蒐集について

最近、ペラペラと生活雑誌をめくっていたら、民藝調の雑貨に関する記事を目にした。相変わらず、民藝調デザインには人気があるものだなあ、と感じ、自分が民藝とすれ違った時期を思い返してみた。

以前、舟橋聖一の『悉皆屋幸吉』を読んで、《伝統の非継承の歴史》というテーマを定め、「昭和初期の地方染織技術の非継承の実態」を調べたことがあったが、「継承」の方には、「受け継ぐべき」や「受け継がれねばならない」というポジティブな言明があるのに対し、非継承の方はあまり言論として見当たらなく(当然のことではあるのだが)、結果としてあまり成果も出せずにポシャッた苦い記憶に思い至った。

断念した後、なんとなく賑やかしに読んでいたのが柳宗悦だったというわけである。

テーマには早々と見切りをつけてしまったため、あんまり堅く考えずに、柳のエッセイ集をぼんやり眺めていたのだが、それが却ってよかったのかもしれない。

柳独特の、エモーショナルで、短文がたたみかけてくるような熱情的文体の部分よりも、様々なところに出かけては、民藝ジャンルに属する事実を集めてまわる歩行する宗悦の姿の方が、心に響いてきたからだ。

ところで、柳の『民藝四十年』という書籍は、柳のキャリアのうち前期、中期、後期の著述をまんべんなく集めたエッセイ集となっている。

ウィリアム・ブレイクに関する論考は掲載されていないものの、朝鮮半島文化を再発見したエッセイ、木喰上人を発見したエッセイ、民藝関係のエッセイ(これが分量としては一番多い)、大津絵に関するエッセイ、戦中に琉球文化の擁護を唱えたエッセイ、戦後の茶道・仏門関係のエッセイなど、多岐にわたって集められている。

柳宗悦というと民藝運動の創始者という理解が一般的だが、このエッセイ集を読むと、それ以外にも、色々なところに目の届いた人だということがわかるはずである。

そして、やはり、最も魅力的な姿は訪ね歩く柳宗悦である。

柳の『蒐集物語』は、観る、歩く、集めるの三拍子揃った人物であった柳宗悦の本領が発揮されたエッセイだろう。

「木喰上人発見の縁起」(民藝四十年にも収録されているが)では、歩く人宗悦の旅は次のようなものであった。

それは大正十二年の正月九日のことでした。私は思いついたまま甲州の旅に出ました。一つは小宮山清三氏の所に朝鮮の陶磁器を見に行くためでした。一つは八ヶ岳や駒ヶ岳の冬の自然が見たく、日野春あたりを散策したいのが望みでした。また甲州で何か郷土的作品を購いたいと欲していたのです。

「日野春」という駅を御存じの人はご存じであろう。

中央本線の穴山駅と長坂駅の間にある、1906年ごろ開業した駅である。

ここで信玄公旗掛松事件というものが起こった。

列車を通したことで増えた煤煙が、この由緒ある旗掛松を枯らしてしまった、と国に民間人が訴えたのである。

民間人は勝訴し、国は賠償金を払った。この判決が画期的だということで、その筋では有名な事件であった。この事件で、一般には日野春駅が知られるようになったようなものである。

そして、日野春駅付近は、釜無川と塩川という二つの川が谷を形成している間の高台であり、富士山、南アルプス北岳、八ヶ岳、茅ヶ岳といった名峰が美しくそびえるのを目に出来る場所でもある。晴れているときは、どの山も目がうるむほど美しい。そうした場所を、すでに柳は知っていて歩いていたのかと、驚いた次第である。

それ以上に「甲州で何か郷土的作品を購いたいと欲していた」とさらりと記す部分は、何か古書でも買おうと神保町に参る書痴たちと同じような調子で、目的も虚ろなのに熱情にあかせて山梨県まで旅に出ちゃった柳の、お茶目な感じがわかる箇所となっている。

そこで出会ったのが木喰上人の彫刻だったことは、いささか出来過ぎの感がないわけではないが、そこから始まる宗悦の木喰上人をめぐる奮闘は本物だ。

文献を探り、郷土資料を探り、キーワードをたぐっていく。この熱情があふれて、いかんともしがたい文章が次である。

私は何より文献を求めたのです。しかしすべての仏教事典にも、あらゆる人名辞彙にも上人の名はありませんでした。私は甲州の郷土史にもその名を捜したのです。しかし一行一字の収穫もありませんでした。あの厖大な詳細な松平定能の著「甲斐国志」の中にすら、上人の名を発見することが出来ませんでした。「西八代郡誌」にも注意したのですが、最近の発行になったものにも、上人に就いて一字も言及していないのです。なべて郷土史は些細なことまで大事そうに書くものですが、上人に就いては全く無言でいるのです。どうしても自身で直接の資料を見出さねばならない。もとより何が得られるかは分らない。しかし自身で故郷を訪うより他に道はない。私はこの願望を棄てず、時の熟するのを待ちました。その期間私は幸にも東京において上人の作を二十体余り目撃することが出来たのです。

