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Narcotics Anonymous 6th 個人の物語 はじまりの章 

Narcotics Anonymous
6th Edition

ナルコティクス アノニマス
第6版

2008年

Our Members Share
私たちメンバーの分かち合い


“My gratitude speaks
When I care and
When I share
With others the NA way”


『NAウェイを共に歩む
他者を気遣い
共に分かち合うとき
私の感謝の気持ちが伝わる』





メンバーである私たちの分かち合い”のはじめに
英文ベーシックテキスト第6版 P111~P115)

 
 ミーティングにおいて、生活において、文献の中で、私たちは経験とクリーンで生活しながら回復するために日々使っている道具をシェアすることでお互いに支えあっている。最初の10章はプログラムを説明するための私たちの知恵の集積が収められている。そしてここからはプログラムに生きる個人の経験についての章になる。私たちNAメンバーの生活はプログラムに依っている。プログラムはメンバーの声を通して生きてくる。
 

 第一の伝統は、自分と異なる点を越えて共通の福利のためによく観察してみることを私たちに教えてくれる。この伝統に書かれている一体性の概念とは、私たちは画一的ではないということだ。時を経ながらそれらの相違点は確かに私たちを豊かにしてくれる。詳細なメンバー個人の物語の中で、真のメッセージが届く。そして私たちがそれぞれどのように似ているのかを知るのだ。これはNAにおけるパラドックス(逆説)というように見ることもできる。個人的において、そしてフェローシップとしての発展は、私たちが共有する絆やアイデンティティを育むものだ。同時に、私たちがお互いにどんな人間であるか、ということを知るためのことを養い、そのことを大切にするということだ。力強くとどまりながら成長をしていくために、私たちはその両方の見地が必要なのだ。
 

 最初のベーシックテキストが出版されて以来、私たちは成長しながらフェローシップも変わってきた。フェローシップも広がり、経験も深まってきている。今日私たちは真に世界規模であり、それぞれの地域のNAコミュニティもまた世界につながっている。今回私たち全体でそれらの変化を包括して反映させるためのテキストのこの部分の改訂を決定した。以下に続くページには、メンバーたちのクリーンになること、クリーンでいること、クリーンに生きることの経験が分かち合われている。
 

 ここで分かち合われる経験は私たち皆が違うように実に様々だ。メンバーたちは学校でのこと、愛した人々を失ったこと、健康問題で苦労したこと、うめ合わせをしたこと、自分のセクシャリティを受け入れたこと、子供の成長、私たちが愛するフェローシップをサービスすること、その他数え切れない成功や挑戦などについて振り返りながら書かれている。多分あなたの信条や、あなたのNAコミュニティに合わせて物語を選んで読むことができるだろう。それぞれのメンバーが選択し歩んできた道は、NA全体を反映された視点でみる必要はない。この部分の話はすべて個人的な体験談であることを念頭に入れておくことが大切だろう。一つの選ばれた物語のコレクションで、私たちがどうであるかという多様性すべてを反映させることは不可能だが、ここになんらかのその豊かさを集めてみた。
 

 それぞれの個々人の話は最初のところにとても内容が要約されて書かれている。もしあなたが何か具体的な点(例えば病気に直面している人、若くしてクリーンになった人)を探しているなら、早く見つけることができると思う。
 

 私たちはこのコレクションを4つのセクションに分けた。それぞれが私たちのメンバーの反映される簡単な分類によって始まっている。最初のセクション、“はじまり”は第5版のベーシックテキストから5つの物語が収められている。その話は歴史的な意味のためにここに選ばれて収録されていて、今回の出版のために改編することはせずに載せている。その何人かの初期のメンバーの声は、私たちが形作った年月の窓口の役割をしている。

 “Beginnings(はじまり)”に続き、テキストはさらに3つのセクションに分けられている。“Coming Home(帰郷、家に帰る)”セクションではメンバーたちがNAを見つけたこと、それに似た話、自分の地域でNAを始めた話などが分かち合われている。ここの文章は誰もが、年齢、人種、信条、宗教の有無に関係なく、NAにホームを見つけることができる事を教えてくれる。“Regardless of(~に関係なく)”セクションでは、メンバーたちが、NAの中で自分自身を受け入れるためにかかった旅路について話している。そしてNAを私たちすべてが安心して歓迎される場所にすることができる事を教えてくれる。最後のセクションは、“Life on Life’s terms(人生の一場面)”だ。これは生きていく上で起こる出来事にどう向き合い原理を実践するかに焦点をあてている。私たちは完全に目が覚めた状態で生きていて、楽しみや悲しみを感じ、日々のなかでシンプルな喜びを手にしている。
 

 あなたがここで読むすべてに関係があるとは感じないだろう。――NAミーティングで分かち合うすべての人たちがそれぞれ違っているように。しかし少なくともいくつかの声があなたに触れて、心に響くことを願っている。NAの中で、私たちはアディクトとしては個別的ではないが、人としてはそれぞれの個人としてあり、個人の経験を持っている。つまり私たち個人は私たちの部分的要素の集積よりもずっとたくさんの経験を持っている。私たちはお互いに、クリーンタイムや出身地に関わらず、心を開き、正直に分かち合いをすることで提供できる何かや、心を開きながら話を聞くことで得られる何かを持っている。






Begging ― はじまり

(英文ベーシックテキスト第6版 P116~P154)

 初期のメンバーたちによるいくつかの物語のサンプルから、70年代の終わり、そして80年代初頭のNAを垣間見ることができます。彼らは歴史的な意味のためにここに選ばれて収録されています。そのため編集せずに載せています。どの時代でも私たちは自分たちの母国語や気質合わせてより分かりやすくなるように学んできました。またこの物語は、実際には第5版(1988年出版)で載せたものを再収録したものです。

 このセクションの最初の短い文章群は前の第5版のベーシックテキストから抜粋したものです。



リフレクション(回想)

 私はNAミーティングを自分の地域で始めることを提案されていました。私は怯えていて自分は十分なクリーンタイムがないと思っていました。友人は私が変わりたいと思っている限り惨めなことにはならない、と話してくれました。神の手助けと、他のアディクトたちと共にミーティングを開きはじめて、成長していくことが続けて来れました。
 私は自分が受け取った物を持ち続けるために、積極的にNAサービスをすることを通じて分かち合いをしています。どこでも何があっても私はそうあるように努めています。このフェローシップのスピリットは今も私と共にあります。私は無条件の愛を知るようになったのです。



 私はそのころ身長が165cmで体重が128kgでした。自分の感じ方や感情を何とかしようとして私は嫌おうなしに食べていて、そうすることで気分がいいと感じていました。実はこの事がもともと私がヘビードラッグを使うようになった理由でした。私は必死に体重を減らしたいと考えていてヘロインを使おうと思いました。物に突っかからないくらい十分にスマートになるだろうと、食欲もへらせて気分も良くなるしこの「ゲーム」に勝てそうな気がしていました。国中をさまよってたどり着いたのは刑務所でした。これが「終わり」の「始まり」でした。常習オーバーイーター(過食)の、デブ人生の終わりというだけじゃなくて、薬物に頼ることしかできなかった人生の「終わり」でした。
 私がこのプログラムにやってきた時、これは今までに全く経験したことがないものだとわかりました。どんな事をしてきたとか、どんな人間かとか、そういうもの全部ありのまま受け入れてもらえるんだということを初めて経験しました。私はいつでもフェローシップに歓迎されました。何も押し付けられることもないし、何も代償を求められることもなく。これまでの人生を通して代償は十分に支払わされてきたのです。そしてフェローシップに参加すればするほど、自由や新しい生き方を手にすることができるのだと分かってきました。
 間違いなくNAのフェローシップと自分で理解している神とのおかげで、僕は人生を生きているのです。



 たくさんのものごとが本当にうまくいっていた。僕は学位を取り、新しいクルマを手に入れ、自動車免許を手に入れて、両親ともいい関係でいた。僕のガールフレンドはセラピストに通っていて、その人が僕たちが何か、例えば僕たちの地域でNAミーティングを始めてみること、を一緒にやってみるのはどうかと話した。もっとも近いNAミーティングは一時間以上かかるくらい離れた場所だった。そしてそこはまだようやく二ヶ月がたったばかり会場だった。僕たちがNAミーティングを始めてから二ヶ月経った頃、彼女はハイになり引越していってしまった。僕の親友がしばらくずっとハイになっていて、彼らは二人で一緒に出て行くことにしたのだった。そのことは僕の心を引き裂いた。僕は毎晩泣き通しで、飼っていた犬は耐え切れずに逃げていってしまった。
 僕がこのNAミーティングを始めてから、ずっと通い続けて、ミーティングは成長していった。僕は今その二年とともにここにいる。ミーティングで泣き、自分を残念に思って意気消沈しながらも、30日クリーンの新しい仲間が僕に「きっとうまくいく、今あることに感謝しよう」といってくれて、それが僕をミーティングに行くことを続けさせてくれる。フェローシップで新しく知り合った人たちが僕の家にやってきて12ステップをさせてくれる。彼らは僕を愛してくれている。僕はこんな感じでその二ヶ月過ごしていたが、その間にミーティングを二つさらに始めた。僕はいま週に3ヵ所ミーティングを開いている。そして僕はステップに取り組むことを始めた。僕は自分の住む地域のサービスが発展するためのことをやり、今持っていることすべてに感謝を感じ始めている。今生きていることに感謝していて、それはNAのフェローシップのおかげだということを信じている。




 自分がNAにはふさわしくないのだと感じていたのを覚えている。なぜなら他にいろんな薬物を使っていたのだけれど、大麻が私の大きな問題になっていたからだった。私は小さなホワイトブックのパンフレットナルコティクスアノニマスを読んだ。それにはアディクトとは“使うために生き、生きるために使う”者とあり、私たちの生き方考え方は手に入れること使うことが中心だったと書いてあった。それは自分のことのように思えた。それからホワイトブックではどんな薬物を使ったかは問題にせず、メンバーになるために必要なことはやめたいという正直な願望だけだと書いてあった。私は「うーん、たぶん彼らは私も居させてくれるだろう」と考えた。私は毎日ミーティングに行くことを始めた。そして他のアディクトと話をした。メンバーたちは私が必要だと話してくれて、私はその中の一員だという感じを持ち始めた! 私は定期的に出席をして、新しいミーティングのサポートをしようと努力した。私は使わずに、棚卸表を書き、うめ合わせをし、そして祈った。私が自由を手にしたことを自分で理解する神に感謝していること多くの物事のひとつだ。ある日私は自分がアディクションから解放されたことに気付いた。とらわれと強迫的な欲求はもはや私の人生を支配する力を失っていっている。スピリチュアルな成長をしながら。



