太宰治「駈込み訴え」

ユダの裏切りに至る心理的葛藤と決断を、太宰調の文体で書いた読ませる短編。

新潮文庫の『走れメロス』は、そういう意味では、前期後半・中期の代表作ばかりを入れようとした、短編集であるということができる。

左翼活動からの離脱と罪責感、心中未遂、パピナール中毒と回復、キリスト教のモチーフ、故郷・津軽への想い。こうした人生航路と作品が、お互いを映しあったり、拒絶しあったり。

「駈込み訴え」は、芥川龍之介への傾倒からか、先行作品を題材として、それを裁ち直す技量を示す太宰の面目躍如の作品だと言える。

どうして私はこれほどまでに受難するのか、という思いをくるんでくれたのが、聖書に書かれた様々な挿話だったのかもしれない。太宰は、三島由紀夫がイヤミを後年言ったように(誰もがそうであるところの)、受難者としての強い自己意識を、キリストとユダの二者に分岐させつつ、自分を認めようとしていたのだろう。

他者に憑依する/されることが得意な太宰にとって、聖者へ/からの憑依によって、ずいぶんと心が軽くなったのではないかと予想する。

ユダ。イスカリオテのユダ。12人目の使徒で、イエス=キリストを密告し、処刑に至る道筋をつける人物(13番目と思っていたが、それはゴルゴ13の錯覚で、のちにユダの代わりに誰かが格上げされることになって13人になるとかなんとかで、実際は12番目なんだということがウィキに書いてあった)。

よく裏切り者の代名詞として、諸作品に用いられる。キリストの次に、非キリスト教国の私たちに、親しい人物なのかもしれない。遠藤周作の『沈黙』に出てくるキチジローなど、主と親しみつつそれを裏切り、裏切ったことに苦悩する人物への愛着は、案外多くの人が抱く感情ではないだろうか。

もしかしたら、そうした感慨を抱くのは私だけかもしれない。それでもやはり、明智光秀もそうだけれども、裏切ることの動機に崇高さを求めてしまう。

太宰は、裏切りの動機に、愛情深きゆえの嫉妬を読み取った。そして、それを書いた。こうしたねじれの感情は、文学のみならず、定番のものである。愛ゆえに愛を捨てたラオウ。おっと、例が俗になりすぎた。愛が深すぎるゆえに誰とも付き合わないキャラクター。いずれにしても愛=独占欲と解釈すると、大抵、独占しきれぬことによって悲劇が起こる。

「駈込み訴え」のユダも、崇高さの方に揺れながら、独占欲を捨てられない。独占欲を愛と表現している。独占できないなら私が死なす。それは反復不可能な事態なので、私の独占欲は満たされる。

私は太宰が深くユダの心のひだに入り込んだと思っているが、入り込んだ上で肯定しているかというと微妙なところだと思う。肯定と否定の配分。どんなものだろう。4:6くらいではないか。根拠はない。肯定は、情熱に対して、否定は、その結果に対して。

キリストを裏切る。決断した。愛ゆえに。違う。嫉妬だ。自分の動機は崇高なものではない。崇高でないなら、徹底的に即物的に行こう。金だ。チンケな金のためにイエスを裏切った。それでいい。

そんな話。

ユダのこと。北斗の拳くらいでしか知らぬユダ。いやもちろんそんなわけはないんだけれども、それでも、じゃあユダのテキストを聖書のどこに探せばいいか言ってください〜、と言われたら言えない。そんな程度。

太宰は中期よりキリスト教モチーフにとらわれる、と言われる。

「中期」とは、パピナール中毒で入院している間に妻の不貞が発覚し、一緒に水上で自殺未遂をし、離婚して、無為な生活を送る中で、山梨の美知子さんとお見合い、結婚に至るあたりをスタートにしている。

それ以前は、私程度のキリスト教知識では見分けがつかないような書き方で、今回、「へっへ。イスカリオテのユダ」と、元ネタをはっきり示されてやっとわかった。

キリスト教については、大学時代「キリスト教概論」を講義していた小山宙丸先生の大教室の最後列でビールを飲みながら聞いていたら、先生がぐわーっと階段教室を登ってきたので逃げた、程度のキリスト教知識である。宙丸せんせい、ごめんなさい。あの時は、那壽先生だって、フラ語の直紀だって、タバコ吸いながら授業してたじゃん。

いやいや、それはそれとて、自分はその後、小田垣雅也『キリスト教の歴史』(講談社学術文庫)で学んだ程度で、やっぱりユダのことを知っているとは言えない。なんでユダだったのかなあ。ユダを通してイエスを見ていたのか、ユダに関心があったのか、その辺はよくわからないんだけれども、とにかく自分も、もうちょっとユダについて知らんといかんよね、という気持ちになった。

そういうことを知らんかったにしても、このユダの独白、心を打つ。どこが?

けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私ちがっていたのだ!私は潔くなっていたのだ。私の心は変わっていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それをしらない。違う、違います、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾を呑み込むように、呑みくだしてしまった。

やっぱやめよ、みたいに思った時に、ここに裏切る奴がいる、とか言われて、ムカーっってなるところ。わかりますわかります。人を愛そうと思った時に、アイツキモいんですけど、って言われて、《やっぱり俺なんか》ってなる、《どうせ一生俺なんか》ってなるあの気持ちだよ!

自分を嫌いだと思ったことのない人にはわからないかもしれないなあ。ヒロとかタカヒロとか。アツシはわかるかもな。マキダイさんは微妙なところかしら。あ、いやいや初代JSoulブラザーズ、割と歳近いんで、嫌いじゃないですよ。

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