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事実確認、不忍の巷


#Copilot 安吾 テーブルの散らかり具合がよい


「真実を羅列した黙示録を読みたい。」
トーシロの慰みの文章の虚しさにも、数滴のそんな叶え。

#帝銀事件 発生から、同年 #坂口安吾 がコラムで諌めてから被疑者の死亡まで、約40年。答えのようなものを出さないまま事件は実に都合の良い社会派のゴシップとして、時宜の移ろいはあっても変わらぬ報道の駒として作動し続けました。死亡者12人、確定囚への「実行」は成されず。まず、それが現在の事実です。

新聞は報道だけでよろしいのだ。だから、H画伯の写真はのせてもよろしいのです。慎しむべきは、軽薄なる正義感である。正義というものは、深く、正確な合理を重ねて論ぜらるべきもので、その日その日のネタとりの如き心で、とりあげて論ずべきものではないのである。ジャーナリズムは、慎ましくなければならぬ。ジャーナリズムこそ、最も、大いに、人権を尊重することを知らねばならず、自らの職業的特権濫用を反省しなければならぬのである。

オール読物 切捨御免

流石は新聞社の要人の息子、『肝臓先生』なんて結構にやっかいな"小説"「誇張の夢」を書いても、ジャーナリズムには一定の核心をついた意見を持っています。


僕でも一度は被疑者の描いた春画を雑誌のパラパラ捲りで見た事が有ります。事件の内容と捜査の疑問点と供述の変遷のルポはその数倍。現在でも増え続ける僕の気が付かない事件を扱うメディアは、その数十倍、数百倍といったところでしょうか。

#和歌山毒物カレー事件 非常に帝銀事件と共通点が多い。

(1)林眞須美が事件当日、カレーを作っていたという、隣家の住人の目撃証言。隣人が、林眞須美がカレーの蓋を開けたのを目撃したと証言している。
(2)シロアリ駆除業を営む夫が自宅に所有していたヒ素の組成が、殺人に使われたヒ素と同型であったという科学鑑定の結果。
(3)林眞須美が、事件前から保険金をかけた夫や知人にヒ素を飲ませ、不正に保険金を手に入れていたという事実から、軽い気持ちで、カレーにもヒ素を入れたのだろうという動機の推定。

記事 横田増生記者

被疑者側から事件を題材にしたドキュメンタリー映画の感想とあって、この「事実」の羅列にも影響が感じられます。(3)辺りはとんでも無い誤解が含まれてはいないかと…しかしその事実と古きの帝銀事件と、この日本最大の「スクープ記事の生産工場」ともいえる #週刊文春 の#ロス疑惑 への関わりを考察するに、事件は実に安吾言う軽薄なる正義感というものの、踊り場の様に感じます。

こっちは無記名記事…ともかく、取材対象に特別慈悲をみせたとか別の事件を生まない様に努力したとは、到底とれない。

「ネタ元の秘密保持」そういう概念が有るそうなのでこの場合は…「ネタ元の秘密開示」とでも言えるか。立場の時点での弱さにつけ込んで、各新聞各週刊誌音声映像幾数多。それでいて記者が深入りし過ぎるなんて事も有りません、

記者ごと、掲載誌が消えるハメになりますから。


冷淡に、事件への記事は今後も増え続けるでしょう。温故知新で安吾に習うべきは、やはり取材力が有り尚且つ責任の所在というものに縛られても、志(こころざし)というものの無い批評は必ず脚元が覚(おぼ)束ないという事です。実害は不当に自由を奪ったままの延期、延命。それが目指すの、事実でしょうか?

note のネタ探しのニュースの閲覧なんてものを永遠としていると、 時々は #石戸諭 モジャ眼鏡先生の様に実に不毛な気分と、世相との接触をしているなあと感じる事も。 

受信する側が勝手な場合も、送信する側が偏狭な場合も真実の解明なんて出切っこない。ソレなど自分の意識以外に無いと妄想すれば、虚像のみが広がるのが人生です。

個人が数億存在する他人へ対しての、

数億から一人さえも理解者を見つけられない個人にとっても。


あとがき:真剣な、真摯に受け止める、留めるべき話題からか過去に書いたエッセイと重複する内容も多くなりました。生意気にも自身の進化とか進展を言うなら、事件への義憤が自分でさえ随分に身勝手であったと少々は勉強したくらいです。勉強すれども猶(なお)も贖罪の方法は思い付かず、やはり教典、聖書持たざる野蛮人の考を脱せぬか。


#未来のためにできること #エッセイ 部も…もう部門は要らないんだった。

#ライターの仕事
#振り返りnote

#毎日note #毎日日記


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