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鮨の真髄No.003 スシの歴史2

本記事は「鮨の真髄」の連載3回目です。筆者が2023年12月末に始めた、アメリカのSubstackで連載している"Spirits of Sushi"の完全日本向けバージョンです。筆者は本が大好きなので、書籍をイメージした構成でお届けします(最下部に目次を記載しています。)。

本連載を読み終えたときには、必ず鮨通になっています!
ググってもSNSを開いても得られないような情報を盛り込んでいきます。

前回の記事では「江戸前鮨」の誕生まで解説しました(誕生したのは1804年~1831年)。今回は江戸時代以降に「江戸前鮨」がいかに進歩していったかについて説明します。

江戸時代の「江戸前鮨」

東都名所高輪廿六夜 待遊興之図(神奈川県立歴史博物館蔵)

江戸前鮨は江戸時代に誕生した瞬間に、早くも人気を博した。その理由は色々考えられるが、江戸前鮨が今で言う「イノベーティブ料理」であったことが一番の理由だろう。もちろん江戸前鮨が「提供が早くて美味しい」と言う実際的な理由もある。しかし、それまでには存在しなかった赤酢が発明されたことは忘れてはならない。赤酢は革命的な調味料であったのだ。

江戸に住む「江戸ッ子」の気質の一つは「新しいもの好き」であった。これについてはご存じの方も多いことだろう。江戸ッ子たちは、食材は旬の走りに食べるのが粋だと考えた結果、「初鰹は女房を質に入れても食え」と言った現代人なら口に出すのが恐ろしくなるようなことわざを生み出した。そのようにトレンドを好む江戸ッ子が新発明の赤酢に熱狂した事は言うまでもないだろう。当時、時代の最先端を行く江戸前鮨の売れっ子職人たちが未曾有の色と味わいのお酢を使い始めたとなると。しかも、現代のようにフルカラーの写真があるわけではないので、「未曾有の色のシャリ」であることを聞けば、猛烈に食べてみたくなったのではないだろうか。

そして、赤酢は現代の東京でも主流のお酢である。食文化の変遷から考えて、赤酢はいわば「江戸前鮨専用の酢」だと言える。もちろん手巻き寿司や棒寿司に使っても美味しいが、成り立ちから考えると江戸前鮨こそに最適なお酢なのである。今でこそ当たり前になっているので、ここでは敢えて明言したい。

赤酢の特殊性としては、日本酒の酒粕を熟成、発酵させて造る点だ。酒粕由来のため旨味が強い。それ故に、〆る煮るなどの江戸前鮨の仕事=調理を施した魚との味覚的な一体感が高いのだ。味覚的な裏付けがあるからこそ、赤酢は一過性のブームで終わることなく、江戸時代以降も愛されて今に至る。現在は鮨人気が高まり、鮨店が増え続けている状況だ。そのため、赤酢の生産が追いつかないメーカーも増えている。赤酢人気はとどまるところを知らない。

歌川広重 江戸時代の鮨の図(江戸時代後期)

なお、赤酢を発明した会社は現存している。どこかご存知だろうか?そのメーカー無くして江戸前鮨は生まれなかったかもしれないし、生まれたとしても今に至る人気になっていたか分からない。そのメーカーは、今やグローバル企業となっているミツカンだ。当時の屋号は「中埜本家」で、初代・中埜又左衛門は当時タブーとされる「酒屋の酢造り」に着手した。なぜタブーであったかは、お酢は清酒を酢酸発酵させて造るので、清酒に酢酸菌が入ると全てお酢になってしまうからだ。ただでさえ酒造技術が安定しない時代に信じられない英断であり、しかも中埜又左衛門は養子であったので卓越したビジネス感覚だ。当時、現ミツカンのある知多半島は海路が進歩していて、江戸までのアクセスが至便な土地であった。1804年に分家独立した中埜又左衛門は江戸に渡り、誕生したばかりの江戸前鮨の流行を確認する。そして、お酢の需要が高まることを確信し、今までにないお酢の開発に着手する。それが粕酢を用いる赤酢だ。画期的なお酢は人気店の鮨職人に愛され、江戸前鮨人気に拍車をかけた。そして、当時生み出された「三ツ判山吹」は現存している。

名前の由来は、酢飯にしたときに輝かしい色であったため「山吹」を商品名にしたとされる。江戸時代に生み出された江戸前鮨の調理法については、第2章で詳しく、いや非常に詳しく解説する。

