吉野葛 〜Recycle articles〜

昨日は、無駄に連投をして、申し訳ありませんでした。

昔書いた文章を、少し引っ越して、残そうとしているためです。

2007〜2019年くらいの間にちょいちょいと書いたものなので、時間軸がズレており、それを今の時間にアレンジしてリサイクルしています。

結論などは、まだ若かったこともあって、何かいいこと言ってやろうとする気負いが感じられるものですが、一つの記録としてご笑覧いただければと思います。

この谷崎潤一郎の『吉野葛』についても、そうした形でリサイクルしています。


谷崎潤一郎の『吉野葛』をパラパラめくりながら、誰かに何かを伝えたい感情を抱いたが、それが何かはよくわからなかった。なので、よく分からないまま、書き始めてみようと思う。

『吉野葛』を、一読して「面白い」と思う読者はどれくらいいるだろうか。

もし、この小説が、谷崎の構想通り、南北朝統一後のさらなる抵抗の歴史を描いた作品に仕上がっていたら、それは日本の歴史の闇の部分を照らし出したという意味でも、「面白い」小説になっていただろう。

けれども、『吉野葛』は、そんな歴史小説を書くための取材旅行の小説として、結実している。

これを「面白い」と思えるだろうか。

小説を、起伏のある物語としてイメージしている人からすると、『吉野葛』は小説ではなくエッセイや紀行文の1つとしてカウントされるかもしれない。

確かに、筋だけみると、谷崎とおぼしき小説家が、津村という旧友と、「後南朝」なる抵抗勢力が陣取った吉野川(「紀の川」という方が一般的である)の流域に点在する事蹟をたずね、その解説をしながら、友人津村の母への憧憬感情について触れながら川の奥へと辿って行く話に過ぎない。

しかも、途中から、歴史よりも津村の女性思慕の思いを、谷崎は代弁していくようになり、読者は最初の期待から置いてけぼりを食ってしまう。

これは小説なのか、という思いが生じるのも、当然だと思う。

小説でワクワクドキドキしたい、という場合は『吉野葛』は不適当だろう。

商品としてのエンターテインメント性は薄い。オッサン二人が、歴史取材にかこつけて、理想の女ってのはね…みたいなことを言いながら(考えながら)、吉野川を奥へ奥へさかのぼって行くだけの話。

それを私は面白いと思い、誰かにその思いを伝えなくちゃ、と思った。けれども、その思いを形にしようとした途端、頭がフリーズしてしまう。「エモい」。そうそれだけしか言葉が出てこないのだ。


これ、書いていて思ったのは、コンラッドの『闇の奥』。

あれは、植民地支配の英雄の本当のことを確かめにコンゴの川を奥へ奥へとさかのぼって行く話だったけれども、似たような構造が『吉野葛』にもあるんじゃなかろうか、と。

日本の中心が畿内だったころには、吉野といったら、ある意味で秘境の入り口、ここから十津川やら熊野やら、人も住まない山の中へと分け入っていくような感覚であったろう。確かにそれは、思慕する母の影を求めて胎内へとさかのぼっていく行為になぞらえても、悪くないかもしれない。

奈良で親友とも言えるべき人がバイクの事故で不随になり、喋ることも対話をかわすこともままならなくなって寝たきりになったことは以前書いたことがある。そのバイク事故の一報を聞いて、私は諏訪から、友人たちは埼玉から、途中で合流して、彼の奥さんのところへ行った。

ICUで治療を受け、意識が戻るかどうか、それを待つ間、私たちは吉野の山中に分け入った。これが吉野か、と、あまりいくこともない奈良の奥に、妙な感動を受けた。

温泉施設に寄ったり、ドライブしたり、奈良三山に登ったり、人が亡くなりそうな時に不謹慎だったかもしれない。ただ、我々がしんねり待ち続けていたとしても、事態はなるようにしかならない。

いっそ、遊んでいれば、アイツも一緒に遊びたくて戻ってくるんじゃないか、そんなことを私たちは思い、空元気を出して山中に行った。

果たして、アイツは意識を取り戻した。

いずれにしても、自分が何を書きたいのかよくわからない。

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