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数式小説『シュレーディンガーの φ』➁ 金髪の男

前回までのあらすじ

 1月20日、東京帝都大学、藤沢研究室の准教授就任祝いを兼ねた、雪村講師のドイツ留学の研究発表会が、神奈川の山あいにある大学のセミナーハウスで行われる。その会場準備のために、同じく藤沢研究室の修士課程1年の清水は、午前7時にセミナーハウスにやってきた。
 発表会は午前10時に始まるが、開始5分前になっても藤沢教授は会場に現れない。清水は控室に呼びに行った。教授はいなかったが、ある式が黒板に書いてあった。

$$
\begin{align*}
i\hbar\dfrac{\partial}{\partial t}\ket{\psi(t)}=\hat{H}\ket{\psi(t)} \\[8pt]
\hspace{35pt}{\small 1月27日}
\end{align*}
$$

 胸騒ぎを覚えた清水はその数式を写真に収め、会場に戻った。しかし教授は会場に現れない。みんなで探したが見つからない。
 発表会は中止となり、夕方になっても見つからなかったので、藤沢教授の行方不明者届を提出した。

本文スタート

 当日、僕や雪村先生、そして研究仲間など、藤沢先生と近しい人だけでセミナーハウスに泊まった。翌朝早朝から警察の捜査は始まった。冷たい雨風の中、藤沢先生の家族も合流し、みんなで必死に探した。しかし先生は見つからなかった。先生の車も見つからなかった。明日以降は警察に任せようということになり、1月21日の夕方、僕らは帰宅した。
 翌朝、僕は院生室に行くと後輩の坂井が来ていた。
「坂井さん、おはようございます、昨日はお疲れでした。藤沢先生について何かわかった?」
「おはようございます、事務室に行ったんですが……」
 坂井は首を振った。何も情報は無いらしい。彼女は大学4年の後輩で、来年度から修士課程に進む。藤沢研究室で数理論理学を学ぶということもあって、研究発表会の準備を一緒に行い、昨日もみんなで藤沢先生を探した。
「事務の方でも先生のスマホに電話をかけているようなんですが、何度かけてもつながらないと」
「僕も電話をかけてるんだけど。どこかにスマホを置き忘れてるのかな」
 先月、藤沢先生は初めてスマホを持った。教えて欲しいと頼まれ、僕は先生に使い方を説明した。「数学のアイデアが浮かんだとき、すぐにメモできるのがいいね」とボイスメモに関心を持っていたが、つい忘れるんだと言ってスマホを携帯していないことも多かった。
「確か一昨日聞いたら、『戻る』とは言ってたんだよね」
「ええ、朝挨拶に行くと10時までには戻るからって」
「僕も朝7時半頃に打ち合わせをしたあと、『10時までには戻るから』といって控室を出て行ったきり……」
「『戻る』ということは、どこか外に出かけたということですよね、車も無かったですし」
「だと思うんだけど」と僕は首を傾げた。
「そうそう、写真を見よう」と僕はパソコンを開き、昨日スマホで撮った写真をパソコンに取り込んだ。
「昨日撮った写真だけど、何か手掛かりがあるかな」
 僕は撮った写真をパソコン画面で確認していった。山あいの風景写真やセミナーハウス周辺の写真、そして人が集まり出した時に撮った会場内の写真など。何か写っていればという表情で坂井もパソコンをのぞき込んだ。
「マイクロSDカードにも撮ってあるよ」
 僕はスマホ本体のメモリとは別に、取り出してすぐに移動できるようにとマイクロSDカードにも写真を保存していた。
「SDカードの写真は、先生を呼びに行ってからの写真だね。最初に取ったのがこの数式」

$$
\begin{align*}
i\hbar\dfrac{\partial}{\partial t}\ket{\psi(t)}=\hat{H}\ket{\psi(t)} \\[8pt]
\hspace{35pt}{\small 1月27日}
\end{align*}
$$

