松本清張「或る「小倉日記」伝」
清張というと、社会派系推理小説のイメージがあるから、直木賞をとったと思われる人も多いかもしれない。
私も、そう思っていた。
けれど、実はこの「或る「小倉日記」伝」にて、1953年に芥川賞をとっていたのであった。
そのことを知って、芥川賞をとって、売れる方向にいくのもいいなあ、と若気の至りで思ったもの。新人賞の第一次選考にも通過しない人間が、何を夢想しておるのか、という感じ。
ともかく、そういう事情で興味をもって、おそらくは買ったのであろう『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』(新潮文庫)を、書庫から発掘した。
実は、併載されている他の短編は読んだこともなく、「或る「小倉日記」伝」だけを読んでいたのである。
今回、再読するにあたって、わたしはこれをいつまでも「おぐらにっき」と頭の中で読んでしまう。
本当は、森鷗外が北九州の小倉にいたときに書いたはずの日記が、ある時期まで見つかってなかったため、そこの欠落を埋めようと一生をかけた男の伝記、という内容なので、「こくらにっき」と読む。でも、なぜかいつまでもあたまのなかで「おぐらにっき」と読んでしまう。
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田上耕作という人から、手紙をうけとった詩人のK・M。その手紙には、未発見の鷗外「小倉日記」を再現したく、ここまで調べが進んでます、との内容があった。K・Mは興味深い内容と思われたので、励ましの言葉を書いて寄越す。
しかし、この田上耕作とは何者なのか。語り手は、この田上耕作の身の上を語りだす…という枠組み。
明治の中頃に美しい娘がいた。その名は白井ふじ。そのふじの父親白井は、九州の国権党員一人で、名士だった。名士ゆえに、ふじをめとらす先がみつからない。なので、甥にあたる田上定一と結婚させた。
田上定一とふじは一人の男の子を生んだ。それが田上耕作であった。耕作には、うまれつき障害があった。頭脳はしっかりしていたが、見た目が悪かった。そのせいで、人に疎まれ、あなどられた。定一は、責任を感じつつ、手を尽くしたが、耕作の障害は治らなかった。10歳のとき、定一は亡くなった。
美貌のふじには再婚先がたくさんきた。けれど、耕作を連れて行ったら、その後の扱いは目に見えている。すべての縁談を断った。耕作はけれども、頭脳は悪くなかった。親友もできた。けれど、障害のせいで、言葉が明瞭ではなく、そのために仕事も長続きしなかった。
耕作には友人ができた。江南鉄雄といった。江南は、耕作の文学的才能をみぬき、文学の世界に彼を引き寄せた。耕作は徐々に、実作ではなく研究の方に関心を持ち始めた。
そこであったのが、鴎外の小倉滞在の間に書かれたはずの日記の欠落である。その痕跡を求めて、耕作は色々と調べまわる。彼の目に希望がやどる。母のふじも、それで希望がわく。耕作の応援をする。それがふじの生きがいともなっていく。
けれど、耕作のコンプレックスは解消されない。調査のプロセスで出会った女子にもふられ、妻をとればなんとかなると思ったふじの気持ちに落胆する。そうしたコンプレックスを振り切るように、「小倉日記」復元の旅は続く。
耕作の資料は増えていった。太平洋戦争がはじまり、終わった。栄養失調のために、耕作は寝たきりになった。資料の整理をしてから死にたいと耕作は思うも、それはかなわず昭和25年に亡くなった。
ところで、昭和26年に、「小倉日記」の原本がみつかった。
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長編の清張のイメージがあるけれども、デッサンに近いこの短編。ふじという母がいることで、おそらくは、耕作というキャラが生きたのではないか、と思われた。
耕作はトータルで幸せだったのではないか。友人もいたし、母も自分を裏切らずにいてくれた。世界や歴史は残酷だが、その残酷さに触れずに、生をまっとうできた。
多かれ少なかれ、人は耕作のようなものだと思う。
パスカルは
みたいな趣旨のことを述べているけれども、この言葉はシニカルではあるが、裏返すと幸福とは自分の心の持ちようだとなる。
幸福となろうとしない状態、すなわち幸福について考えることのない状態こそ、幸福であると言える。
「小倉日記」を外側から復元しようと躍起になる毎日においては、幸福であるかどうかを考える余地はなかったし、それが幸福だった、と思う。
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