川端康成『山の音』11「都の苑」

やっと、『山の音』の面白さが、感じられるようになった。

今まで面白くなかったんかい!と突っ込まれそうだが、勘所が掴めなかった。信吾の菊子を観る目を、眺めて楽しむ小説でもないだろう。『ヴェニスに死す』のような。それであれば登場人物が多すぎる。

第10章で、菊子の堕胎をめぐる修一と信吾の会話、これを読んで、やっとイエの存続とその不可能性に直面した人々の喜怒哀楽を読めばいいとわかって、取りつく島が出来た気がしたのである。

修一が浮気をしている絹子と同居している池田が、別居すれば浮気も治るんじゃないですか、と主張した際に、信吾が見せた動揺と苦悩は、三世代同居という幻想が破れていく信吾の動揺であった。

信吾は菊子を大事にしているが、それは信吾の菊子への情愛という側面がありつつも、裏面に戦前のイエ制度の幻想を維持しようと意識する代弁者としての側面もある、ことに気づいた。

信吾が菊子に別居を勧めた時、菊子は別居をおそろしいといって拒否するが、一方で子どもを産んでイエに従属することも拒否する。この菊子の微細なイエからの独立とイエへの従属とに揺れ動く心を、占領下の日米関係に大胆にパラフレーズすることもできそうな気もするし、禁欲して菊子だけに焦点を当てることもできる。

映画は、菊子に従属か独立かを迫る、信吾や保子の姿が強調されている。保子も信吾も自身がやっていることの自覚はないが、成瀬監督(というか脚色の水木洋子氏)は明らかに、菊子にその選択を迫るようなエピソードの選択をしている。房子はまさにその選択を明確に迫る存在として登場する。

実は映画は、エピソードに提示のあり方に、小説の順序と若干ズレを置くところがあり、そこが小説を映画にしたときに、監督や脚本が苦心したところだろう。

1時間34分の中で1時間5分に、堕胎の問題を提示していることが、監督の『山の音』の読み方を示している。成瀬監督は、明らかに菊子のイエ制度への独立と従属の決断を、ドラマの中心に据えている。

ある夜の食卓で、信吾の不機嫌に房子がキレた。菊子や修一がいないと信吾の機嫌が悪いじゃないかと、ほうれんそうのゆで方にあてつける信吾に対して、文句を言う。信吾はそんなことはない、というが、食器をシンクにがちゃんと投げ出し、ヨヨヨと泣く。

信吾は、保子に預けられた国子を抱き、国子の顔は里子よりも見込みがありそうだと思う。この後におよんでまだ保子の姉の面影を追う自分を自己嫌悪する。そして、菊子が生まなかった子どもこそ、姉の生まれ変わりの子どもだったのではないかと夢想する。

信吾を房子は責め、保子も責める。要するに、房子がこうなったのも、里子がこうなったのも、信吾のせいではないか、と。

信吾は信吾で、房子の旦那の相原の行方について聞く。相原の動きはないようだ。悪い連中にのせられて麻薬の密売などをやっているという。信吾の調べによると、そのような身の持ち崩し方をしているようだ。そんな相原にお金を送っている房子と、その房子にお金を与えている保子を信吾は掣肘する。

ある日会社に出ると信吾に谷崎英子からの置手紙があった。菊子のことについて、話があるということだった。

信吾は、横須賀線の車窓から見える池上の二本の松を観ながら、堕胎という事象によって、その幻想が汚されてしまったと思う。谷崎英子から電話がきて、明日また会いたいと言う。その焦りぶりに、嫌な予感を信吾は感じる。

信吾は、菊子に電話をかける。菊子は信吾と会いたいと述べ、新宿御苑で会うことを約束する。

信吾が御苑に行くと、菊子が待っていた。そして、家に帰ろうと思うと言う。修一から電話があったが、信吾の許しがなければ帰れないような気がしていたという。

実際会うと、菊子はせいせいした顔をしていた。そして、カップルばかりの間を縫って散歩していると、信吾には自分たちが場違いのように感じたし、この場所の選択には意味があるように感じたが、菊子や周りのカップルたちは意にも介していないようだった。

菊子は明日帰ると言った。

谷崎英子と信吾は会うと、奥様は「中絶なさいましたでしょう」と告げた。そして、その病院の費用を絹子のところから修一は持ち出したと、英子は告げた。そして、「別れさせてあげて下さい」と懇願する。

信吾は、絹子と修一を別れさせろ、と英子が言っているのか、修一と菊子を別れさせろと、英子が言っているのか、わからなくなった。

小説においては、必ずしも、堕胎をめぐる問題がクライマックスではない。

信吾の父としてのありようが問われ始めている。

これを日本の「父」の問題として、解釈するのは話が大きい気もする。

しかし、そう読めるように川端は言葉を配置している気がしてならない。

第一 私というレイヤー。
第二 私とあなたというレイヤー。
第三 私とあなたと我々というレイヤー。
第四 私とあなたと我々と社会というレイヤー。
第五 私とあなたと我々と社会とその外部というレイヤー。

川端の眼が、第五のレイヤーにまで届いていながら、第四、五のレイヤーの影を、第三のレイヤーにとどまりながら書こうとしている。

東西文明の出会いを第五のレイヤーにまで広げて描こうとした横光利一『旅愁』に対するアンサーなのではないか、と思うようになった。

何を言おうとしているのかわからなくなった。

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