 ナルコティクス アノニマスに来る一年前に私は希望もなく咳止めシロップに依存していて、一日に5,6本の瓶を開けていた。私は助けが必要で医者に言ってみた。医者はデキサドリン(アンフェタミンに似た成分)を処方して、私を気分よくさせようとしたのだった。私はその医者にほとんど毎日行ってしまう自分に気づいた。それが約8ヶ月続いた。そして私は新しい合法のアディクションを見つけたと、とても嬉しくなっていた。私はまた違う医者からコデインもらうようになっていた。そして頭がおかしくなってきて、酒も飲み始めた。それが半年ちょうど続いて、精神病院へ入って終わりを迎えた。そこの病院から解放されてから私は薬物から自由になったと思って、私は社会の中で酒を飲んだ。私はすぐにそれは無理だと気づいた。そして私はNAに助けを求めた。
 ここで私は本当の問題は自分が使用した薬物にあるのではなく、何年にも渡って薬物を使ってきたこと、そしてそれ以前から進行してきた、歪んだ性格のせいであることを学んだ。NAで、私はフェローシップの中で他の人たちの手助けをして、私も助けられている。私は現実に向きあうことで自分が進歩していることに気づいて、その日その時に成長している。私はいま新しいものに興味をもっている。それは私が薬物の中に見つけようとしていた何かしらのものだと認識している。

 



 私は仕事を持っていて、きちんと働いていた。しかし私の生活はうまくいかなくなっていた。私は依然として薬物に依存していたのだった。これは終わりの始まりだったし、回復のはじまりだった。そのとき私は希望がなく自暴自棄になっていて、ただもう横たわって死にたくなっていた。
 私はメタドンプログラム(離脱症状を和らげるプログラム)を探してみたが、どこも利用できなかった。上司がその次の日になにか調子が悪いのかとたずねてきた。それを知っていたので、私は彼に本当のことを話した。私は自分がドラッグアディクトだと伝えた。彼は助けが必要なら話してくれといった。私は必要だと伝えた。
 これが多くのスピリチュアルな目覚めの最初の出来事になった。私は中間施設からルイジアナの病院へ移った。そこでナルコティクス アノニマスを知ることになった。ストリートで一緒に走り回っていた連中ならよく知っていたが、NAは知らなかった集団だった。そこには私が知っている人たちと違う何かがあった。彼らは私がほしかった平和をもっていたのだ。




 今日、私は鏡を見ながら、自分に笑いかけることができる。今日良い自己イメージができているとは言わないが昔よりは良くなっている。私が使っていた頃、のるかそるかの技術をマスターしようとしていた。私は状況から逃げたり、戦ったりしようとしなかったが、決して向かい合うことをしなかった。ほとんどの場合、私は向き合うことを避けてきた。平安や降伏という単語は私の辞書から忘れられていた。私はいま日常生活で降伏をしながら平安でいることを学んでいっている最中だ。
 人生の半分の間、私は混沌と破壊の海をむやみやたらにぐらぐらと操航してきた。ナルコティクス アノニマスのプログラムで平安や方向性が見えてきた。私は私の経験がまだ苦しんでいるアディクトの役に立つことで自分自身も成長しているのを感じている。ずっと探し求めていた自由を、このプログラムのステップの中に私は見つけたのだ。







 彼がまだ使っていたころ、“母”から別のところへと逃げていました――彼の母の家から軍隊へ、軍隊から結婚へ――彼の妻がその狂気に飽き飽きして世界で唯一のNAミーティングを見つけるまでは。第一版からの物語の中で、このアディクトは時間が掛かったことを認めています。しかし行動することを学び、ついに彼は自分自身に責任を持ちます。(P121~P127)


私は世界にたった一つだけのNAミーティングを見つけた                  

 

 私はロス・アンジェルスのボブ・Bです。人、場所、物のことに関して、私の物語は金持ち層とそれほど違いはないと思う。ただ私がいたところは極端に貧しい地域だった。

 私は治安の悪い通り沿いで育ち、家は貧乏で恵まれない憂うつで崩壊した家庭だった。愛という言葉は私の家で語られることは決してなかった。そこにはたくさんの子供たちがいた。

 私の人生で覚えていることのほとんどが、振り返ってみても消し去られている。何かが起きている間、私はそのことについて何も知ってはいなかった。わたしはただ自分の人生が人と違っていると感じ、何かを奪われていると感じていたのを覚えている。私はどこに居ても、何かを与えてもらったときにも、決して満たされたと感じたことはなかった。私は空想の世界の中で成長していった。フェンス越しの他人の家がいつもよく見えた。自分の家の芝生は青くは見えなかった。そして私は頭が悪かった。私は学校生活を切り抜けるために近道するあらゆる方法を学んだ。

 いつも家から出て行く夢を思い描いていた。そこは私の居場所ではなかった。私の一番の空想はどこか外の世界にある良い場所にたどりつくことだった。私は遅めに薬物を使用し始めた。18歳のときだった。私がいう遅いというのは現在の子供たちが使用する年代と比較してのことだ。

 私の母は威圧的に家を仕切っていた。それが彼女のやり方だった。私が注意を引くためにやるいつもの方法はというと、毎日のようにわざとお尻を打たれることだった。また他の方法をしては病気になることだった。私が病気になったときは必要に感じたものをもらうことができた、愛や注目を。
 私は母を責めた。なぜなら彼女は私が幸せに成長することができるようなよい選択をしなかったからだ。

 私は軍隊に入った。そこは走るための場所だったからだ。私は長い間軍隊に入っていた。そこでは家に居たときと同じような機会――光熱費、簡易寝台、そして責任を持たなくて良いことを与えてくれた。私は自分が責任の持てる人間だったということができる、なぜなら私はかい階級を持っていたし、いろんな仕事をこなした。でもそれは軍が何をやるべきか、どのくらいやるのか、一歩前の方向を示してくれていたからだった。

 私の最初の薬物はアルコールだった。私はそこに二つの人格があることに気付いた。アルコールまたはその他の薬物の影響下では、人格が変わるのだ。

 私は後に振り返り、この人格の変化は父にも起こっていたことに気付いた。私には使う前からこの二つの人間がいた。私はどうやれば手早く盗めるかを学んだ。どうすればうまく嘘がつけるかを学んだ。どうればずる賢くだませるかを学んだ。私はこれらのプロセスをうまく進めていった。私は薬物に依存するずっと前から、盗むことに依存していた。盗むと気分がよくなるからだった。もしもあなたにお気に入りのくつろぐための物があり、昔の私がそれを盗むことができたなら気分良くなっただろう。私は盗むための道具を持っていた。私はそれを持ってない限りそこに入る事はできなかった。
私は若くて世間知らずだった。薬物について何も知らなかった。薬物は1930年代、1940年代は話題に上がるものではなかった。それは薬物がそのときは違っていて、彼らが以前それらに関してただ話さなかったということではない。彼らはセックスや薬物や宗教や、それらのことについて議論したり説明することをしなかった。話に上がることはなかっただけのことだった。

 私は初めて薬物として、極東(日本・中国・韓国など)でヘロインを経験した。アヘンについては聞いたことがあり、それを試してみた。私はヘロインを火で炙って、注射器に入れることを知った。その他いろんな国によって様々な、薬局に入って店員に頼めば手に入るような薬物がたくさんあった。そうして私はアメリカ国外に9年間滞在していた。そのためアメリカ国内の規制に私の行動が直面することがなかった。

 私は自分の病気の進行について何も知ってはいなかった。アディクションについて何も知らなかった。私は何年もの間、自分のアディクションを無視して走り回っていた。知らなかったのだ、ただ単に知っていなかったのだった。

 あなたが何年も使い続けて壁にぶつかったときでも、私には忠告してくれる人は誰も居なかった。薬物から脱却する方法について教えくれる人は居なかった。誰かが言う言葉といえば「病気になるな」で、する方法といえば、使い続けることだった。

 軍のなかで私の一つの問題に気付いた。例えばあなたに命令が下り、国外へ送られる。そして軍はあなたと連絡することはしない。あなたが病気になる。あなたはそれを回復しようとして次回の補給で十分な量の支給を得ようとするだろう。そしてあなたの給与は一週間と2,3日は残っている。

 私は病気の進行や自分の行動の結末についてなにも知ってはいなかった。病気の進行は私を捕らえて、軍が私を送っただけの距離で、私は輸送と密輸を始めた。また、もしあなたが務めが果たせなくなる限界を超えて薬物を使用したら、軍は難色を示しだす。次にすることはあなたを監獄に入れることだ。それから軍は残酷な仕打ちをする。私を路上に追い出したのだった。

 私は自分をケアする余裕がないほど病気になっていた。私はある一人のママの所から違うママのところへ逃げた。彼らは私を気遣ってくれたが、街にはだれも私に気をかけてくれる人などいないことに気付いた。私は自分が賃貸を払うことや働くこと、そして責任が持てないことに気付いていた。そのため自分の責任を押し付ける誰でもよい人が必要だった。私はたくさんの母たちを渡り歩いた。

 私は街でどう金を稼げばよいかも学んだ。多分わかるとおもうのだけど、軍はたくさんの装備品を与えてくれるので、私はそれをよく売ることができた。私は盗むことが好きだったのでよく売って金にした。私は他のプロセスも学習した、私はステーキとタバコを腕の下に抱えて店の窓から隣の店の窓へと飛び移って、警官から逃げるという風に。

 ドラッグアディクションと一緒に進むことがきっと刺激的であると私は考えていたのだ。それは子供のころにやっていた、警察と泥棒の遊びのように。私はドラックアディクトよりも警官の方が数が多いことに気付いた。彼らはそこら中で目を見張らせていた。私はどうやって人ごみの中から私を見つけて引っ張りだし「クルマに乗って、さあ行こう」と声をかけることができるのか全く理解できなかった。彼らは10回に9回は汚いやり方で私を捕まえた。

