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本物のアートには、魂が宿っている 〜 「アートの聖地巡礼」 プロローグ

アートの楽しみ方は、自由だ

今、限られた環境の中で生活をしている人がほとんどだ。その瞬間に存在する場所で何が出来るのか、みんなが模索している。

動けること、旅すること、本物を現地で見ることが、どれだけ贅沢な時間だったか、今更ながらに思う日々。

これから、記憶をたよりに「アートの聖地巡礼」を書いていこうと思ったけれども、その前に「本物を見る」だけが、アートを体験することじゃないという思いも、どうしても残しておきたくて書いた記事が以下の通りだ。

「本物を知ること」は、本物を見なくても可能だ 〜 古典彫刻模型博物館(ドイツ・ミュンヘン)編
「本物を知ること」は、本物を見なくても可能だ 〜 大塚国際美術館(日本・鳴門) 前編
個人的に印象に残ったベスト5は。。 〜 大塚国際美術館(日本・鳴門) 中編
本物を見た時よりも、「本物の良さがわかる」こともある 〜 大塚国際美術館(日本・鳴門) 後編

ただ、どうあがこうとも、「本物のアート」には、制作者の魂が宿っている(*1)。

少なくとも私は、そう思っている。模型や複製画は、悪く言えば抜け殻だ。それでも、知識と(実寸大の)イメージを、自らの想像力と共に脳内で融合させることによって「本物」に限りなく近づくことは、出来る、というのが私の持論だ。

理想は、現地へ行って本物を見ることだけれども、みんながみんな、様々な事情で、実現出来ることではない。その現実を、アートに関わってきた人間として、忘れてはならないと肝に銘じる意味もあった。なぜなら、本来アートは、誰にでも様々な形で楽しめるモノであるべきだから。そして、「現地で本物を見る」だけにこだわることは、傲慢だとも思ったから。

私のアートの聖地巡礼

さて、アートの研究者は、多種多様だけれども、少なくとも私は、象徴を記号として扱う。その意味で、『ダ・ヴィンチ・コード』の主人公ロバート・ラングドンと同じようなことをしている(と思う)。彼ほど格好良くないことは、ここに書いた。

ラングドンと同じことは、宗教美術に対して、主観を省き、あくまでも客観的に考察しようと心がけることくらいだ。だから、模型でも複製画でも象徴表現がはっきりわかれば、問題ない。そこに作品の魂を見ようとしないこともあった(最近は、それは、違うと気づき始めたけれども、機会があればその考えも書いてみようと思う)。つまり、自分は、鑑賞者ではなく、観察者だと、上記の大塚国際美術館の記事を書きながら再認識した。

その観察者(研究者)である自分を可能な限り解放して、アートを訪ねる旅をはじめた。旅の中で、私は、旅人であり、鑑賞者であった。基本的にバックパッカーでもないし、旅の達人でもない。それでも、生きているうちに見ておきたい、行けるうちに行っておきたい、という思いで「ひとり」で旅をさせてもらった。

その旅は、いつの間にか「アートの聖地巡礼」になっていた。

私にとって聖なるアートは、アートを長い間研究していきた自分が自身を解放したとき、生きている間に見たい作品、もう一度見たい作品だ。それらの作品を「美術」と書きたくない。厳密にいえば、それらは、「アート」でもなく「art」だけれども、百歩譲ってnoteでは、「アート」としよう。

そして、魂が宿っている本物のアートが存在する場所が、私にとって「アートの聖地」なのだ。それらの「アートの聖地」を訪ねることは、作品と向き合うだけでなく、自分と向き合う旅でもあり、気がつけば、まさにアートの聖地巡礼の旅だったのだ。

瀧本宿題

次に、noteで自分の旅の時間を伝えて何になる?と考えた。私にとってはアートの聖地巡礼でも、自分はどうでもいいという人もいるだろうし。「西洋美術史」の知識を押しつけたいわけでもない。

そこで瀧本哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』を思い出した。

2019年に夭逝した瀧本哲史氏が、2012年6月30日に若者を集めて行った伝説の講義で特設noteが以下の通りだ(*2)。偶然にも、私は、全文を2020年6月30日にnoteで読んだ。この時、瀧本氏より「瀧本宿題」を課せられたのかもしれない。

講義の最後に、瀧本氏が会場から質問を受けるのだが、ある質問者からの「『アイデアを話したらパクられてしまう』と心配してしまう」という質問の流れから、別の質問者から「『盗まれないもの』というのは、何か?」という質問が出た。その時の瀧本氏の回答が以下の通りだ。

それはね、その人の人生ですよ。...その人が過去に生きてきた人生とか、挫折とか、成功とか、そういうものは盗めないんですよね。

その時、自分だけが書けるアートの記事は、自分の人生の中に存在するアートだ、と思ったのだ。

でも、それが人の役に立つかわからない。正直、noteでアートの記事を書くことは、様々な理由から難儀だ。それでも「瀧本宿題」と思えば、やれるかもしれない。そう思っている。

そして、私にとってnoteは、表現の実験の場でもあるから、苦しくなった時は、表現方法を変えてみるかもしれない(それこそ「書き手のための変奏曲」だ)。読み手にとっては、迷惑な話かもしれないけれども、お付き合いいただければ幸いだ。

さてと。はじめますか。


NOTE:
*1.実は、この記事の下書きを書いた後、陶芸家tamamiazuma氏の記事『キズついた桃のように』を拝読した。その記事の中で「キズついた桃には、確かな命が宿っている」という文を見つけた時、「本物のアートには、制作者の魂が宿っている」と下書きに書いていた自分を信じようと思った。同氏の作品(アート)には、確かな魂が宿っているから。この場を借りてtamamiazuma氏へ御礼申し上げる。

*2.「瀧本哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』」は、こちら(同講義全文公開は終了)。

なお、講義全文は書籍化されている。