そして、その時は訪れた。

それに震災で兄を失った私は家事の都合上、東京を引き払って京都に移住しました。その結果東京で持っていた一切の講義を中止し、すべての時間は自由になりました。経済的には無謀でしたが、私は京都での新しい仕事をも全く放棄して、上人の研究にかかることに決心したのです。それほど私の心は上人のことに惹かれていました。全くこの一年は毎日毎日を上人のことのみで暮しました。(ある人は私に向かって金と暇があるから研究が出来たのだと批評します。しかしこの批評は真理への探究が何を意味するかを少しも知らない処から来るのです。金と暇は上人への熱情を起させないでしょう。まして努力を産まないでしょう。私は不幸にして金銭において全く自由な人が、精神的仕事に没頭した例を多く知らないのです。私は余裕ある仕事をしたのではなく、余裕なき仕事にとりかかったのです。他の一切の仕事を私は放棄しました。)かくして私が上人の調査に就く縁は、漸次固く結ばれました。

やはり、見るべきは、この注釈である。

ある人は私に向かって金と暇があるから研究が出来たのだと批評します。しかしこの批評は真理への探究が何を意味するかを少しも知らない処から来るのです。金と暇は上人への熱情を起させないでしょう。まして努力を産まないでしょう。私は不幸にして金銭において全く自由な人が、精神的仕事に没頭した例を多く知らないのです。

彼独特(白樺派的?)のたたみかける文体で調査への熱を表現されると圧倒される。この情熱で、宗悦は、市川大門から鰍沢口へといわゆる山梨県の峡南地域の奥へと足を伸ばしていくのである。

どうでもいい話で恐縮だが、以前、浜松に仕事で週一回通っていた。

そのときの住居は松本だったので、時には車で向かうときもあった。松本から浜松まで、直線では行けない。

赤石山脈が横たわっているからだ。

普通は松本から恵那、土岐市と行って、名古屋の外環から豊橋経由で浜松まで行くルートか、大月から河口湖を抜けて、御殿場から東名に乗るルートかを選ぶ。

けれども、一度、中央道から南アルプス市に出て、国道52号線で、いわゆる身延線沿いを、ダラダラと清水市まで縦断する道を選んだことがある(今はいい道が整備されている)。

この通り道を、柳も木喰上人の事蹟を求めて、歩いたようだ。

たまたまそのルートを選んだのが夕方出発だったせいもあって、暗い中、富士川がのたりのたりと走る脇を、トラックのケツを突つきながら走った訳だが、平成の世ですら、結構な山間であり、ましてや大正の終わりであれば、どれほどの強行軍だったかがしのばれるのである。けれども、そんな困難を宗悦は微塵も感じさせない。

越えてちょうど半歳の後、大正十三年六月九日、願は満たされ私は再び甲州に入ったのです。その日は池田村に過ごし、翌十日は五、六人の一行で市川大門町に木喰観正の碑を点検しました。しかし私の疑いはつのり、求めつつある木喰上人と観正とは関係なきことを殆ど確実にしました。最初の失敗に気を沈めましたが、上人の故郷といわれる丸畑は、富士川の下七、八里の所にあるのです。鰍沢において私は一行と別れ、ただ一人夕ぐれの流れに沿うて道を下りました。その夜は飯富に宿ったのです。六月十一日、運命はついに私の足を上人の故郷丸畑に入らせました。波高島で舟を棄て下部に入り、そこで幸に案内を得、二里余り常葉川を遡りました。暑い午後の光りに山路を縫うて歩む私達は汗にひたりました。

この波高島や下部や常葉という地名は、今も身延線に残っている。

私も、覚えているのが、52号線を下ってくると、左折ルートでなぜかカーナビの指示が出た。

えっ、と思って左折し国道300号という道を進んでいくと、山の上に行きそうなくらい傾斜があるし、あれっ何か方向が違う、と、それもそのはず、300号は本栖みちと呼ばれ、本栖湖を迂回しつつ富士宮市へ出るルートで、最終的には富士市において高速道路の入り口に行き着くので、そのまま南下するよりもカーナビ的には早くいけると判断して、指示が出たわけである。

しかし、身体感覚は、どんどん山梨南部の深い暗闇にハマっていくようで、ヤバいヤバいと思って引き返したあたりが、ちょうど木喰上人の記念館があるところだったのである。

のちに、あんなハードなところを宗悦は歩いて行ったのかよ!と思って、彼の情熱に敬意を表するようになったのである。

最後に、蒐集にかける彼の言葉を紹介しておきたい。

蒐集と利とが結びつく時、それがどんな性質であろうと明るくない。それを風流の道具に使い、社会的位置の資格に用い、または財産に置き換えることは、意味を涜すものと言っていい。どこか私を越えずば、いい蒐集は無い。物を有つのはいい、しかし有つからには有つ方に深さや浄さがありたい。

柳宗悦と言う人は、真のパンク魂を持っていた。

なんというか、利とか、効率とか、演出とか、キャラとか、そういう小賢しいことを考えていたら木喰上人にハマらなかったと思う。

木喰上人を求めて、わざわざ、あんな禍々しい(真夜中だったからなあ)山奥まで歩いていくわけだから、そんじょそこらのファッションパンクとはちょっと違う。

このあと木喰上人を求めて、柳は佐渡に飛ぶ。「木喰上人遺跡佐渡調査の思い出」というエッセイがその後に掲載されている。

今度、木喰上人の記念館に行きたい。

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