 母たちを見つけるプロセスの間に、ある母が私を見つけた。私はこの機会を逃さないために、彼女の書類を手に入れて、逃げられないようにした。
私は正確に選んでいた、使っていない人を選んだ。私は使っている人たちについて分かっていた。私が捕まったとしても決して来てくれないのだ。保釈金など払ってくれるはずがない。自分の嗜癖を満足させることに忙しくて決して来てくれやしない。

 そのため私はそういう心配のない人を見つけたのだ。彼女は学校に勤めていて、住む場所があった。彼女は一つ欠点があった、彼女は自分で気付いていなかったが、いつも心配する誰かを必要としていた。他私はその第一候補だった。私は心配されようとした。彼女は私の行動と共に私を助けようとした。彼女は私が刑務所にいるときにプロポーズしてきた。私は「はいしますよ。ただここから出すために保釈金を払ってくれ」といった。

 それからの三年間、私は彼女を私から離れさせないようにして彼女をすっかり参らせてしまった。それで彼女は出て行き、まだ世界で一つだけのナルコティクス アノニマスのミーティングを見つけたのだった。彼女がどのようにして見つけたのか私は知らない。その時そこは全世界でたった一つしかないミーティング会場で、彼女は出て行ってそれを見つけて、私は彼女をミーティングに行かせて、そこをチェックさせた。

 あなた方にその時代のことを知っていただきたい、ドラックアディクトは世間に知られていなかった。ただ落ち着けるので二人のアディクトがそこに集まっていただけなのだが、警察が張り込んでいた。このようにその時代ではドラッグアディクトは扱われていた。そこにはアディクションについての理解はほんの少しだけだった。私はドラッグアディクトを手助けするということに関してとても疑いを感じた。ドラックアディクトにすることといえば監房に入れておしまい!だと私は知っていた。そんなところは行くべきようなプログラムじゃない。フォートワース(テキサス州の都市)やレキシントン(ケンタッキー州の都市)ではない限り。

 私はいつも自分が使う理由として悲しい物語を持っていた。ある日半年くらいの旅行から帰ってくる途中、近くの食料品店で手に入れた一かたまりのパンを手に入れてから、家に帰ってバックをドアの近くに置いた。私はそれまでに50回いや何千回と彼女に「ミーティングに行きなさい」と言われていた。だが今回は違っていた。そのとき彼女の声色が何か違った。それで私はバッグを持って街に出て行くしかなかった。

 私は路上で生活することに慣れていった。私は廃車の後部や、ランドリールームや、空きビルでの生活の仕方を知っていた。もちろん私は一度も自分の家を手にしたことはなかった。私は賃貸料を払うことができなかった。どう払うかも知らなかった。もし3ドルポケットに入っていたのなら、その3ドルはどこかに滞在する前に薬物に消えてしまう。シンプルな話だ。私は薬物を使って路上に住んでいたときに住む場所を移すために一回だけ払ったことがあったと思う。それは「できるもんなら捕まえてみろ」とその時呼ばれていた。それまでがほとんどの場合が監房にいたので、なんの苦もなかった。   私は刑務所に閉じ込められるまで街を逃げまわり、まもなく私が行くべき場所を手にした。そこで私は休むことができ、そこから出たとき再び使うための健康状態を取り戻すことができた。

 私は21年ほど前にナルコティクス アノニマスにやってきた(この文章が書かれたのが1981年)。しかし自分の為に来た訳ではなかった。私は彼女の口を塞ぐために来ただけだった。私は続けてミーティングに参加した。

 私は自動車免許を持っていなかった。就業する能力もなかった。いるべき場所がなかった。私は犯罪者だった。お金もなかった。クルマも持っていなかった。私にはいい女性もいなかったし、新しい人が必要だった。私はこの問題をすべてミーティングに持っていって話すと、彼らは「続けてやって来なさい」と言った。そして「ステップをやりなさい」とも言った。私はよくステップを読んでは実践しようと考えた。数年経ってみて、ステップを読んでみても、そのとき私は読んだことについて何も分かっていなかったことに気付いた。

 彼らはいろんなところで私が自分がアディクトであることを教えた。私はアディクトのレッテルを貼られてしまった。軍から、刑務所で、いろんなところで、レッテルを貼られていった。私はそれを受け入れたがその意味について理解してなかった。私は外へ飛び出し、プログラムに戻ってくる前にいろいろと試して見た。
 私が学ばなければならなかった一つは、プログラムが何のためのものかを理解することだった。私はプログラムが何を言っているのかを知ろうとするようになった。私は死の淵に立ってみて初めて、そのことが理解したいと思わせてくれた。私は死が長い間自分の相談役になっていてくれたと思う。私は何度もオーバードーズしてきたのだが、それはいつも私が望んでいた場所だった気がする。しばらくの間空白の時間が過ぎていき、すべてがオーケーだと感じられるからだった。そのたびに私はこう言った、「おう、もっとくれよ」と。それは狂気だ!

 私にとっての最後のケースはフェンス越しに自分で撃つのではなくて、撃たれようとしていた。そんなことになりたくはなかった。警察と泥棒の遊びはそのとき危険なものになっていた。彼らは銃をもっていて、私は彼らの射撃練習の標的になりたくはなかった。警官が私の口に銃を突っ込んだり、頭に突きつけたりして壁に張り付くようにいうようなことが何度もあった。
 なんらかの薬物を使っていた最後の日に、私は追い詰められ、二人の警官に金網のフェンスに両手を付かされていた。そのことが私を何とかしなければと考えさせた。私はシラフになり、速やかにクリーンになった。すべてのことがとても明白になって、こんな風に死にたくはないのだと思った。何かが頭の中でカチッと音がして、私は「こんな状況にいる必要はないのだ」と思った。

 最後の安息と療養の日々のあと(刑務所にいる期間のことだと思われる)、私は自分にもステップができることを知った。私の人生のすべてが直接的な結果となって変っていった。私はステップのやり方を改良していき、どういうことを言っているのかを理解しようと努力した結果、何を言っているのかをしっかり理解することができた。私はすべてのステップごとに、たくさんの確かなアクションがあることを見つけた。私はどのようにステップが私に適用するのか知るためにアクションを実行しなければならなかった。私はいつもステップが私だけではなく、あなた方にも用いることができると思っている。

 ここからは神とスピリチュアリティについて話したいと思う。私は長い間、神についての考えを頭から締め出してきた。私が教会にそのことを見つけようとしても、教会でやることなど何もなかった。私は神とスピリチュアリティは教会でやらなければならないことではないことに気付いた。

 私はさらによく学ばなければならなかった。それはある種の大変な冒険だった。私の人生は変わり、以前からはほとんど信じられないくらい広がっていった。しかしながら、私が何からそうなったかを知っている。私はコンスタントに私に思い出させてくれる人がいるのだ。新しい仲間たちが必要だし、人々と話すことも必要だ。

 このプログラムは私の一部になった。私の人生の一部になり、私の人生のためのものだ。私は今日、自分の人生に何が起きているのかをより明白に理解している。もうプロセスと戦う必要はないのだ。

 私は自分に与えられたものについて責任を負うことができるように、ナルコティクス アノニマスのミーティングにやってきた。今日、私はそのことを気をとめて配慮している。私はNAの中で愛することや配慮することや分かち合うことに依存している。私は人生のなかでそれらのことで一層楽しみを抱けるようになった。

 私はアディクションの問題を持っている。それは薬物を使って罰をうけるという意味ではなく、とらわれと強迫的な欲求を含んでいる意味だ。私はいまそのための道具を持っている。回復の12ステップが道具なのだ。

 






 

 彼は人々が楽園と呼ぶ場所に住んでいたが、第一版からの彼の物語の中で、このビーチキャンバー(海辺に住むホームレス)は“どや街が居場所”のアディクトのために分かち合いをしています。NAを通して、彼は心の平和と新しい生き方を見つけます。(P128~P134)

ミッド・パシフィック(中央太平洋) セレニティ


 私はドラッグアディクトです。神の恵みとナルコティクス アノニマスの12ステップによってクリーンでいることに感謝し、幸せを感じている。今日人生は満たされていて、私の心には喜びがある。

 昔はこのようではなかった。私は12年間酒を飲み、薬物を使った。そのうち10年はほぼ毎日だった。私はいろんな意味で希望をなくしたアディクトだった。そういう星の下に生まれてきたのだと本当に感じていたのだった。
私は南カルフォルニアで生まれ育った。愛すべき中流階級の家族だった。二人の姉と私はすべてにおいて、子供たちを愛しそれを示すことを求められた。思い出す限り、私は家族と自分の人生が切り離されていると感じていた。もちろん、人生に対しての強烈な怖れを抱いていた。私は子供のころの純真な感情を思い出すことができない。

 私はアディクトとしての人格を成長させていった。自己が暴走していった。私はいつでも自分のやり方を通すことを求めた。そしてそれができない時にすることと言えば、みんなご存知のことだと思う。

 南カルフォルニアで成長していく中、私はビーチに行ってスポーツに熱中することですべてが普通のことのように感じられた。しかしいつも恐れと、相応しくないという感情は私の心の奥から離れることはなかった。

 私は学校生活では平均的な生徒だった。たくさんの友達がいたが、恐れに支配されていていつも一歩引き下がっていた。私が最初の薬物、アルコールを試したのは多分15歳の頃だったと思う。最初の飲酒から私は記憶を失った。ついに私は恐れから解放されたと思ったか、またはそうなれると考えた。その拒絶感を私が認識するようになった初めから、私はビーチの埠頭の下で眠る人々と変わりなかった。

 この12年間を振り返ってみると、私が試したそれが何の薬物であれ、どれだけ愛していたのかわかる。アルコールは始まりに過ぎなかった、もしもあなたが何かをくれたのなら、私はそれを試し、いつだってもっと欲しがっただろう。それが接着剤を吸うことだろうが、最高のコークやヘロインを打つことだろうがどうでもよかった。私は金持ちでも、やかましくえり好みするアディクトでもなかった。私はただハイでいることが必要で、すべてのエネルギーがその方向に向けられていた。

 私は高校3年の時に学校をやめた。サーフィンが私の人生の一部になっていたので、ハワイに渡った。私の両親は、自分の自暴自棄を隠しながらよい職に就かない息子にとても困惑していた。正気で人生を生きている人たちにとって、私は自分を見失い不幸せに見えただろう。ご存知のとおり、それは私が使い始めてからすぐ後のことだった。アルコールや薬物は最初から私がするべきことをさせなかった。すぐにあの怖れが戻ってきた、そして以前よりもずっと酷くなっていた。

