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Étant donnés ——『本気のしるし』を与えられたとせよ

 2020年8月22日、ちば映画祭 inアテネ・フランセ文化センターvol.2にて、連続テレビドラマ『本気のしるし』全10話を一挙に鑑賞することができた。4時間もある大作であったが、全く飽きずに観ることができた。「映画を観たのだ」という満足感を与えてくれる素晴らしい作品だった。記しておかないと受け取ったものが離れていってしまいそうなので、不正確な記述があると思うけれど(脚本が読みたい)、自分と連れ合いの記憶だけを頼りに、衝撃に突き動かされた勢いで文章にしたいと思う。本当ならもう一度見直してセリフやシーンを確認しなければならないが、それがすぐにはできないので、ご容赦ください。今秋、本テレビドラマを再編集した映画版『本気のしるし』が公開されるので、今の日本という社会で生きている人にはぜひみてもらいたい。

 本作は、星里もちる原作によるコミックの映像化で、『歓待』『淵に立つ』『よこがお』などの映画作品を手掛けた深田晃司監督による。深田監督にとっては初めてのテレビドラマである。

中小商社に勤める会社員・辻一路。社内の評判はよく、恋人関係のような女性もいるが、他人に好かれるのも他人を好きになるのも苦手で、本気の恋をしたことがない。ある日、彼はコンビニで不思議な雰囲気の女性・葉山浮世と知り合う。しかし、彼女と関わったばかりに次々とトラブルに巻き込まれていく。魅力的だが隙と弱さがあり、それゆえ周りをトラブルに巻き込んでいく浮世と、それに気づきながら、なぜか彼女を放っておけない辻。辻は裏社会の人間と関わり、仕事や人間関係を失いながらも、何とか彼女を手に入れようと、さらなる破滅の道へと歩み出す……。
[公式HPより:https://www.nagoyatv.com/honki/

 主人公の一人である浮世の存在をどのように捉えればいいのだろうか。この作品の深い沼へ入り込むために、最も考えなければならない課題の一つである。1話目から観客は、彼女のあからさまな嘘はもちろんのこと、立ち居振る舞い、言葉の抑揚とリズム、ワンピースの重ね着のセンスに至るまで、苛立ちを覚えるだろう。喫茶店で揉める主人公たちのコップに水を入れにきた女性店員が、初めてのお客であろう浮世について「こういう女、クラスにいる。男全員に思わせぶりな態度をする奴が。腹が立つ」というようなことをいうが、登場人物たち、そして多くの観客と同様、私も彼女の言葉、一挙手一投足に「イライラ」させられた。

 浮世の言動は、結果的に、様々なタイプの男性を、どのようなレベルであれ惹きつけてしまう。町を歩けば酔漢に絡まれ、忘れ物を取りに来た水道屋の男とお茶をする。車のセールスマン(葉山正)とは子どもをつくり結婚し、御曹司のIT社長(峰内大介)とは出会って三日で心中未遂となる。しかし浮世自身もなぜ次々に男性と関係をつくってしまうのか分析していて、自分を必要としてくれている相手を受け入れてしまうと考える。これは安手のドラマでよくある理由だし、巷の恋愛批評家連中が何度も繰り返す話でもある。この物語では、そのような表面的な問題につき合ってしまうと、作品に漂う不穏な感覚を快楽としてだけ消費してしまい、作品の持つ射程を見間違えてしまうのではないか。そもそも浮世の言動は、本人の「意思」に基づくものなのだろうか? 教習所で知り合った浮世の古い友人は、もう一人の主人公である辻にいう。押し切られ相手が望む態度を取り続けてしまう自分は、今のパートナーに出会っていなければ浮世と同じだったかもしれないと。

 この場面以降、辻の行動から何か確信めいたものを感じるようになる。10話完結の連続ドラマの折り返しとなる6話目が、物語の中でもターニング ポイントになる。辻が、長年肉体関係を続ける会社の先輩・細川尚子との結婚の約束を反故にして、細川先輩から詰め寄られるシーンで、これまで浮世が男たちの前で見せていた心許ない彼女の態度が、辻の中から現れるのである。浮世という女性を特徴づける態度や言葉だと思っていたものが、男性である辻の身体に転写され、浮世が辻に憑依したかのようである。この態度やセリフの反復に気がついてしまった途端、浮世を欲望する登場人物の男たちと同じように、彼女に対して「男受けする女」、彼女の困難は「自業自得」というレッテルを貼っていた自分の“典型的な女性観”にハッとさせられる。この場面を通過した観客は、これまでの社会生活の中で染みついていた眼差しの方向を顧みながら、最初に浮世から受け取った「イライラ」した感覚が消えていくことを感じるだろう。