「これどこで撮ったんですか?」
「先生を呼びに控室に行ったとき、黒板に書いてあったんだ」
「なんか、シュレーディガ-方程式っぽいけど」と坂井は画面を見つめる。
「あー確かに、でもなんか見慣れないな」
「下のこの日付は何ですか?」
「分からない」
 僕は正面の窓を少し開けた。朝方まで降り続いていた雨は上がり、1月の冷たい風がすーっと室内を通りすぎた。
 僕らは写真を一枚一枚見ていった。
「あれっ」と坂井は何かに気付いた。
「赤いバイク、最初の写真に写ってないのに、こっちには写ってる」
 セミナーハウスの駐車場の写真。スマホのメモリに入っている写真にはバイクは写っていない。しかし、SDカードに入っている写真には赤いバイクが写っている。
「誰かがバイクで来たんじゃない?」
「しかしなんでこんなに泥が付いてるの」と坂井は不思議そうな顔をした。
 確かにタイヤ付近に沢山の泥が付いている。
 その日の朝は晴れていたし、セミナーハウスまでの道路はきれいに舗装されている。しかもそのバイクは荒れた道路に向いているオフロードタイプではなく、サーキットで走っているようなレーサータイプ。なんでこんなに泥が付いているのか、と思うやいなや
「あれ?」
 僕はマイクロSDカード内のひとつのフォルダーに気付いた。
「こんなフォルダー作ったっけ?」
 そのフォルダーをクリックすると、たくさんの写真と1つの音声ファイルが入っていた。まずは写真をクリックすると、それは富士山の写真だった。
「富士山? なんだこれ」
「富士山も撮ったんですか?」
「いや撮ってない、なんでこんな写真が入ってるの?」
「えっ、撮ってないんですか?」
「撮ってないよ、だってほら、撮影日時は全部去年の12月だし、富士山だってこんなに大きくは撮れないはず」
 山あいにあるセミナーハウスからも富士山は見えるが、こんなに大きくは見えない。フォルダーの中の写真は、どこか別の場所で撮ったと思われる富士山の全景写真だった。よく見るとブレたりピンボケしたり、撮影に失敗したのか、何が写っているのか分からない写真も多い。
「しかもみんな同じような雲が多いですね、これもこれも」と坂井は指をさす。
 確かに写っている富士山は、下の方に雲がかかり、頭だけ出している写真ばかり。
「よく気付いたね、さっきのバイクもそうだけど」
 それにしてもバイクの泥や富士山の雲など、彼女はよく気付く。僕が鈍感すぎるのか?
「これは何?」と坂井は指さした。
「音声ファイルだね、聞いてみよう」と僕はそれをクリックした。パソコンのスピーカーから音が聞こえてきた。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
 草むらか砂利の上か、どこかを歩いているような音が聞こえてきた。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
「なんの音? 気持ち悪い」と坂井は身を縮めて一歩後ずさった。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、スタ、スタ、トン、トットトトン、トン、トン、トン
「何だこれ」と、僕も気味が悪くなった。
 トン、トン、トン、トン、ギ――――ッ、ガサガサ、カチャカチャカチャ……
音が止まった。しばしの無音の後、音声ファイルは終了した。
「怖っ」
 僕は坂井と目を合わせた。坂井は耳をふさいでいた。
「何の音だろ、もう一度聞いてみようか」
「う、うん……」
 僕は音声ファイルをもう一度再生した。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、スタ、スタ、トン、トットトトン
 ガチャ
「わ ――――」
「おはようございます」
「ゆ、雪村先生、びっくりした」
 雪村先生が院生室に訪ねてきた。僕も坂井も入学当時、雪村先生の授業で数理論理学の初歩を学んでいた。
「いろいろ迷惑かけてすみません」
「いや全然、雪村先生は全然悪くなくて」と僕は手を左右に振り、乾いた口を水で潤した。
「先生、この写真なんですけど……」
 僕は雪村先生にパソコン画面を向けた。
「控室に藤沢先生を呼びに行った時、先生はいませんでしたが、黒板にこんな式が」
 雪村先生は画面をのぞきながら、人差し指で眼鏡を少し上げた。
「シュレーディンガー方程式だね」と雪村先生はこくっとうなずく。
「これは量子力学で出てくるシュレーディンガー方程式。ミクロの粒子の状態を記述する方程式だね。しかしなんで量子力学? 量子論理の研究かな」
「量子論理?」
「そうそう、藤沢先生は最近になって量子論理の研究を始めていて、もしかして誰かと研究会でもしていたのかな、ちょっといい?」と言って、雪村先生はパソコンの写真を順に見始めた。
「いたいた、この人知ってる?」
 雪村先生は一枚の写真の中の、一人の男を拡大した。人が集まった会場内で、廊下側の真ん中付近に着席している一人の男。ビートルズのようなマッシュルームヘアで、金色に髪を染めている。淡い色の服装が多い中、カラフルな薄手のフリース姿で、その男はひと際目立っている。他の研究者と談笑している写真もあり、社交的に動き回っているようにも見える。
「いいえ、知らないです」と僕が言うと
「この人は素粒子物理の研究者の三枚堂さんまいどう君、来てたのは知っていたけど」
「三枚堂? 坂井さん知ってる?」
「目立っているなとは思いましたけど、知らないです」と坂井は首を振った。
 会場内の写真を一通り見た雪村先生は、「一緒に研究会をするとしたら彼しかいない」と口元を引き締めた。
「大学は違うけど彼は僕と同期で、もともと藤沢先生の教え子だった。彼のあまりの天才ぶりに、藤沢先生の後を継ぐのは彼だと誰もが思っていた。しかし、なぜか専門を捨てて素粒子物理の研究者に」
「素粒子物理?」と僕は声を上げた。坂井も驚いた様子。
「彼は天才中の天才で、博士課程3年の時に数学から物理に転向して、去年、32歳の若さで東京理工科大学の教授になった。量子論理とは簡単にいえば、量子力学の論理構造を表す論理。その研究を始めた藤沢先生は量子力学の専門家ではなかったので、昔の教え子だった三枚堂を呼んで量子力学を教えてもらっていた」
「それで黒板にこの数式が」
「しかもこのシュレーディンガー方程式、よく見る形ではなくプラケット表示で書いてある」
「プラケット?」
「そうプラケット表示、この形なら馴染みがあるよね」
 雪村先生は黒板に1つの式を書き出した。