 私がはじめてハワイへ移ったのは1962年のことだった。それはいつも自分から逃げるために何度も行くことになる初めてのハワイだった。昔のハワイは、そして今も、楽園だった。しかし私はいつも薬物がきまった状態の目を通して見えていた。温暖な気候のおかげで、自分の知っているたった一つの生き方を突き通すことができた。街をさまよい歩き、路駐したクルマで寝泊りしたり、他の利用できる施設を利用することだ。19才の時、三度目のハワイに戻っていた。私は立派なアディクトになっていて、途方にくれて酷く困惑していた。私が知っていることは飲まないといけないこと、薬物を使わないといけないということだけだった。その他の方法はなかった。

 1963年の夏の終わりにカルフォルニアに戻った。私は海軍に入ろうと思った。道を見失ったままで、サインさえすればいいのだと、もっとも簡単なことに思われた。仕事を探すよりも簡単だった。私はそのときすでに燃え尽きていて、他の何かを求めていたのだ。しかしどうやって助けを求めればよいか分からなかった。海軍はもちろん解決になかなかった。薬物の使用は続き二年後私は解雇された。精神科医は私の精神は、マリファナとLSDを使ったときに壊れてしまったのだと言った。そして私は海軍で怒って甲板から飛び降りたのだ。

 いったん海軍を出れば何か変わるだろうと自分を納得させた。誰も私にすべきことを教えてくれる人をいなかったが、この時期に私は世界観を修復している、新しい友人たちと出会っていた。それは1965年のことで、それから6年間私の人生で最悪のものになった。今わかるのだが、その数年間が私をプログラムに向かわせてくれたのだった。
 海軍を出てから、私は結婚した。その結婚した女性が何故どうやって私と結婚したかを今でも謎だ。結婚式の夜、私はベニスビーチでヘロインを打っていて、飼い犬がそばにいた。これは典型的な身勝手で自己中心的なアディクトの振る舞いで、自分の事ともっと使うことだけ心配するのだ。きまっている状態で居続けるために売人をやった。仲買人だった。いつも私たちの住む家はいつも監視されていた。それはカルフォルニア州、ベニス市のベニス運河の上にあった。

 私の両親はどうなっているのか知っていたので、妊娠4ヶ月の妻と一緒に私たちをその場所から出るように助けてくれた。そしてハワイに戻った。私たちはノースショアに住んでいた。そこはオアフ島でより遠く隔たった場所で、若い人々が多く住んでいた。それは1967年のことだったが、そして今もLSDはとても人気があるが、みんなスピリチュアルな物事、東洋思想やその指導者、に傾倒していった。LSDについて「あなたも神を見つけることができる」と説明する二人のハーバード大学の教授がいた。それで私はLSDをすべての愛や、平和、そして喜びなど良いものだと考えていた。私は今感じている以上の感情を手に入れたいと思った。そのときも恐れが私の人生を支配していたのだ。私は以前の数年間カルフォルニアで多量のスピード(覚せい剤)を使ってきていた。私はハワイで自分の人生を清算しようと決めていた。それで私は幻覚剤をやり、ハシシュを吸い、その他の医薬品を試して見た。

 「生徒が準備していると、教師が現れる」と以前どこかで読んだことがあった。私に知らされることになるナルコティクス アノニマスのプログラムが、私の教師になってくれるこということがその時気付いていなかった。
その年私は麻薬を打つことから距離を置くことができた。私と妻は生まれたばかりの女の子を抱えていて、福祉援助を受けながら、田舎で暮らしていた。私は時間と共に正しい方向へと適応していっているように感じていた。花々や、子供たち、すべてが美しく思われた。しかし依然として、内面ではすべてが美しくなかった。

 私たちが借りていたところの隣は4つのベッドルームのある家だった。ある日その女性は現れて私たちに神が彼女にそこに住むべきだと語ったのだと話してきた。彼女は50歳代で、腰まである白髪交じりの長髪で、たいていビキニを着ていた。彼女は金がなかったが、いわくこの家に導かれたのだ。
その女性は私がかつて誰からも感じたことのない愛と喜びを発しているように感じた。会ってすぐに、私は彼女をずっと前から知っていたように感じた。彼女の何かが私を引きつけた。私は彼女が私のスポンサーになってくれること、そして私の人生の大きな役割をしてくれることをその時知らなかった!これは自分でも驚かされる今日に続く旅路への始まりだった。それはハイヤーパワーへの信頼を完成させることを学ぶ生き方だった。奇跡の連続が起きて、私は今まったく普通の生活することを実現している。彼女が毎月その家の賃貸を支払いしてくれたおかげで。言うまでもなく、その家がプログラムハウスになったのだった。

 その家でミーティングが始まった。それはビーチチェンバー・スピリチュアル・プログレス・トラベリング・グループと呼ばれて、数年かけて、ハワイから東海岸へと合衆国を横断して、ヨーロッパへは二度旅した。今苦しんでいるアディクトに引きつける魅力があった。

 私は1968年のこのハウスでのはじめてのミーティングを覚えている。はじめから私はそこに馴染んでいるように感じられた。それは私がしたように薬物の使用について話すのでなく、彼らは自分たちの内面がどのようであったかを話しているからだった。初めてのミーティングで、人々もまた恐れを抱えていることに気付いた。しかしこのミーティングでのすべての希望を持ってしても、それは私が求めてはいない3年間の始まりに過ぎなかった。

 私は最初にミーティングに出たときから認めていたし、新しい人生を送りたいと思っていた。短い期間クリーンでいようとしたが、それから再び使った。はじめにビールを手に取り、またはジョイントを吸ってみが、いつも最後は麻薬を打つことになった。そのときそれが自分で理解できなかった。今そのとき渡しはまだ口に出せない疑念があったのだと理解している。まだ自分が使えると考えていたのだ。

 1970年に私は違う3ヶ月のクリーンタイムを2回過ごした。2回目はクリスマスのすぐ後だった。私は2回ジョイントを吸すったあとけいれんを起こした。その後2回もう一度やってみたが同じだった。ほとんど一年中私は再びクリーンで居ることが分からなくなっていた。私は酒を飲み、錠剤を手に入れ、コカインやヘロインを毎日打った。

 ノースショアに住む中で面倒に会うようなことはなかった。その地域に警察はあまり居なかった。私は使い続け、妻は私から去っていった。そして私は自分がもう二度とクリーンになることはないだろうと理解していた。一度私は過剰に麻薬を打ち、さらに数百ミリグラムのカフェインのタブレットを打って、数時間のあいガタガタ震えていた。私は自暴自棄になって死ぬのだと思った。ホームレスやどん底生活から這い上がることができなかったのに、私は浜辺のヤシの木の下で目を覚ました。私の顔は砂でまみれていた。気持ちはいつも同じだった。心のホームレスだと。

 私は、何をどのようにどれだけ使おうが、どこに住んでいてお金をどれだけ持っているかではなく、内面にあることが問題なのだと心から感じたのだった。私には、そのとき自分が死に掛けているのに、使うことがやめられないのだとわかっていた。NAでギブアップしようとした。私の知っていたプログラムのメンバーはみんな居なくなっていた。私のスポンサーとそのグループのクリーンでいるアディクトたちはヨーロッパにいて、その他のクリーンアディクトが隣の島に住んでいた。私が生きていられたなら、頻繁に電話しようと思った。
 1971年の10月20日の朝、私は家で麻薬が効きながら目覚めて、何かのためにビーチに歩いていって、それ以上使わずにしばらく目を開けていた。それは灰色だったのを覚えている。曇り空のした私は希望を失っていた。私は座りながらただ泣いていた。ただ死にたかった。だができなかった。それが過ぎ去った後、自分の人生でかつて無かった感情がやってきた。温かみと安らぎを内面に感じた。声が「終わったのだ、あなたはもう二度と使う必要はない」と言った。私は以前に感じたことのない平和を感じた。

 私は家に戻り、荷物を詰め込んでエアポートへ向かった。マウイ島へ向かおうと思っていた。そこにクリーンでいる私の友人が居た。私の回復は奇跡と共に始まった。金は持ってなかったが、正しい場所に、正しいタイミングで向かうことができて、マウイへ到着した。歩いて彼のところに行き、私はどんな期間でもクリーンになる準備ができたと彼に話した。今日クリーンでいることは、一回の注射、一錠の薬物、一杯の飲酒をやらずに長い期間を経たということだ。それは生きる道だ。または人生とは冒険とも言える。

 私には生きるための指針がある。それはNAの12のステップだ。それらのステップを実践するかまたは死ぬかだ!どんなクリーンの長さであっても、クリーンでいるという意味を成さないクリーンであっても、誰かがある期間クリーンでいると言うことを私は本心から信じている。私たち全員が一度はその意味を感じたことがあると思う。

 私は神の恵みとしてクリーンでいる。ステップは私の人生になった。私はいくつもの棚卸表を書いてきた。それは第4ステップと第5ステップの棚卸表であり、そして自分の内面で何が起きているのかを書き出し、捨て去るための作業を続けている。

 私にとってこれがうまくいく方法だ。古いものを捨て去り、新しいもの取り入れるためのスペースを作ることを続けるということ。私にとって、何かを手に入れることは簡単なことではない。いつも壁にぶつかったときの対処しないといけないし、恥をかいて分かち合うようにしている。彼らはそれを行動のプログラムと呼んでいる。与えていかなければ、維持していくことができないというのは、真実を物語っている。はじめの頃、私はすべて正しいことを話すことが必要だし、全員を救わなければと思っていた。今日、私は自分の心に在るものこそが分かち合うことができるのだと気付いている。今日、私はミーティングに歩いていき、私に父の愛があれば、それを分かち合うが、時にはミーティングに歩いていき、コーヒーポットを窓の外に投げてやりたいこともあるだろう。それでも正直でいるようにしている。それが私がクリーンでいるための方法なのだ。

 私は今日クリーンでいることと自分で理解している神との関係を持つことが自分の人生においてもっとも重要なことだと知っている。私がそのことを続けながらまだ苦しんでいる人にメッセージを運ぶとき、何ものにも代えがたいものが得られる。私は今日誰かに何かを誇示する必要はないのだと心から信じている。私は新しい人に内面的に自分が誰であるかを知ってもらうことでメッセージを伝え、どのようにして私が一度に一日のためのステップをしているのかを分かち合っている。