明治・大正時代の「江戸前鮨」

旭屋出版『すし技術教科書 江戸前ずし編』より

江戸時代に続く明治時代(1868年~1912年)、大正時代(1912年~1926年)には、江戸前鮨が一層普及した。明治時代の進歩としては、氷の製造が始められたことだ。氷を用いる氷冷庫のお陰で、鮮度が良い魚が使われるようになった。

そして、鮨店は座敷で食べる高級鮨店を筆頭に、内店(うちみせ)、屋台店(やたいみせ)の3種類の形態に分かれていた。

東銀座「二葉鮨」より明治時代の鮨店の姿を偲ぶ
こちらは江戸時代後期の鮨屋台で未だプリミティブだ(向島、隅田川沿い)

内店はお客が座って食べられる座敷スペースはあるものの、基本的には出前が中心のビジネスモデルであった。屋台店は椅子が無く、お客は立った食べる立食スタイルだ。その後、屋台店にも椅子が置かれるようになり、現在の営業形態へと繋がっていった。当時は多くの鮨職人が最初は屋台でお金を稼ぎ、稼いだ資本を元手に店を構える事を目標としていた。

なお、大阪や京都、その他地方では江戸前鮨は知名度が低いか人気が無かったそうだ。

大阪では大阪特有の箱すしが進歩を遂げ、明治時代には2寸6分(8.5cm)四方の箱の中に食材を美しく並べて「2寸6分の懐石料理」と言われるまでになった。つまり、江戸前鮨はあくまでも東京の郷土料理であったのだ。

「江戸前鮨」が全国に広がった理由

その後、どのような経緯で江戸前鮨が日本全国を席巻したかは興味深い。

原動力となったのは1923年に起きた関東大震災である。震災で多くの鮨職人が家を失った結果、日本全国に散った。そして、江戸前鮨店を開いたことで、全国に普及していった。皮肉な話になるが、震災が無ければ回転寿司は生まれなかったかもしれない。

そして、現代の江戸前鮨のスタイルが誕生したのは、第二次世界大戦後だ。戦後の「飲食営業緊急措置令」によって、ほぼ全ての飲食店が休業を余儀なくされた。鮨店も同様である。しかし、有志の鮨職人が日本の警視庁とマッカーサー率いるGHQに交渉を重ねた結果、鮨店は営業出来る事となる。鮨職人は自分たちが「飲食業ではなく加工業である」と言う珍妙なロジックで交渉を行った結果、奇跡的に認められた。「持参米鮨委託加工制度」である。大変ユニークな事に、お客が持参した米一合を使い、10貫の鮨を加工する業態として、鮨店は例外的に営業を認められたのだ。そして、当時の握り鮨の大きさが「一貫」の基準となり、鮨一人前は10貫と言う事になった。

以後、江戸前鮨は着実に人気を高め、回転寿司(1958年に大阪の「廻る元禄寿司」で誕生)や宅配寿司で家庭に普及する事になり、反面、高級な「回らない鮨」は憧れの飲食店となっていったのである。

次の記事では、スシのバリエーションについて解説する。また会うのを楽しみにしている。

今後の目次構成

今後については、以下のとおり執筆していく予定です。

  1. スシの歴史

  2. スシの仕事と種類:江戸前寿司(握り鮓)、関西鮓などなど

  3. スシの用語: 鮨店を100%楽しむための重要用語集

  4. 鮨の生命線:シャリ、酢飯、鮨飯について

  5. 鮨種(タネ、ネタ)についてのマニアックすぎるガイド

  6. 鮨職人の技:包丁や鮨職人の道具について

  7. 日本が誇る魚文化: 築地から豊洲市場、そして各地へ

  8. 必訪の鮨レストラン: 東京から札幌、福岡、その他の地域まで

  9. 郷土寿司の世界: 日本の多様な寿司文化を探る

  10. 鮨と日本酒のペアリング

  11. 鮨の作法とテーブルマナー

  12. 家庭で美味しいスシを作るための必需品

  13. ポップカルチャーの中のスシ: マンガと映画

  14. スシの健康と持続可能性

  15. まとめ:スシの未来

なお、こちらがサブスタックの英語版記事になります。

それでは、今後ともよろしくお願いします!

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