江戸川乱歩「二癈人」

先日、酔った頭で「二癈人」を読んだ。酔っていたので、筋をうまく追うことはできなかったが、昔読んだ京極夏彦の『絡新婦の理』的、というか、そもそもは誰がオリジナルなのかわからなくなった。実行犯と指示犯が別にいて、指示自体は犯罪を使嗾するものではない。いずれにしても、『ジキル博士とハイド氏』や『二重人格』を思わせる構造が楽しい作品である。

江戸川乱歩は、三重県名張の出身だという。名張には行ったことはないが、いつかは行ってみたい地域の一つである。三重県の名張、岡山県の津山、山口県の周南、じっくりと廻ってみたい。剣呑剣呑。

実は、江戸川乱歩の大人向けの小説をあまりキチンと読んだことはない。というのも、大学生になったので江戸川乱歩をちゃんと読みたいですとサークルの先輩に行ったら、「もう推理小説は、乱歩の幻影城で、尽くされたんだよね」とか、知った口を叩かれて読む気をなくしたことがきっかけで、集中的に読む機会を逸したまま今に至ってしまったという経緯がある。

また、サークルが純文学系だったこともあり、江戸川乱歩はそういう中ではやや評価されにくかったきらいがあって、今の今まで、件の『幻影城』すら読んでいないという有様である。

大人も半ばになって、手に取った『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)を順番に読んでいく。「二銭銅貨」は、昔、子供向けリライトで読んだ。今、大人になって読むと、語り手が超嫌な奴だった。

そして、「二癈人」。何が「癈人」なのだろうと思ったら、まあまあ「癈人」だった。使い方としては「ネトゲ癈人」と同じような感じで、自虐的なニュアンスが漂う「癈人」である。

昔、若松孝二監督の「キャタピラー」という映画を観た。結構、良かった。江戸川乱歩の「芋虫」を下敷きにした「キャタピラー」は、寺島しのぶの演技が、原作を食い尽くしていた。原作が、ややもするとフリークスに対する憐憫と好奇の視線を両義的に内包しているのだとすれば、「キャタピラー」は美やエロスに昇華するように見せかけて、当時の社会を批判する。一段俯瞰した視線を、若松作品は持っている。なんのこっちゃ。

で、それはともかく「二癈人」だが、齋藤氏と井原氏の対話から始まり、齋藤氏の正体を井原氏が感得するところで終わるのだが、齋藤氏の刀傷などの来歴をそこまで語らなくてもよくね?と思った。けれども、これがあとから効いて来るのであった。

結局、何を言いたかったのかがわからなくなったので、節を変えてみた。

要するに、江戸川乱歩は、隙間が少ない作家だということである。「隙間」とは、ストーリーに関係あるような関係ないような場面や表現であり、解釈する余地である。乱歩は、そういう側面をあんまり出さない、洗練された作家であり、そうであるがゆえに、感想文が書きにくい作家なのだ。

「二癈人」も、優等生的な感想を記そうとしても、せいぜい、「友達だと言っている人も疑いましょう」くらいなもので、ストーリーテリングに無駄はない。

ネタバレはよくないと思って、その周辺をぐるぐるまわったら、何を言いたいのかわからない感想文になった。


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