 1971年にクリーンになってから、人生が退屈に感じたことはない。私はずっと旅をしてきた。私のスポンサーはあなたも心のままに従えるよい例になるような人だった。私たちがどこに行ったとしても、NAは生きていた。私たちのハウスはいつも開かれていた。コーヒーといっしょに。私たちは着いた場所がどこであれ、ミーティングを開いた。ときどきお金がなくなったけれど、私たちの第一のことをするために出かけていき、神がいつも道を示してくれた。

 私のスポンサーは18年のクリーンと共に3年前に亡くなった。今ほとんどのグループが家族をもち、私たちはアメリカ中に散らばった。異なることを学んでいても、NAがいつも最初に来る。今日、私は結婚をしていて回復の最初の7年間と違うことに従事しているが、私が他からのギフトを貰うただ一つの方法はこのプログラムに向かうことで、神が最初に来ることがわかっている。私たちは道が上がったり下がったりしていることにしっかりと気付いている。私たちが与え続ける限り、それが愛や喜びであれ、涙や恐れであっても、すべて大丈夫なのだ。

 今日私はそこに気遣ってくれていて話を聞いてくれる人たちがいるおかげで生きている。私の人生を満たしてくれるその力を信じている。神はいま私たちを愛してくれている。

 





 使っていたある期間の後、この“南の紳士”はNAのミーティング会場のドアを開けることができた事が、彼が受けた最も情け深い出来事だったと悟ります。ベーシックテキスト第一版からの彼の物語の中で、彼に話しかけて来て、愛情を持って接してくれた人がNAに居たことを思い出しています。(P135~P141)

もしあなたが私たちの持っているものを欲しいと思うなら               

 私の名前はビルだ。そしてジャンキーでジューサー(飲んだくれ)だ。私の人生の長い年月の間、世界が残酷な手で私を扱っていると感じていて、私は不適当であるという感情に置き去りにされていた。恐れが私に虫食いの穴を作り、それを薬物やアルコールで埋めることは決してできなかった。

 私は1933年にアラバマ州で生まれた。私の父の仕事の関係で、一定周期で引越しなければならなかった。そのたびに新しい学校と新しい面々に会うことになった。私は背が小さくて病弱だったので、周りに人がたくさん居ると不安と不適当さを感じた。私はこの感覚に対して口と拳で戦ってきた。だからどこに居ようが何らかの方法の罰が私について回った。

 父は私が7歳の時に死んだ。私はその時憎しみを抱いたのを覚えている。なぜなら何の文句も言わさずに、まだ子供だった私を置き去りにして逝ってしまったからだ。祖母と叔母と母が私を損ない駄目にした。いつも教会のドアが開かれていて、私はそこにいた。10歳のときに、家族全員が私が洗礼を受けて然るべきだと考えた。ひざまずいて洗礼を受け起き上がった時も私は何の変化も感じなかった。コントロールはゲームのタイトルだった。私は自分の小さな家族の中でも、外でも全員をコントロールしようとした。その中には冷たい飲み物を盗む私を捕まえようとする修道院の尼もいた。

 もう一つの罰のやり方は疎外感だった。私の母は後にアディクトだと判明する男と再婚した。私たちは違う都市に引っ越して、そこで私の中の戦争が激化した。家でのけんかは続き、恐れと不安感はより強くなった。私がそこから離れたとき、家が嫌いだったし、そこに住む人たちに憤慨していた。違う考えに沿って私は違う生き方を始めた。それはみんなから承認や愛を得るためならどんなこともいとわないというやり方だった。不正直と欺瞞のレベルがさらに上がった。私は何年もの間、自分以外の何かになろうとしていたのだ。

 そのための救援が16歳の時にダンスホールで、アルコールという形でやってきた。すぐに女の子たちへの恐怖感は消え去った。私の二つの弱点は消えていので、私はいつどこにいてもこの新発見した人々の知恵を携帯していようと考えた。その効果は残ったが、また自分自身と戦いの中に戻ったのだった。
 私はルールとは破るべきものだと信じていた。社会のルールは自分のための物ではないと。ルールとは障害となるもので、私は自分の知る唯一のやり方で現実を扱うようになった。それは薬物やアルコールを使うということだ。これが私が40年代後半のときに薬物について知っている唯一つのことだったので、私は痛みを和らげるために使った。誰かの承認を得るためだけに、私が薬物が必要だと考えているなら、誰かが私をとめてくれただろうに。

 学校の職員や市の権威たちとの小競り合いを何回か起こしたあと、高卒のために私立の学校へ行くことになった。短大での2年間はこの世界の果てのように長く感じ、そこでのすべてのことがクソ溜めにいるようだった。

 その頃のコントロールゲームの上で、私が気をかける人など誰もいなかった。しかし、私の要求にすべて応えてくれる若い女性と出会った。彼女は由緒ある家の出で、社会の富裕層の中でも、見た目、資産の面でも堂々としていた。私たちは駆け落ちして結婚した。私は新しい関係に踏み入れたのだが、その手綱を握るために十分に成熟していなかった。

 私は古い南部の紳士として気まぐれに将来の見通しを建てながら、広い縁のピストルと弓を携え、片手でミントジューレップ(カクテル)と、もう一方に細身のステッキ持ちながら、広大な領地を見下ろしていた。このときの私の人生では物質的な価値が幸福の基盤になっていた。多くの物を手に入れたが、幸せや安らぎはやって来なかった。大病院の購買取引の代理人としての私の給料では足りなかった。私の物欲を満足させるために騙し取ることが必要になった。セールスマンがすぐに私の弱みを見つけた。ワイン、女、歌だ。彼らは私の必要なことを提供してくれた。毎晩パーティを開き酒を飲み続け、すぐに私は体を壊してしまった。1954年の終わりに、セールスマンが「息がきれいになります」と、コデインという小さな善玉を教えてくれた。何かが私の中でゆっくりと進行して行っていた。

 私は41歳のとき完全にアディクトになっていた。病院で処置を受けるアディクトやアルコホリックと出会ったが、自分は変っているのだと納得させた。彼らの様には決してならないだろうと。

 私の立てた基準や予測は他でみたことがないほどいつも高すぎた。ネガティブ思考と逃避癖が私の総合的な人格になっていった。貪欲さがいろいろな薬物について学習し実際に試すことに向かわせた。このおかげで私が使っているときにも、命拾いした。私は使っている間、ある組み合わせを怖れていた。

 60年代がやって来て、私は変るための決心をした。私は病院を退院して緑のある牧草地がいいのではないかと思い旅行に出かけた。しかし人生は相変わらず地獄だった。ネガティブ主義が古い考えとしてどこに行こうが憑いてまわった。仕事が来ても逃げていってしまい、やがて完全に来なくなった。刑務所や病院に入ることが普通になり、その期間がだんだん長くなっていった。

 1973年、私は精神病監房に入れられた。まるで鎖につながれた獣だった。絶えず私をあざむき続けた担当の精神科医は、アルコールプログラムについて知っていただが、私のその他のアディクションについては知らなかった。私は12ステッププログラムをやって見ることを提案された。家族は何でも挑戦してみようとやる気があったので、私は間違った理由でやめようとした。人々は私に親切で援助してくれたので、以前やっていたように彼らを利用し始めた。彼らが結局クリーンで飲んでいない私を見ることはなかった。それではどのように私が使っていたのかを彼らが知らずにいたのか?私は疑われるとまずいので何事も話し過ぎないように注意していた。欺瞞と否認のゲームで私は遊んでいたのだが、そのせいでもう少しで死ぬところだったのだ。その頃私はダウナー、アッパー、モッド エレベーター、何であろうが、ハードなものに手を出し始めた。人々が飲まずとも幸せそうにしているのを見て、いったい彼らは何を使っているのだろうと思っていた。その頃の私は自分にもう正直さのかけらも残っていないと思っていた。変るためのやる気は頭に浮かばなかった。ギャンブル、女、使うことが私に残された。それから3年に渡って私は助けがなく絶望して使ってまたプログラムに戻ることを繰り返した。

 ハイヤーパワーとスピリチュアルな生き方の概念を聞いた後、私は薬物が自分のためにならないことを悟った。かつて一度だけ、そのとき理解できていなかったのだが、ある状況下で神が私に慈悲深い配慮をしてくれたことがあった。私はこの神がそのとき自分のような人間に何かをしてくれることがないと知っていた。

 そのつながりを深めようと努力したことが何度かあったが何もどこにも何も感じられなかった。わたしの感情は他の人たちと同様だったのだが、私に必要な深い理解に欠けているようだと謙虚に感じられた。神は求める人を祝福する。私の地区には回復中のアディクトもNAも無かった。私は他の薬物依存者(Drug dependency)を探していると、家族があるグループで一人の女性を見つけた。彼女は10年やめたり使ったりを繰り返していて、うまく行っていなかった。

 物事が少し上向きに変った。2年間、逮捕も病院もなく過ごすができた。それから時が経ち1975年の秋に、すべてが再びくだけ散った。かつての病院に戻ることになった。アルコールが錠剤に変り、昔のパラドックスにまたははまってしまった。それから、立て続けに起きたことが私の人生を変えた。州施設に預ける事が話し合われた。私の家族はもはや昔のように私を必要としなかった。それから二人のプログラムメンバーがある日の午後私に会いに来て、彼らは二人とも同じことを言った。あなたは狂っていない、戻ってきて欲しい、使わずに、そして助けを求めて来いと。

 私のスポンサー、彼女は何度も私の件で厄介ごとに巻き込まれた、は私をクルマに乗せてミーティングに連れて行ってくれた。私たちと一緒にクルマに乗った女の子と話をした。彼女は自分で理解した神について話をしてくれた。その夜私は妻の隣に座りながら、自分がどこでボートを見失ったのか、気がつき始めていた。私はその暗い部屋に戻っていき、そこの人々にあえた事に神に感謝した。なぜならとにかく彼らの気遣いを感じたからだった。彼らは私のことをよく知っているわけでもないのに彼らの時間が在るだけ私に与えてくれて、何も見返りを求めなかった。私はプログラムの11ステップを思い出し、多分私のために向けられた意志の知恵を求めれば、その力が伝わって神が多分助けて下さる、と思えたのだった。少し勇気を得た私は、自分が正直でないことを知っていたので「追伸、お願いです正直さをください」と付け加えた。「もう病院を出ても、二度と使うことはない」と言えたことは素晴らしいことだったが、その通りにはならなかった。病院は私が経験してきた他の監禁される施設とあまり変らなかったのだ。しかし実際は長く入っていたその病院から出ることができた。

