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クィアは主題じゃない"エゴイスト"- 2023/02/18 日記#69

・ヘッダー cr. Twitter @egoist_movie

ネタバレあり。原作未読、パンフも途中まで。

・多分あとから追加するし、もしかしたら整理して本垢の方で投稿するかも。

・この作品、不自然なまであるアップの描写、手持ちでの撮影、長回し、かなりカメラの写し方に特徴があった。

・その撮影方法が、時にFPSだったり、TPSだったりする。いや、まあ、S(シューティングゲーム)ではないけど。視点の話。

・面白いなと思ったのは、浩輔が龍太に「僕が君を買う」と打診するシーン。このシーンも2人の顔のアップしか写ってないのだけど、耳には龍太が着ている上着が擦れる音が入ってくる。最初は龍太が自分で所在なく触っているのかと思ったけど、シーンが進むにつれて、これは浩輔が手を伸ばしていたんだろうなとわかった。

・いや、序盤は龍太なのかもしれない。というように、俳優たちの細かい演技をあえて映さず、この作品は常に表情に注目している感じがした。

・あと浩輔が小銭を落とすシーン。あのシーンは、特にカメラが近くで見守っているような感じの視点になっていて、もしかしたら龍太視点なのかな、と思うようなシーンだった。

・最初と最後のタイトルコールが無音だったのが印象的。

・あえて詳しく読まないようにしていた各種インタビュー。ゲイの役を演じるにあたって、偏見を助長しないように、ゲイの方にアドバイスをもらいながら慎重に演じたと話していたらしい鈴木さん。どういうことだろうと思っていたけど、見たらその意味がわかった。

・鈴木さん演じる浩輔は、ゲイの友人たちといる時や素に戻った時には、物腰柔らかい表現をする人。つまり、あえて言葉を選ばずに言えば、それこそステレオタイプの、”世間の人がイメージするゲイ””女性的な”話し方や仕草。

・確かに、これを想像や誇張で演じてしまうと、当事者の方たちはあまり良く思わないかもしれないし、映画を見た人に余計な偏見を植え付けてしまうかもしれない。

・最近よくクィア作品に出演した役者へのインタビューで「男性同士っていうのは関係なくて、一人の人間として演じました」みたいな回答を目にする。ような気がする。

・それは本当にそうなのだろうけど、ヘテロコミュニティにはない、ゲイコミュニティのノリや会話パターン、あるあるなんかは、やっぱりヘテロを演じるのとゲイを演じるのでは変わってくるはず。もちろん、これはセクシャリティに関わらず、どのキャラクターでもそうなんだけど。どんなコミュニティにだって身内ノリはある。

・ウリのお客さんはネコが多くて、キャストはタチの方が断然需要が高いとインタビューで読んだことがある。実際、龍太もウリをしている時はタチ専門だったので、やっぱりそうなんだ!と思った。

・このトップボトム問題、創作で、特に女性向けだと重要視されがち。だけど、実際は流動的である場合も多いらしく、エゴイストでも2人の間ではどちらも描写があったのも、リアルだなと感じた点。

本作では「LGBTQ+インクルーシブ・ディレクター(※2)」や「インティマシー・コレオグラファー(※3)」の方も制作に参加されています。

鈴木亮平、ゲイ男性の役を演じて「いかに自分が無知だったのかを思い知らされた」

・特に注目したいのは、インティマシー・コレオグラファーについて。この記事を読んで初めて知った。インティマシーシーンにおける動きや所作の監修を行い、役者のサポートを行うスタッフのこと指すようだ。

・このインティマシーシーンというのは、おそらく、何度も何度もリテイクを重ねるのも大変だろうし、よりパーソナルで情報も集めにくいシーンだと思う。そういうのを、役者と監督の間に入ってすり合わせを行うスタッフがいるというのは本当に心強かったのではないかな。

