アメリカへの愛憎 〜ゆるく本を紹介する 5〜

大泉博子『ワシントンハイツ横丁物語』(NHK出版 1993)を読んだ。

これを購入した行きがかりは、やはり原宿地域の聖性に力を与えている歴史的建造物の射程を探索しようとして、占領軍が練兵場に家を建てて居住した空間である通称「ワシントンハイツ」についてもっと知りたいと思ったからだ。

よく原宿は、ワシントンハイツがあったから、外国人向けの店舗ができて、そのために外国っぽい雰囲気を身にまとうようになった、と説明されるが、参道は表だけではなく、北参道である千駄ヶ谷や西参道でもある参宮橋や初台にもある。にも拘らず、それらの参道は、なぜワシントンハイツの聖性を身に纏っていないのか、という説明を考えたかったからだ。

この本に登場する「ワシントンハイツ横丁」は、初台付近に伸びる下町商店街のようなものであり、表参道と同様に、アメリカ軍人家族の出入りはあったようだ。もちろん、そもそもの開発規模が違うという側面はあるだろう。連結している道路や地域も異なる。それならば異国の問題ではないのではないか。と思った。福生でも厚木でも横須賀でも入間でも、それならばオシャレの威光は振りまけるではないか。

この『ワシントンハイツ横丁物語』は、存外に面白い。どの掌編も、登場人物が人生を選択しようとする時に、アメリカへの愛憎が選択を行う大きなファクターとなって、道を踏み外したり、道に迷ったり、道をまっすぐに進んだりする。そこが面白い。

ある男の話。

ワシントンハイツ周辺の大きな道を帰り道に横断しようとした子ども二人。先に渡って、「おい、早く来いよ」と振り返って友人がその道を渡るのを見ようとした刹那、大きなアメ車が友人を轢いた。アメ車の運転席から出て来る将校と、助手席から出て来る日本人の女。

友人は病院で亡くなった。そして警察で事情聴取されているときに、出頭したのは助手席に座っていたはずの女。運転していたのは私です、と申し出ていた。男は、その人が運転していたんじゃない、というも、「気が動転してキチンと覚えてないんだよね」と女が言うと、結局警察も誰もが、その女を運転者として認定し、事故の本当の犯人を隠蔽するように動いた。

男は、友人をせかしたことの罪悪感と、真実が隠蔽されていることにまつわる敗北感とで、陰気になり、学業はおろそかになり、大人になると酒浸りになり、引きこもるようになった。

あるとき、寝言で「おかあさん、そうじゃないんだ、ちがうんだ」と言っている30代になった息子に、「本当のことを言っていいんだよ」と老母は問いかけるも、沈黙を貫いて男は酒の飲みすぎの肝硬変で44歳で亡くなる。

身につまされる話が多いが、この男の話は、アメリカに二度負けた男の話として興味深い。一度は、敗戦によるもの。二度目は、過失の責任が日本人に押し付けられ、それを皆が唯々諾々として受け入れている状況に、尊厳が傷つけられたこと。この二重のショックで、男は精神に変調をきたした。

アメリカ人将校が車を運転していなければ、真実がそれでも明るみに出されていたら、と考えなくもないが、いずれにしても男の人生を狂わせたのはミクロな意味でのアメリカ体験だったといえる。

単なる憧れとは異なる、こうした愛憎がないまぜになった経験が、掌編として結晶していて、なかなか面白い。

原宿のそばにワシントンハイツがあったから原宿は外国っぽく感じられた、という解釈は、フェルディナント・テンニースの指摘する「それのそばだからそれのため」という未開社会の因果解釈と同じだと思う。

あるいは「それのそばだからそれのため」という飛躍的な解釈を⦅経済的=わかりやすい》からと提供するマスコミのシェーマに単に同調しているだけだと思った。

近くであるがゆえのミクロだが濃密な経験を、遠くにいてその淡い影響をメディアの解釈によって受けた人々の感覚が消去していった歴史があると思った。

難しくなった。

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