がずにお入りください」と、ボーイは手の平を差し出した。二人はお互いの顔をちらっと見て、本当にいいのかと思いながら、そのまま恐る恐る中に踏み入れた。足元の感触は柔らかい。ふわふわと浮き上がる感覚に、思わずよろけそうになる。
 広間はあらゆる所が鏡のように輝き、高い天井から巨大な灯りが吊るされている。二人は思わず息をのんだ。壁には大きな柱時計。針は一時二十分を指している。少年は慌てて「まだ早かったですか、すみません」と頭を下げたが、「いえいえ、いいんですよ。どうぞ、ごゆっくりなさってください」と、ボーイはさわやかにもてなした。
「本当にいいのかい、こんな立派なところに泊めてもらって……」
「いいんだよ、お母さん。今まで苦労をかけてきたから、ほんの恩返しだよ」
 その会話を聞いていたボーイは、母親に優しく尋ねた。
「息子さんのご招待ですか?」
「ええ」母親は小さくうなずく。ボーイは少年の方に顔を向けて、にこりと話しかけた。「お母様への親孝行ですね」
「はい。これまでずっと育ててくれたお礼に、お母さんにゆっくりしてもらおうと、開業日に予約しました」
「そうですか」ボーイは穏やかにうなずく。すると、母親は恥ずかしそうに口を開いた。
「息子は今年、高等小学校を卒業して、町の電灯会社に勤めたんです。そして、その最初のお給料で、大湊ホテルの開業日に、一緒に泊まりに行こうって……」母親は息子の顔を見上げた。母親の目は少し潤んでいた。
「立派な息子さんをお持ちで何よりですね。今夜はごゆっくりおくつろぎくださいませ。精一杯のサービスを致します」
「有り難うございます」
 きりっとした少年の声が天井に響いた。
「それでは、お部屋にご案内致しましょう」ボーイは手を差し出し、二人を包むように案内した。

 腰まで高い机に、台の上の大きなお布団。そして、太陽のように眩しいランプ。初めて見る光景に、二人はしばらく目を奪われる。一時間ほど歩き通しで疲れた体を少しばかり癒やし、少年は母に聞いた。
「少し見て周らない?」「そうだねぇ」
 二人はそーっと扉を開け、ゆっくりと廊下に出た。
「見て見て、床屋さんがあるよ!」
 少年は驚く。その隣には見たこともない不思議な部屋。
「『撞球場どうきゅうじょう』……、何の部屋だろう?」
 中には大きな机がいくつも並び、壁には釣り竿のようなものが何本も掛けられてある。
「お母さん見て、ここ広いよ」二人は食堂に入った。夕食まで時間があるのでまだ準備はできていない。「ここで御飯を食べるんだよ。楽しみだね」二人は顔を見合わせ目を細めた。

「大正八年の着工から丸二年。数々の困難を乗り越え、ようやく開業したこの大湊ホテル……」
 廊下に出ると、どこからか声が聞こえた。それは、廊下をはさんで食堂と反対側の壁から聞こえてきた。前を見ると大きな扉。少年はその扉に耳をあてた。
「……文明の波が我が村にも押し寄せ、大湊ホテルは、その象徴として……」少年は何となく気になり、少しだけ扉を開けてみた。黄色い光と熱気が少年の視界を奪う。一瞬何も見えないが、慣れるにつれて、重なり合う白軍服の背中がぼんやりと浮かんできた。
 ――だめよ。それを見た母親が少年に手を伸ばし、たしなめようとした矢先、背の高い支配人が少年に近付いてきた。「どうなさいました?」「あっ、すみません」少年は慌てて扉を閉めた。開けてはいけない部屋だと思った。すると支配人は手を扉の方に向けて、思わぬことを口にした。
「よろしければ、中へ入られますか?」
「え?」少年は支配人の顔を見上げ、そして母の顔を見た。「どうぞお入りください」と、支配人は扉を開けて、二人に中へ入るよう促す。少年は戸惑ったが、支配人の温かな表情につられ、一緒に入ろうと母を誘った。支配人は、小さな丸机と椅子を部屋の片隅に手際よく並べ、二人を会場内へと案内した。
 二人はぎこちなく椅子に座る。前を見ると、密集する白軍服の大きな背中。さらにその向こうには、厚手の洋服で身を固め、立派なひげを蓄えた老人たち。そして、勲章を輝かせた白軍服の軍人さん。見るからに偉い人たちが、黄色い灯りに照らされて横一列に座っている。
「今こそ、ここ大湊を、世界の貿易港として繁栄させようではないか!」
 分厚い拍手が場内に響き渡る。風圧が鼓膜を叩くようだった。
「続いて、大湊要港部、布目司令官の御挨拶です」勲章を輝かせた軍人さんが正面に立つ。「ここ大湊要港部は、北日本唯一の海軍基地として……」
「どうぞ」支配人が二つの茶碗を机に置き、黄金色の液体をすーっと注いだ。「檸檬紅茶です」輪のような形のものが浮かぶ不思議な飲み物に、二人は目を合わせる。二人はそっと口をつけてみた。酸味が舌を刺激した次の瞬間、甘さがほんのりと口一杯に広がり、やさしい香りに包まれた。母親が小さく呟く。
「お父さんと、一緒に来たかったねぇ……」
 少年の目に、三年前に亡くなった父の笑顔が浮かんだ。
 ちょうどそのとき、窓の外に雪が見えた。二人にとって雪は珍しくない。でも今見えている雪はいつもと違った。雪の粒が大きくなったり小さくなったり。四×二の格子窓の外で、惑わすように揺れ落ちている。「大湊開港こそが国家の隆盛りゅうせいを」演説が心地よく聞こえる。白い背中の男たち。熱気が満ちる室内。その向こうの窓に、暗く冷たい明日あすが見える。激しさを増す窓の雪に、二人の意識が奪われていく。感覚が失われていく。軍人も地元の名士たちも、誰一人気付いていない。
 暗闇の中を、とめどなく降り続く雪。
 二人には、雪が下降しているのではなく、部屋全体が上昇して行くように感じた。遥か彼方に飛び去って行くように感じた。それは空間を越えて、時をも越えて。まだ見ぬ世界が、一瞬に過ぎ去って行くかのように――

 あれから百年。今はもう誰も訪れないが、雪だけは訪れる。白い壁は雪と同化し、ひとつになる。
 ――大湊ホテル――
 今年もまた、雪だけを迎える。
 ただ静かに。ただ真っ白に。

(了)

<コメント>
 第27回ゆきのまち幻想文学賞入選作です。主催者様から掲載許可を頂きました。ありがとうございます。戦争への高揚から現代へと時の流れを表現しています。
 いつものことですが、読み始めると直したいところが沢山出てきて、自分一人だと決断できず大変になるので(一度直して前の方が良い感じがしてまた戻すみたいな)、すこし体裁を整えながら一部だけ修正して、ほぼそのままの形で投稿します。
 下のリストは、青森県むつ市大湊地区を舞台にしている作品です。勝手に『大湊文学』と呼んでいます笑。海上自衛隊大湊地方隊などが登場します。

(追記)トラブルが発生したので、再投稿しました。


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