・この映画を通して、他の作品でも、どんどんこうしたスタッフの導入が進んでいって欲しいと思う。

・そして、もう一つ。インティマシーコーディネーターという仕事もある。インティマシーシーンにおいて、役者と監督との間に入るスタッフだというのは変わらない。だけど、コーディネーターは演技指導を行うわけではない。その前段階である、役者がどこまでOKなのか、監督はどこまで求めているのかを調整するお仕事。

・私の好きな作品では、このインティマシーコーディネーターの方へのインタビューが上がっている。見ている側も、こうして専門のスタッフの方が演者を支えてくれて、無理をしない範囲であのシーンが出来上がったんだなとわかって、本当に安心した。

・『エゴイスト』のお二人にはコレオグラファーのみがついていたようだけど、大丈夫だっただろうか。

・ゆくゆくは、インティマシーシーンのある映画では、こうしたコーディネーターやコレオグラファーを起用するのが当たり前の世界になっていってほしい。

・話は本編に戻り。

・歩道橋で龍太が浩輔にキスしたシーン。それまで不機嫌な顔を見せたことがなかった浩輔が、すっと真顔になって、少し怒ったように静かに問い詰める。お礼だとしたら、失礼なやつだ馬鹿にするなって怒ってただろう。

・でも、実際は龍太は浩輔に惹かれていて、我慢ならずにキスしてしまっただけ。こんな可愛い子、そりゃ浩輔もエゴ丸出しで助けたくもなるよ。

・ところで、龍太はトレーナーの傍らで現場作業や皿洗いなど寝る間も惜しんで働いていた。こういう言い方は偏見に見えるかもしれないけど、あのビジュアルではちょっと違和感があった。

・昼職もいいけど、それこそバーテンダーとか、夜職には興味なかったのかな。母には言えないのかな。私は言えるけど。

・龍太は高校中退で、おそらくその中退した高校も、そこまで学力偏差値が高い学校ではない。龍太の発する言葉が、短い文節、単語になっているシーンが所々あって、逆に文学や芸術を愛し言語化が得意であろう浩輔が、大好きなケーキの素晴らしさを言葉巧みに力説するシーンと対比になっている気がした。

・この映画、見た目はクィア映画だけど、いざ中身を見たらクィアは全然主題ではなくて、ロマンスでもなくて、メインはヒューマンドラマだった。

・ちなみに、クィア作品で”先立った恋人”の母との話、という共通項のある映画がある。『追憶と、踊りながら』だ。こちらは舞台作品のような会話劇で、移民問題や介護問題も取り扱っている。エゴイストとは全然傾向が違う作品だけど、一見の価値はあり。

・浩輔と龍太の恋人としての関係性は描かれていたけど、恋愛が描かれていた印象はない。

・これはヘテロでも成り立つ話。だけど、たまたま作者の方がゲイ(ではないかもだけど、少なくとも男性は恋愛対象だったのだろう)だったから、クィア作品になっただけ。

・もちろん鈴木さんが言うように、この作品においてゲイとして生きる描写を大切にするのは必須なのだけど、だからといってメインストーリーがそこかと言われたら、私は違うと思う。

・この作品の根本のテーマは、愛とエゴ。

・愛がなんなのかわからない浩輔。自分なりに愛を表現しようとした結果、それは高級なお寿司だったり、お金だったりした。

・龍太の母にお金を渡す時に、「これは僕のわがままなんです」と言っていた。浩輔は自分をエゴイストだと思っている。

・浩輔はきっと死ぬまでこの出来事を反芻し後悔するんだろう。あの時自分が龍太のウリをやめさせなければ、もう少しお金を多く出せれば、不調や無理に気づいてあげていれば、出会わなければ。

・5倍くらい違う梨の値段で悩んでいたり、友人たちとの会話だったり、まだ大きな役職がつくには若い年齢、マイナス表記ばかりの口座の履歴。これらから察するに、浩輔も決してお金に余裕があるわけではない。少し、いや、結構無理をして、もしかしたら貯金を切り崩して、なんとか出してあげられる限界まで包んでいたんだろう。龍太の為に。