 ありがたいことに、クリスマス、正月が瞬く間に過ぎていき、私はその間も祈っていた。すべての物事が悪くなっていた。私の家族は正月が過ぎると私を追い出したのだった。希望をなくなったようだったが、それでも正直で居られるようにお願いした。1月5日だったか、昔使っていた錠剤を気休めに手を出してみた。ぜんぜん良くなかったのだが、それらのすべての苦しみが今は無駄になって居ないことを知っている。祈ることや、やる気が失われないようにすることが私のとらわれになった。これが自分のラストチャンスだと感じていた。

 三月、最後の錠剤を手に取り、使った後、神は私をクリーンにして下さった!仲間たちは「あなたが何を成し遂げたかをよく考えて見て」と語ってくれて、彼らを信じるようになった。私は自分が飲む方向に仕向けるようなことに、内面的に注意するようになった。ついにルード(無礼者、無法者)が目を覚ました!私は飲んだ暮れのコールドターキーをやめ、錠剤も、その他の薬物からも離れた。使い始めてから21年が経っていた。私はもう必要とはしなかった。私は自分の小型のフォルクスワーゲンに座って頭を垂れて、「もしアディクションが私の人生のすべてなら、これ以上生きたくはありません。死の方がはるかに慈悲深いでしょう。もはやその違いはまったくありません」と神に話した。そして私はかつて感じたことのない心のやすらぎを感じた。それがいつまで続くか分からないけれど、それは問題ではなかった。それが感じられたことが重要だった。それ以来、今までの間に何度かその感覚を経験している。闇から光へと私を運んでくれているようだった。神は私に日の光をそれ程長く当て続けてくれないが、私がたそがれに居たいと願うならば、神は助けてくれるだろう。そして私は自分のクルマから降りると、自由を手にしていた。そのことが長い間理解できていなかった。あの日以来、私は使いたくなくなったのだ。

 私の神への理解が正しい道を歩きはじめるのに十分な正直さを与えてくれた。それから再びNAのプログラムに戻りまた違う間違いを作った。うまくいった人たちのクリーンでいるための方法を教えてもらうことにだけ集中して自分の口は黙ったままだった。今日私は自分がアディクションで生きてきた道変わっていた分、このプログラムにおいても違った道を歩く必要があったのだと気付いている。私は自分について学ぶ必要があった。このプログラムに入ってほとんど2年間、たくさんの人たちがやってきては、アルコールなど以外のアディクションの道に進んでいく姿を見てきた。バーミンガムのミーティングで、グループメンバーと分かち合いながら薬物について話していると、ある男性が目に涙を浮かべながら私に近づいてきた。彼は自分の息子と娘が今もどこかで薬物にはまっている、と語った。そして彼は「ここの人たちと同じように神がきっと子供たちにもなんらかのプログラムを与えてくれます」と語っていた。家に帰る途中の間ずっと、まだ使っているある女性と話をした。私の妻の同級生だった。またジョージアやテネシーのナルコティクス アノニマスの新しい友人たちと電話によって知り合いになることができた。分かち合いのためにカタヌーガを訪れて、恵みをもらった。多くのメンバーがアトランタから来ていて、その中に終始「みんなを愛している」と話しているある男性がいた。私はその時44歳で、男から愛しているなんて言われたのは初めてのことだった。うまく説明できないのだが、私も彼を愛していた。二ヶ月後私たちはアトランタに行った。旅行でいったはじめてのレセプション(歓迎イベント)だった。私はそこの人たちからたくさんのもてなしを受けて感動した。その夜のダンスの最後で、誰かの言葉でこう耳にした。「もしあなたがここで何かを得られたなら、是非ステップをやってみてください」と。

 私はアラバマに戻りステップをやり始めた。自分自身のことと、自分の理解する神について学ぼうとした。神を信じて、家を掃除して、他の人の手助けなど、説明すると私ができることはこんな単純なことだった。私は何年もの間、あの角を曲がれば私を待つ、幸せと心の安らぎを与えてくれる人と出会えるのではと思いながら過ごしてきた。今日、ステップとNAの人たちを通して、私は解決法を見つけた。私は自分自身に正直でいること、変るために心を開いておくこと、神の愛を受けるためにやる気を持ち続ける事が、NAのメンバーとして必要だ。

 私はジョージアにいる兄弟や姉妹に感謝している。私たちのプログラム最初の一年間、彼らが寛容さをもって支えてくれたおかげで、アラバマでのプログラムを続けることができた。

 彼らは多少に関わらず始めたばかりの私のスポンサーになってくれた。彼らはそこに満足感があることを知っていたのだった。何度もマリエッタに居る友人たちを呼んでみたが、開けたままのドアに意気消沈したりした。だが神がいつも答えをくれたような気がする。ドアは開けたまま、後は神が残りの仕事をして下さる。

 新しいNAグループが今いくつもの都市で起こり始めていて、その人たちが神の恵みとしてのNAの成長を通して私のスポンサーになってくれている。私はついに一体になったのだ。しかしそれは神の助けなしではありえなかったことを忘れはしない。私には今使っているアディクトに伝えられることが一つあると思う。私はあなた方一人一人を愛していて、そして一番重要なことは、神も愛しているということだ!私はこの愛を、神の恵みと仲間たちによって、この素晴らしいNAのプログラムの中で見つけたのだ。







おびえる母親                                   

 アディクトとはハードドラッグを使用していて、ストリートか刑務所にいる人々のことだと思っていました。私のパターンは違っていました。私は薬物を医者や友人から手に入れていました。何かがおかしいと気づいていたけど、うまくやっていこうとしていました。仕事場で、結婚生活において、子育てにおいて。本当に一所懸命にがんばっていました。うまくいくこともありましたが、失敗にすることもありました。そんな感じて時間は過ぎていき、どの時期も永遠のように思えました。何もない、または何も変わりはしないとも感じていました。私はよい母親になろうとしていました。よい人生を送りたいと思っていました。社会参加をしようと思っていましたが、一度も社会の一員といての実感が持てませんでした。

 私は数年の間、子供たちに、「ごめんね、でも今回は違うようになると思うわ」言ってきました。私は助けてくれる医者を次から次に代えました。私はすべてうまく行っていると感じられるカウンセリングに通っていましたが、内心は、「何が悪いのか?」と思っていました。私は仕事を変えて、医者を替え、薬物を替え、今までと違う本を読むようにしたり、宗教を替えたり、ヘアカラーも変えました。違うところに引越をして、友人を変えて、家具の位置を変えてみました。休暇で旅行にいったり、家に隠れるように引きこもったりしました。何年もの間、たえず私は間違っている、何かが違う、失敗している、という感覚がありました。

 私が望んで最初の子供を産んだときに、そのときの薬物がくれる打ちのめささるような感覚が好きでした。それは何が私の周辺で起きていようが、それはまったく気にもならないという感覚でした。数年が過ぎ去り、トランキライザー(精神安定剤)は大事なことなどまったくないのだいう、感覚をくれました。最後には、物事がぐちゃぐちゃになって、何が大切で、なにが大切ではないのか全くわからなくなっていました。私は内面では震えていました。薬物は全く助けになりませんでした。

 私はまだ何とかして続けようとしていました。仕事を辞め、もとに戻ろうとがんばりましたが、できませんでした。私は寝椅子にいて何もかもが怖く感じました。私は103パウンド(約46kg)になっていて唇が乾いてひりひりしていました。私は糖尿病になってしまい、食事の際にスプーンを口に持っていくことも大変なことにショックを受けました。私は、自分で自分で殺そうをしていると感じ、私の周りの人たちには傷つけられているだと感じました。肉体的にも精神的にも私は壊れてしまいました。私はその時おばあちゃんになろうとしていたのですが、小さい子供たちとも、コミュニケーションが取れない状態でした。私はほとんど、植物人間のようでした。私は生きることを少しでもしたいと思いましたが、どうすればいいのか、わかりませんでした。私の一部はもう死んだほうがいいのだといい、もう一人の自分は、まだ生きていくべきことがあるといいました。

 NAプログラムをやり始めたとき、毎日の自分のためにやる事を提案してくれる人々がたくさんいました。その提案とは食べること、風呂に入ること、着ること、散歩に行くこと、そしてミーティングにいくことでした。彼らは「怖がることはない、みんな同じように過ごしてきているのだから」といいました。私は数年間たくさんのミーティングに参加してきました。一つ、心に残ったことがあり、それは彼らが言っていた「ベティ、もう走り続けなくていいんだよ。あなたはなりたい様になれるし、自分のしたいことができるんだ」という言葉でした。

 このプログラムをやって来てから、多くの人々の話を聞き、観察してきました。彼らが何回も浮き沈みをしてきた姿を見てきました。その中から私にとってベストな教えをもらい実践してきました。私は仕事の場所を変えて、学校に通いました。私は中学校レベルに戻って、すべてにおいてもう一度学ぶ必要がありました。それは時間がかかりましたが、とても実りあるものとなりました。

 私はまた、男性を付き合えるようになる前に、私自身についてよく知ることが必要なのだと心に決めました。娘たちとのコミュニケーションの仕方を勉強しています。私は数年間やりたいと思っていた事を実行してみようと努力しています。私は以前に心の中から押しだしてしまっていたことを今は思い出すことができます。私は、ベティの人生とは無の積み重ねではなく、見ることや聞くことを止めてしまった、誰かや何かの積み重ねであることに気づきました。4月1日は、私の5回目のバースディです。エイプリルフールのためにやるのはどうでしょうか

 私はこの物語を更新したいとお願いしました。今年の4月1日で私の12年のバースディを迎えます(1981年に書かれました)。私は「どこから初めて、本当に成長したのはいつからだろう?」と考えて見ました。それは私が結婚した時だったと思います。時々言葉にすることが難しくなりますが。私はいま夫に心から愛していると伝えたい。どの人に対しても自分の奥深いところにある感情を表現することは私にとって難しいのです。彼と距離を開けようと思ったり、彼が私を傷つけようとしたり、嘲笑っているのだと思ったりすることがあります。それは時々起こりますが、それでも私は彼を愛していますし、大事になってぶち壊しになることはありません。私は彼を押しのけるのではなく、自分を落ち着けせる方法を学んでいます。もし私が夫に期待しすぎているのなら、自分自身をもう少し注意して見るようにしています。落ち着いて話ができる時間もとれるし、そのために少し時間とおいておくことも大事です。もし私たちが二人ともまったく同じ考えを持って、すべてがスムーズに行っていたとしたら、またはいつもケンカばかりしていては、それは何の面白みもないでしょう。