$$
\begin{align*}
i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\psi(x,  t)=\left(-\dfrac{{\hbar}^2}{2m}\frac{{\partial}^2}{\partial x^2}+V(x)\right)\psi(x, t)
\end{align*}
$$

「この形なら分かる」と坂井。専門ではない僕もこの形なら見覚えがある。
「この形の $${\psi(x,  t)}$$ は、電子などミクロの粒子の状態を表す波動関数で、写真の

$$
\begin{align*}
i\hbar\dfrac{\partial}{\partial t}\ket{\psi(t)}=\hat{H}\ket{\psi(t)} \\[8pt]
\end{align*}
$$

は、その波動関数 $${\psi(x,  t)}$$ が、$${\ket{\psi(t)}}$$ というケットベクトルというもので表されている。つまり、シュレーディンガー方程式を関数ではなくベクトルで表したものなんだね。これをシュレーディンガー方程式のブラケット表示とよぶ。ちなみに、$${\hat{H}}$$ は『エイチハット』とよび、どういう計算をするのかを命令する記号。ハミルトン演算子、またはハミルトニアンともいうね」
 数学科でも、波動関数によるシュレーディンガー方程式は教養課程で習うかもしれないが、ブラケット表示はあまり習わないと雪村先生は言う。確かに大学1年か2年の時、波動関数の方は教養課程の物理で触れていたが、ブラケット表示は初めて聞いた。
 シュレーディンガー方程式をベクトルで表す、その不思議な式に僕は興味を持った。
「基本的に僕の発表会には数理論理学の専門家しか来ないはず。シュレーディンガー方程式、ましてやブラケット表示で書くとしたら専門家である彼に違いない」
「発表会までの時間を利用して、三枚堂教授と量子力学の研究会をしていたということですね」
「かもしれないね」
 冷たい隙間風が室内を巡り、雪村先生はタートルネックの首元を少し上げた。僕は窓を閉めた。
「先生さっき」と僕は雪村先生に顔を向けた。
「三枚堂教授は数理論理学を捨てて素粒子物理の研究者になったと言ってましたが、なんで専門を変えたんですか?」
「三枚堂に連絡してみる?」
 思わぬ言葉が返ってきた。
 藤沢先生について何か知っているはず ―――。
 僕は雪村先生から彼の連絡先を教えてもらい電話をしてみた。断られるかと思ったが、東京帝都大学の藤沢研究室の学生と言うと好意的に受け入れてくれた。「興味があればブラケット表示教えてもらえばいい。教えるの好きな奴だから、朝まで教えてくれるよ」と雪村先生。
 僕はさっそく今日の午後2時に、東京理工科大学の研究室で三枚堂教授と会う約束をした。

(続く)

(コメント)

 量子力学をテーマにしたミステリー小説です。内容はまだ未完成で、量子の世界の様に不確定?です。大きく変わった記事はタイトルや冒頭で報告します。
 細かいエピソードがすべて伏線となって、最後にかけて一気に回収する構成を考えています。
 文体は、とにかく読みやすくを意識していますが、小説のルールや技法は分からないので、その辺は書きながら勉強中です。
 途中でストーリーが破綻したり、モチベーションが続くかどうか、やってみないと分からないところもあります。


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