書はなぜ見向きされなくなったのか
現在、書教育は学校教育の中に組み込まれ、人生で一度も筆を持ったことがない人は少数だと思われます。
小中学校では国語科の中に【書写】が組み込まれていますし、高等学校でも芸術科の中に【書道】が組み込まれています。(高等学校の場合は、選択授業になるため全員が授業を受けられるわけではありませんが…)
また民間教育としても各地に書道教室があり、子どもの時に親に勧められ、教室に通っていた人も多いのではないでしょうか。
このように、書はあらゆる場面で触れる機会が用意されています。
しかし「書は難しい」「書は見てもわからない」「書はつまらない」という声をよく聞きます。これは本当に残念なことです。触れてきたにも関わらず批評ができない。触れてきたにも関わらず魅力がわからない、味わうことができないというのは、現在の書の在り方に問題があるのかもしれません。
今回は、なぜここまで書が「難しく」「わからなく」「つまらない」ものなってしまったのか、そして、今後書はどういう方向性で歩んで行けばいいのかを考えていきたいと思います。
「書は文字であり、言葉である。」
当たり前ですが、書が題材にしているのは、文字や言葉です。【書写】では文字単体や熟語、【書道】では漢文や漢詩、和歌などが書の題材として選ばれています。
書写で使われるお手本が、字の基本である横画や縦画を練習するためのものだとすると、文字や言葉の意味を知ることはそれほど重要ではありません。
しかし、書道はどうでしょう。書道の題材は漢詩や和歌などです。それらは言葉の意味だけでなく、その成立背景等が重要な場合があります。なぜなら書道は芸術であり「言葉の姿」を表す芸術だからです。
書は文字であり、言葉です。
なぜ文字や言葉は発明され、これほどまでに広がり、今でもその姿を変えないまま存在しているのでしょうか。
さまざまな解釈・見方がありますが、大まかに言えば、文字や言葉がありがたいものであり、便利なものであり、そして何かを伝えるための手段として優秀だったからでしょう。
だからこそ、文字や言葉はあらゆる分野とつながり、さまざまな書体や書風を生み出したのです。つまり、それぞれの分野における【書風】はその分野の【思想】と一体となって存在し、そこには必ず意味や分野の文脈を含むものとして存在しています。
現在はどうでしょうか。書はあらゆる分野とつながることでさまざまな書風を生み出し発展してきましたが、近代化に伴い、書とつながりのあった分野の関係がことごとく切り離されてしまいました。(これは書の分野だけではなく、多くの分野に当てはまることです。近代化の象徴である「細分化」が分野を孤立させたと言えます。)
現在では、書を芸術とする見方が強いです。もちろんその見方は間違っていません。しかし、目で見る視覚芸術と定義した時に、見る(味わう)観点が狭められてしまうのは、書という耕された豊かな土壌の一部しか見てないことになります。
和歌や文学は、書と切り離すことが難しい文化の1つです。しかし細分化された学校教育において、文字や言葉の造形的側面は書が担い、内容的側面は国語が担うこととなりました。このような教育を受けて育った人々は、書が文字や言葉を素材にしていることを知り、そこに文脈や内容が含まれているこおを知り、また知りたいと思っても、「これは書道の作品だから、内容についてはさほど重要ではない」という考えを持つようになります。
書を起点にして、さまざまなことを考えることができたはずであったのに、書が長い歴史で培ってきた豊かなつながりを切り捨て、造形的側面のみの議論になってしまった時、書の奥深さに迫ることはできません。
書家とはどういう人だったのか
名品と呼ばれる中国の碑や帖を誰が書いたか、日本の名品である仮名の肉筆を誰が書いた(といわれているか)は、みなさんご存知だと思います。ここで大事なことは、その人がどういう人だったのかということです。
多くの昔の書家(中国でも日本でも)の肩書は、書家だけではありませんでした。
昔の書家は、政治家、医者、薬剤師、役人、文学者、哲学者、歌人…などさまざまな肩書きを持っています。重要なのは、書家本人たちが、その時代のエリートで、教養人であり、自分で文章を考える能力を持っているということです。