 私は、自分の家に居ながらどこか遠くの違う場所にいるような気が未だにすることがあります。多分気持ちがアイランズやミシガンに戻っているのでしょう。私は今ほぼ4年間同じ場所に住んできました。それは私にとって最長記録だと思います。まだ家具の場所もいろいろ移動させまくっています。それが大好きなので、いろんな家具の裏にローラーをつけて簡単に動かせるようにしています。

   私はまだ男性のことを理解できていません。ときどき私は夫に「私は女だから、映画かどこかに連れて行ってよ」と頼みます。私はいま自分の欲していることを他の人に言葉に言い表すことを学んでいます。たまに一人でショーを見に行きますが。

 私は二年前に高校を卒業しました。次に近い将来、短大を卒業したいと思っています。すべての人にとって進むべき先に目標が必要です。私の娘と末っ子の息子がクリスマスプレゼントにヴァイオリンをくれました。私は小学校の時に少しだけヴァイオリンを習っていました。学校がそのレッスンをやめたので、ヴァイオリンも取り返されてしまい、そのことがずっと忘れませんでした。私は今年ゆっくりとそのレッスンを再開してみたのですが、だんだん強迫的になってきました。違う二人の先生のところに行こうとして、本も違う本三冊買ってしまいました。自分が自分だけの本を探しているのに気付いて、「私はどこ?」と思いなおし、今は一人の先生のところにいき、一冊だけで勉強しています。

 私は乳房を片方手術して、取り除きました。初めてのことだったしそんなの慣れてると言う気はありませんが、私は他の人よりもラッキーです。なぜなら私にはNAプログラムがあり、一緒に歩いてくれる人たちがいるからです。私は人生を楽に歩いてきたということはできません。そんなことは現実ではないからです。しかし現実と向き合い、よく開かれた目で見ながら歩んでいるので人生がより豊かになっているといえます。騒々しい世の中で、私がどこに居ようが恵みを感じることができています。
  
    私はNAの成長が成長してゆくのを見てきました。私たちはドイツ、オーストラリア、イングランド、スコットランド、イタリア、ブラジル、などの国にも行きました。多分いつの日か、なかなか足を伸ばすことが難しい国にも届くことができるようになるでしょう。

 私はプログラムを長く続ける女性メンバーがあまりいないという話を聞きました。それを聞いたとき驚きました。私は彼らは多分他の都市や州に引っ越したのだろうと勝手に思っていました。多分たどりNAにつながることさえ難しい国々もあるのです。もし女性が一人で何か悪いものを欲しがっているなら、注意してほしい、彼女は天国か地獄にも行ってしまえるのです。ある人から「あなたが欲しがっているものが分かる人はあなた意外に、この世に誰もいません。もしこの世で生き残りたいと思うならあなたにとってふさわしいことをした方がいい」と言われたことがあります。私は何かにぶつかって擦りむいてしばらくの間、指を舐めることもありますが、その度に私は確かに少し強くなっています。

 私は「ババワワ(Baba Wawa)」という名前の犬を飼っています。娘がくれたとき、彼女は子犬でした。そのとき娘は「ママ、この子は決して大きい犬にはならないよ」といっていましたが、どうしたことか彼女はとても大きくなり、よく彼女には驚かされています。昨夜散歩していて彼女は金網の向こうの大きな犬と戦おうとしていました。彼女はまだ子供なのだと思っていましたが、一人立ちするようになったのだと感じました。それは私自身のことのように思います。自分で思っている以上に私は成長していて、ババワワと違って、そのフェンスを乗り越えて、私が求めるものが何であれ、そこにいけるのだと知っています。もう少し言わせてもらうと、誰がこの10年間のあったことをすべて紙に書くことができるでしょうか?私はここに書いた以上に10年間の生活を送ってきているのです。

 私はさまざまなNAエリアで電話の受付や文書の作成などをしてきました。私はミーティングにいって話をして、まだおかしかったりぎこちなくなったりすることがあります。ときどき私は子供のようになり、興奮しすぎたりしますが、また違うときには、何があったかまたは自分が何を話したか覚えていないけれどすごく居心地がよくてスムーズに過ごすことができています。ここで私が書いておきたいことは、「かつて思っていたよりも私の人生は悪くないし、ずっとたくさんの素敵なことがある」ということに天に感謝しています。








 このアディクトは鉄格子を越えてナルコティクス アノニマスのフェローシップを見つけました。これはベーシックテキスト第一版からの物語です。
(P147~150)

刑務所、施設そして回復へ                               

 初めてNAへ来たとき、私は州刑務所の中にいた。それは三回目の服役で7年の懲役刑の時だった。そしていつも街に居る時間は数ヶ月しかなかった。
 刑務所でのある晩、私は薬物について何かをするためのミーティングが行われるという話を聞いた。「もしかしたら、私にも関係あるかも」と思ったので、試しに行ってみることにした。それにしばらく監房から少し離れていることができるからという理由もあった。

 私はミーティングが終わりそこから離れるとき、とても混乱したことを今も覚えている。私は監房に戻り、刑務所に出たり入ったりして薬物を使うだけだったこの数年間についてゆっくり考えていた。そしてこのナルコティクス アノニマスというグループの話はあまりにもちょっと私に符合しているように思えた。私は自分自身に、「自分はそれほどやばい使い方はしていないけど、毎日のように使い、窃盗のせいで刑務所に関わらずには居られなかったのだ」と言い聞かせた。最初のミーティングでNAが自分の狂気の解決になるとは思わなかったのだけど、自分と関係あることも聞くことができるだろうと思い、続けていってみようと思った。私は草さえも、もう使うことがなくなったというNAの人たちの話を聞いた。私は黙って聞いていた。私は自分の人生に起こっていた狂気的な状態をやめたいと確かに思っていたのだが、そのためにあらゆる薬物をやめなければならないのだとは考えていなかった。私はどうやって薬物をコントロールするのかを学ぶ必要があるのだと考えていたのだった。

 ミーティングで分かち合いをしに来たNAメンバーの何人かが、刑務所で一緒にいたことのある人だった。彼らはナルコティクス アノニマスのサポート、一人のアディクトがもう一人のアディクトと分かち合い手助けする、に向かうことで彼らの人生が変わったのだった。過去どのようであって、今はどうで在るか、そして私たち皆が経験する辛いときにも本当の温かみを感じ取ることができているという彼らの話を私は楽しく聞いていた。次第に私はアルコール、薬物、刑務所抜きでどのように生き方を見つけたかを話すNAの人たちに敬意を持つようになった。

 私は施設に入っている間、定期的にNAミーティングに出席していても石のように黙まりを続けていた。メンバーは何があってもミーティングに続けて来いと話して、私はそうしてみた。そこでの話しは所内の立ち話よりも面白かったからだ。

 私はすぐに仮釈放のために警備が軽い刑務所に移された。以前もそこに居たことがあって、そのときは草を吸って仮釈放をふいにしてしまい、よりきつい刑務所に送られてしまった。そのとき移動のために自分の荷物をまとめながら、この状況で自分が起こしてきた数々のトラブルを思い出していた。まあただ薬物を使う訳だが。そこには私の知る男がいるのでとても緊張していた。バスを降りた時から、使うことを考えていた。私は既にヤクを使うことを必死に考え出していて、もし再び捕まったら、何が起こるのかも知っているので内心ものすごく恐ろしくなっていた。

 そのため私は長いバスでの移送の前にその朝ジョイントを吸った。その時わかってなかったが、それが私の最後の一服になった。少し話を戻して、私が一番最初にNAミーティングに出席したとき、自分には他の人たちのようにうまく行かないのではと疑っていた。私は薬物と矯正施設の人生に疲れていたのだが、この時点では十分に疲れきっては居なかったのだと思う。なぜならミーティングに行っているときも使っていたからだった。長いバスでの移動中、私は考えを修正させて一つの決心をした。その日決心したのは、ほとんど恐怖心からと、いくつかNAミーティングで聞いた話のおかげだった。

 私はバスに乗りながら、手首と足首を鎖に繋がれたまま、腹立たしげな表情のショットガンを手にした看守を私は不満げに見上げていた。窓の外の遠くまで続いている自由の風景をじっと見つめながら、私は自分が何故この外の風景の一部になることができないのかと考えていた。ヤクを吸ってももういい気分になることはもうなくなっていた。それでも何も使わないというのは変な気もした。ほっとしたのは、一度に一日(One day at a time)を実践することでより楽になるというのを後に知ってからだった。

 目的の刑務所に到着してから、そこで私は同じ収容者のNAメンバーと会うことができた。彼は違う刑務所で一緒にNAミーティングに出て知り合っていた。私がついた時、彼は全く違う顔つきになっていた。それは再び自分自身を助になることを私たちがサポートするようになったからだと理解している。私はこの刑務所に来てからもフェローシップを続けて、施設内でもプログラムのサービスにおいて活動するようになった。

 その最後の6ヶ月間、私は自分のための誓いを立てなければならなかった。朝起きてまず「今日だけ(Just for Today)、何も使いません」と口にした。そして施設内でのNAの人たちと共に、誘惑から距離を置くようにして持ちこたえた。そこには十分に手に入れる機会があったので、簡単な事ではなかったのだけど、その時私はNAのフェローシップを手にしていたのだ。私が一旦外でのミーティングに出席しないようにすると、外に出てからのフェローシップを手放すことになってしまう。私は何があっても最初の時期はクリーンでミーティングに行くようにした。そしてプログラムがうまく行くようになった。

 今日私は何がNAプログラムを活かすことができるのか知っている。心の状態を変える化学物質をすべてやめたときに始めてプログラムがうまく行き始めるということがだんだんと分かってきた。

 私はまた何に配慮するのかということも理解するようになった。それはお互いを手助けすることで、私たちは共にうまくいくということだ。私のことを理解してくれる人はもう一人のアディクトなのだと感じられた。そして私を手助けできるのももう一人のクリーンでいるアディクトなのだ。