 態度とセリフの反復の方向は、浮世(女性)から辻(男性)だけにとどまらない。先ほどの結婚の約束を反故にするシーンで、辻が細川先輩の前で口をつく、もう一つの印象的なセリフ「頭の中で警報が鳴り響く(辻と浮世のつなぎ目となった踏切の警報機の音だろう)」は、一度は辻と暮らすことを選んだ浮世が、辻から離れ、会社の不祥事によって社会的地位を失った峰内に寄り添うことを選択する場面で、彼女のセリフに転写され、こんどは辻が聞かされる側になる。同じ場面での浮世のセリフ「辻さんは弱くない。私がいなくても一人で生きていける」は、それよりも前に、辻から細川先輩へ向けられた「先輩は弱くない。僕がいなくても一人で生きていける」から転写されたものだった。さらにこのセリフは、峰内と別れ、辻を探すことを決心した浮世が、峰内の求婚を断る場面でも発せられるのだった。終盤9話は、激しく反射し続けるセリフと態度にめまいを覚える。[*1]

 深田監督と脚本家・三谷伸太郎は確信犯である。男女の間で交わされる言葉(そして行動)は往々にして、当人同士の関係性、置かれた社会的立場や環境の中で生成され反復されるものであって、男女の性別に従うものではなく、その人固有のものでもない。映画の登場人物たちのように、気持ちを伝えるための私たちの言葉は、自分がつくり出したものではなく与えられたものではあるけれども(Étant donnés)、二人が交わす言葉によって生まれた経験は、(与えられたものではなくて)新しく変化した何か、である。[*2]

 充実したパンフレットの一番最初には、フリージャーナリストの伊藤詩織さんからのコメントが掲載されている。『本気のしるし』は社会問題を扱ったドキュメンタリー映画ではなく、恋愛ドラマであるはずなのに何故伊藤さんなのかと戸惑った。しかし、この作品を観た後に、彼女が適任であったことに気づかされる。映画の中でも描かれる人間関係——恋人同士、夫婦、親子、上司部下。人間が二人いれば、そこには主従関係が発生し、絶えず支配する力が働く余地がある。現在の日本社会において、多くの場合、服従させられるのは女性である。ここまで確認してきたように、浮世が我々を「イライラ」させる要因は、女性だけが持ち合わせていたものではなく、力を行使できる人間との関係において、自分の意思ではなく身につけさせられ発露したものであって、「男社会」で(男女の別なく)自分の心身を最低限確保するためのものでもあった。被害は自業自得ではなく、間違いなく服従させようとした人間の側に責任がある。この映画がもつ優雅さや、愛すべき登場人物たちに比べて大袈裟で野暮ではあるが言っておく。『本気のしるし』は、日本の現代社会の隅々まで行き渡っている権力構造に対する異議申し立て、文化構造の変革を促すアクションとしての側面を持ち合わせていたと。

 9話から最終話、辻は現在の自分を変えるために、会社を辞め浮世から離れ、これまでの社会関係を捨てて行方知れずとなるが、結局、自分を変えることはできず居場所もなくなり自暴自棄になっただけだった。その間、浮世は独りで考え、前を向いて生きていた。彼女こそが現実世界であって、悲しいかな、男・辻は「浮世離れ」した存在にとどまるしかなかった。

[*1] 浮世がもっとも口にする言葉「すみません」。前半では、どんな相手、どんな状況でも、相手を見ずに俯いた彼女からこの言葉が発せられる。この「すみません」の「済む」は「澄む」と同源で、澄む=濁りがないということから「気持ちが澄む・はれる」という意味につながる。よって「済みません」は、「(自分の)心が澄みきらない、気持ちがはれない」となる。相手の存在を認めてゆるしを求める「ごめんなさい」とは異なり、「すみません」とは、あくまで自身の内面の問題であって、相手に対する言葉ではないともいえる。この言葉を口にする時の浮世も辻も(父親に叱責されている峰内も)、自分の心が澄みきらず頭の中が澱んでしまったこと、相手の要求を受け入れたにも関わらず、応答できずに自身の内面に起こった震え(浮世はよく震えを訴える)に、恐れ慄いているのではないか。本作品を理解する上で示唆的な言葉である。

[*2] この記事のタイトルにもした「Étant donnés」は、マルセル・デュシャン(1887 – 1968)の美術作品『Étant donnés: 1. La chute d’eau, 2. Le gaz d’éclairage (Given: 1. The Waterfall, 2. The Illuminating Gas) 』から取っている。日本語では『1.落ちる水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ』となる。作家の死後に公開された遺作で、フィラデルフィア美術館に所蔵されている

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