・浩輔視点で進むので、龍太の気持ちはわからない。だけど、今まで誰にも甘えられず一人で頑張ってきて、どうしようもないと思っていた自分の人生を救おうとしてくれる人が現れて、母に会わせたいと思えて、初めて愛のないセックスの違和感に気づいて、つらいこともたくさんあるけど幸せだったんじゃないだろうか。

・そんな龍太の母と浩輔の初対面シーン。お味噌買ってきて、の流れで、龍太の言葉遣いや雰囲気で、本当に素直で可愛い息子なんだなと思った。

・浩輔に、結婚はしてるの?彼女はいないの?と執拗に聞く母の話を遮ろうと、浩輔からもらったジャケットを自慢する龍太。これがなければ、今の母と龍太の思い出の写真は、一枚も残ってなかっただろう。病室にも写真立てに入れて飾ってあった。

・龍太の母はあれだけ浩輔に彼女はいないのかと迫っていたのに、その日のうちに龍太に「大切な人なんでしょう?」と聞いていたらしいのが疑問だった。どこで気づいたんだろう。ジャケットの件でだろうか。その後の映像には写ってないところでだろうか。

・この浩輔が龍太のお家にお邪魔した時、龍太が奥の自室に浩輔を呼び出してこっそりキスしていたシーン、可愛すぎてびっくりした。

・天国は信じない、目に見えるものしか信じない、超現実主義の浩輔。だけど、龍太の母が「今頃天国では、あなたのお母さんが龍太の面倒見てくれているんだろうね」と話した時に、少し間をあけて「そうですね」と返している。これは気遣いでもあるだろうけど、龍太との会話を思い出したんじゃないのかな、と思った。そして、少しはそんな世界も信じてみたいと、思ったかな、思ってないかな。

・同室の、おそらく認知症であろうおばあさんに「息子さん?」と何度も聞かれ、最後には「そうです」と答える龍太の母。実の息子は亡くしてしまったけど、自分と息子を愛してくれた、息子の恋人のことも、自分の子どもだと認めたあの瞬間は、浩輔にとっても救いのシーンだったのではないだろうか。

・膵臓がんのステージⅣ、それもう本当にダメなやつじゃん。膵臓がんは見つけにくく、治すのも大変だと聞いたことがある。

・そう、千葉・房総出身の、加藤純一さんの放送で。

・浩輔が千葉の房総の方出身で、と言った瞬間に、坊主で笑顔のおっさんが私の映画鑑賞を邪魔してきた。あと左隣には逐一スマホ見るやつがいて、右隣にはおしゃべり2人組がいた。最悪すぎる。公開直後の土曜の昼間に見るんじゃなかった。これだからシネコン新作映画は嫌いだ。4K修復と午前十時の映画祭とミニシアターで生きていたい。

・この映画のラスト、龍太の母が「まだ行かないで」と呟いて終わる。これもエゴ?

・私には、何が愛で何がエゴなのか、さっぱりわからない。

・愛の押しつけはエゴだとよく言うけれど、どれが相手にとってエゴだと感じるのかなんてわからない。

・愛とエゴは紙一重。浩輔が人を傷つける嘘と、傷つけない為の嘘があると言っていたように、エゴも一緒だと思う。人を傷つけるエゴと、傷つけないエゴ。どちらもエゴで、どちらも愛。

・そもそもこの愛という感情自体が、究極にエゴイスティックなものなのかもしれない。

・私は、「常に自分を中心に世界が回っている」「他人の感情なんてわからない」と友人達に宣言してるし、自己中心的な自覚はある。でも友人たちもそれぞれそうであって構わないとも思っている、というか、私の友人たちはみんなそう、だと思う。人間、結局自分が一番大事で、最終、自分を大事に出来るのは自分しかいない。

・龍太の母に同居を提案した浩輔は、「無理にとはいいませんが」と、この作中で初めて自分から折れた。

・これは浩輔が自分の愛の押し付けでこれ以上、龍太と龍太の母を傷つけないための尊重だったのではないかなと思う。

・大切なのは、一人ひとりが自分を大事にし、相手も尊重すること。

・愛もエゴも全部ひっくるめて、大きく受け止められる人間に、私はなりたい。

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