 私は刑務所内のグループで誇りを持って席を立ち、90日のクリーンを宣言した。NAに来る前に誇りを感じることなどなかった。それは薬物を手に入れようとがんばることもなく、ハイになって狂ったことをしなくてもいいのだという安心感だった。そんな気持ちでいられることなど今までなかった。そしてその安心感を感じることは確かに素晴らしいことだ。

 私はNAで活動するメンバーたちが与えてくれたものによって、もう一つの決意をした。それは自分の人生で2番目に重要な決意だった。その決意は私が刑務所から出たときにゲートまで迎えに来てくれていたNAプログラムの人が与えてくれた。その人は私がまず第一に必要なことを理解している人だと気付いていた。なぜなら私自身ではその時何が必要だかわかっていなかったからだ。

 私は今日刑務所に戻って行ってナルコティクス アノニマスのメッセージを伝えている。私は収容されていた人がゲートを出たときに、NAメンバーと知り合いになれと提案している。私は「まあ調べてみるよ、だがまず最初にしないといけないことがあるんだ」という返事を何度も聞いてきた。私はここで言っておきたい。自分をだますな。もし私と同じようなアディクトなら、その最初にする事が君を殺してしまうかもしれないのだ。

 出た最初の日はすごくすがすがしかった。私が予期していたNAメンバーが彼の家まで送ってくれた。この一人のメンバーは新しいNAメンバーの電話番号が書かれたアドレス帳を渡してくれて、こう言った。「君の古いアドレス帳を私にくれないか?昔の知り合いの連絡先はもうこれ以上必要ないだろう」と。違うメンバーはクローゼットを与えてくれて、もう一人は何枚か服をくれた。私はその日、たくさん人が集まるミーティングに行き、私が必要とした愛や気遣いを貰った。それは長年の鍵の掛けられた生活で失われてしまったことを修復してくれる真心だと感じた。

 近々、高等裁判所の判決の前に自立できるようになるための福祉を受けられることが決まり、リハビリテーションの認定書を受け取った。もう私は同じことで裁判に立つことは決してないと思う。私は今日私の必要なサポートとしてのフェローシップに集うるようになったことに感謝している。私は神に話しかけている。私がいう神とは自分で自由に理解できる、私が偉大な力を必要とするときに話しかける存在のことで、その神を私はナルコティクス アノニマスで見つけた。

 もしあなたがこれを監房の中で読んでいるなら、あなたに心に届きますように。あなたが薬物か酒で人生を狂わせているなら、NAミーティングがあなたのいる矯正施設でやっているか、そうでなければどこでやっているかを調べて欲しい。あなた自身の人生を救うことができるかもしれないし、より良い方法を学べると思う。もしある一人のアディクトにできるのなら、もう一人の違うアディクトにもできる。私たちはナルコティクス アノニマスでお互いに手助けしている。







私は違っていた   

                                                 

 私の話は、あなたが聞いたことのあるような人の話とはたぶん違っていると思う。というのは、私は一度も捕まったことがないし、入院したこともない。しかしながら、私は私たちの多くが経験した、絶望的などん底を経験した。この文章は私のアディクションを明らかにする成績表ではなく、むしろ私の感情と人生についてのものだ。アディクションは私の人生のそのものだった。何年もの間、私の知る唯一の生きる道だった。

 思い返すと、以前の私は人生のほんの一部しか見ていなかったと思うし、どの部分もほしいとは思っていなかった。私は昔懐かしい、中の上クラスの崩壊した家庭で育った。私は緊張していない自分などなかったと記憶している。小さい子供のとき、私は食べ物で苦痛を和らげることができるのに気づいた。そして、私のドラッグアディクションが始まった。

 私は1950年代の錠剤マニアだった。この頃既に、私は指示された処方どおりに医薬品を扱えないことに気づいていた。私は一錠よりも二錠の方が、二倍以上によく効くことを知った。私は錠剤―母親の処方薬から盗んだ物―を確保していて、次に処方薬が補充されるまでに自分の分を保持し続けることが難しかったことを覚えている。

 私は早い時期から、こんな風に使い続けながらすごしていた。高校生で、薬物に熱中していた私は、薬局の薬物から、ストリートの薬物に自然と移行した。その時すでに、十年近く基本的に毎日薬物を使っていた。それらの薬物は実際には、もううまく効かなくなっていた。私はそのころ自分が無能で劣っているという青年期の感情に戸惑っていた。私の用意していた答えは一つ、もし何かに直面ときに、感じ方が良くなるようにする、いい感じにふるまえるようにする、のどっちかを選ぶということだった。

 私のストリートでの使用方法は至ってノーマルだった。私は何だって全て使えるものは毎日使った。何であろうが気持ちがハイになればよかった。薬物はそのころの数年私にとってよいものに感じていた。私は革命家だったし、傍観者だった。私は怖れていて、一人ぼっちだった。ときどき私は全能のパワーがあると感じたり、または完全なバカになるように願った。 ――こう思ったのは私だけではないと思う。私は感じ方が違うと思っていた――まともな人間ではなく――そしてそれに耐え切れなかった。私は薬物で酔っていることが普通の状態だった。

 1966年、私はヘロインに切り替えようと考えた。その後、多くのメンバーと同じように、他のどれにも変え難いものとなった。最初のころは、たまに飛び出す喜びを感じていた。それからは週末にだけ使うようにしていた。しかし一年後には常習となっていた。その二年後に、大学を落第して知り合いの就職口についた。私はネタを使い、売りさばいた。そしてさらに一年半が過ぎるころ、私は病気になり、病気でいることに疲れて、くたくたになった。

 私は自分が緊張しきっていて、もはや人間としての機能が働いていないことに気づいた。薬物を使っていた最後の一年、私は助けがなかろうか、と探し始めていた。まったくうまくいかない!助けなどなかった!

 私はとっかの筋で手に入れていた、あるNAメンバーの電話番号をもっていた。その時どこにも私に対しての良い判断がなくて、希望もなくっていて、私はそのとき人生の中でも一番重要な電話をかけた。

 「誰も助けになんか来ないし、自分ひとりでは治らない」とその人はシンプルに言った。「もし薬物の問題を抱えているなら、ミーティングがあなたに役に立つかもしれない」と。彼は私にその日の夜にやっているミーティング会場の住所を教えた。そこは運転してもとても遠いところだったので、やめにした。彼はまた、二日後にある私の住む近所のミーティング会場のアドレスも教えてくれた。私はミーティングにいって会います、と彼に約束した。夜が来た。私は死ぬほど怖くて、動悸が激しくなっていた。クスリ漬けの悪鬼たちがそこにいるのではと、とても怖かった。私はミーティング会場をみつけた。私は自分のことが、あなたが本やニュースレターで読んだことのあるアディクトっぽくないことはわかっていた。その恐怖があったにもかかわらず、私は初めてのミーティングを経験した。私は3ピースの黒いスーツを着て、黒いネクタイを締めていて、二年半の間ずっとその格好だった。私は私が誰でなんなのかを知ってほしいわけじゃないし、私は誰もバカにしてもいない。私は助けを求めて泣き叫んでいた。そしてみんなはそれを分かっていた。その最初のミーティングを、実はよく覚えていない。だた私はそこで聞いた何かを持ち帰ることができた。このプログラムに対しての最初の感情は痛烈な恐怖で、それは私が逮捕されたことや、入院した経験がまったくなくてメンバーの資格がないのではとか、受け入れられないのでは、と思ったからだった。

 私はこのプログラムのなか、最初の二週間のうちに二度使用した。そしてついにギブアップした。私はもはや自分にメンバーの資格があるかどうかなどどうでもよくなった。受け入れられるかどうかも気にしなかった。私は人が私をどう思うかさえも気にしなかった。もう気にすることに疲れきってしまった。

 私はそれがいつだったか定かでないが、ギブアップしたすこし後にこのプログラムは私にうまくいくだろうと感じて希望を持ち始めた。私は打ち勝った人々がやっていたことのマネをし始めた。私はNAにつかまってしまった。わたしは気分がよくて、クリーンでいることはこの数年の間で初めてのことだった。

 約半年をすごした私は、クリーンでいることの目新しさが減ってきて乗り続けていたばら色の雲から落ちてしまった。なんとか私はその最初のつらい現実を生き残った。私は自分のために出来ることだけを考え、そして何が何でもクリーンでいようと強く心に決めた。とにかく使わない限りオーケーだと。そして私が助けを必要としているときに助けてくれる人々がいる。それ以来苦しい戦いだった。私はクリーンでいるための事をしていかないといけなかった。たくさんのミーティングに行く必要があるということに気づいた。初めて来たばかりの仲間と一緒にNAに参加して、NAに携わった。私は自分の出来る限り12ステップを実践して、生きていくためのことを学んでいった。

 今日、私の生活はずっとシンプルなものになっている。好きな仕事に就き、自分自身の結婚にも満足している。実際の友人もいて、NAではアクティブに働いている。この生活タイプは、私にしっくりきている。私はかつて魔法のようなもの、理想的な人々や場所そして物事を探すために時間を割いていた。いま私はその魔法のための時間は持っていない。今は生き残るために学ぶことがたくさんあってとても忙しい。それは長くて、ゆっくりとしたプロセスだ。時々私は頭が狂ってしまうのではと思ったりする。「やっていてためになるのか?」と。ときどき私は自分で自分の自己へのとらわれに追い詰められて、もうダメになってしまうんじゃないかと思ったりする。ぶつかった問題にこれ以上耐えられないんじゃないかと思うけれど、このプログラムが答えをくれて、そして悪い時期は過ぎ去る。

 人生の多くの時間はとてもいいものだ。ときどき人生は過去なかったほど、とても素晴らしいものになっている。私は自分を好きになることを学び友情をみつけた。自分のことを少しずつ見出して、理解していった。それなどから小さな信念、そして自由をみつけた。そして、私はサービスを見つけて幸せに必要な達成感を与えられることを学んだ。


※この日本語の文章は、アメリカ版「ナルコティクス アノニマスのペーシックテキスト第6版」(2008年出版)の後半の個人の物語の部の最初のセクション「はじまり(Beginning)」の英文をテスト翻訳したものです。
 日本国内で出版され流通している日本語版は、一つ前のベーシックテキスト第五版のバージョンで、後半の個人の物語の部は省かれ未翻訳のままとなっています。




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