現代の多くの書家のように「人から借りてきた言葉を」「書ける」だけではなく、「自分の力で文章や詩を作れるか」ということが、当時の書家にとって重要だったのです。(もちろん現代の書家にも自作の詩や文章を書く人もいます)
自分で紡いだ言葉、和歌、漢詩の【言葉の姿】を自分の書風で書くという書の営みを昔のエリートたちが競い合ってたわけです。
現在はどうでしょうか。書は造形のみの競い合いになっているようです。その証拠に数々の賞に輝いている人がSNSなどのさまざまな媒体を駆使して【この文字が入っているとかっこいい】と文字造形の良し悪しのみで題材を選ぶように誘導している投稿も見られます。またそのような題材の選ばせ方を書道教室や大学教育でも行っていると耳にします。
昔の書家たちは、書以外でもさまざまな場面で活躍の場をもち、さまざまなことに精通した人物ばかりです。
現代の書家は書の造形以外に何か興味を持っているのでしょうか。
このように考えると、その時代の書はエリートたちがその技術を高め合い、その質を高めてきたものだと言えそうです。その中身は文学的にも優れているものであり、宗教的な教えとしても示唆を含んだものだったのでしょう。当時の人々は、「すごい人たちの書」を内容面と造形面のどちらをも受容し味わっていたと考えられます。
「書を絵のように見なさい」に対する違和感
ここまで述べてきたように、書は長い歴史の中で、豊かな土壌を築きながらも、その豊かな土壌を切り捨てることで、書に関わる人口を増やし(大衆化)、学校教育に組み込まれることで、延命してきたと言えそうです。
そのような危機的状況の中で、書に関心を持ってもらおうとよく耳にする言葉が「書を絵のように見ればよい」という言葉です。これは先ほども触れた書の造形面に関わる問題にもなります。
(悪気はないと思いますが、このような書家の発信は絵に関わる人に対してあまりにも失礼ではないでしょうか。絵は書よりも簡単に見れるのでしょうか。)
もちろん、書を絵のように見ることはある程度可能でしょう。仮名の作品の散らし書きなどは、自然にある景物がもとになっている場合もありますし、まとまりや傾きを工夫することで紙面を成立させていることもあります。したがって、絵のように見ることで、余白の取り方や、構成の吟味などを学習することが可能になると思います。
しかし、書は文字であり言葉ですから、漢詩であれ和歌であれ、フレーズが存在し、修辞法が存在し、さらには紙面全体には文脈が存在していることになります。文脈は読者をさまざまな形で誘導し、その情景や思いを鑑賞者に想起させることになります。内容の理解・鑑賞から、書風を含めた理解・鑑賞へ移行するのか、はたまた書風の理解・鑑賞から内容の理解・鑑賞へ移行するのかはどちらでも構わないにしろ、「書を絵のように見ればいい」というような発信はあまりにも乱暴ではないかと感じます。
これは一例ですが、私の友人(書道経験あり)は「書は文字が読めなくても楽しめる」派の人なのですが、知人と書の展覧会に行った際「文字が読めないことにストレスを感じた」と感想を洩らしたのです。友人は「前衛書などの文字なのかどうかわからないものに関してはストレスを感じないけど、いくつかの文字が読めるのに、全部が読めない作品がストレスだった」「読めない作品については解説(釈文)がなくて結局わからなくてストレスだった」と言っていました。友人は今までの「書は文字が読めなくても楽しめる」という考えが万能ではないのでは?という思いを持ったようです。
その後、友人と、「書は絵とは違う」ということを話したのはいい思い出です。
書は、あらゆる分野の橋渡しであり、根幹であったのにも関わらず、現在あらゆる分野から断絶され、理解されないまま見過ごされています。
もし絵と同じ鑑賞法が書に適用できるのであれば、ここまで苦しむことはないのかもしれません。
しかし、書は書として独立しているからこそ、その見方・考え方を書に関係している人たちが提唱していかなければなりません。
そのためには、すでに細分化され研究されてきた各分野の成果を書に還元し、あらゆる分野とのつながりを再構築する必要があります。
書の世界は複雑で、さまざまな分野につながっています。
‐書の奥深さ、すべての人に‐
&書【andsyo】でした。
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