太宰治『津軽』

太宰治というと、どうしても心中と破天荒のイメージがある。

私もそのイメージが先行していた。

ただ今回、太宰の再読の機運をnoterさんからいただいて、太宰の本を探すものの、ない。あったのは『図説 太宰治』。仕方なく読み始めたけれども、申し訳ない、面白かった。

その感想は別に書くつもりだけれども、一点、太宰は戦争のさなかに創作のモチベーションが一番上がった作家だった、ということを理解した。

それはなぜだろうと思い、昭和19年に綴られた故郷紀行である『津軽』から、手をつけてみることにした。

後書きで亀井勝一郎は「昭和14年東京都三鷹に居を定めてから、心身ともに健康となり、多くの代表作を発表した。20年の終戦まで、この7年間は太宰文学を確立した大切な時期で、彼が生前に書いた八つの長編小説の中の6篇までは、この時期に出来上がっている」と言っている。

当たり前のことだったのかもしれないけれど、戦後の作家だというイメージが私にはあったので、そういう当たり前の年譜を見逃していたのである。『図説 太宰治』はそんな当たり前の知識をもたらしてくれた。

戦中というと暗黒の時代をイメージする。しかし、もっとミクロに、階層ごと、地域ごと、ジェンダーごとに戦中生活を見ていくと、暗黒面だけではない生活の営みも見えてくる。それでも戦争がない方がいいと思う。コロナ禍じゃない方が、良かったように。しかし、現実にはコロナ禍の時にこそイキイキできた人がいるように、戦中だからイキイキしていた人もいる。もしかしたら太宰は、そのようなタイプだったのかもしれない。

『津軽』は昭和19年に三週間にわたって津軽旅行をした報告としての紀行文だ。昭和19年といえば、1944年6月に始まるサイパン島の戦いで、陥落し、本土への直接攻撃が可能になったターニングポイントになっている。そんなおり、太宰は故郷津軽を旅行していた。

責めているのではなく、出征に対する悲しみが一方でありつつも、生活そのものは悲喜交々、営まれていたという事実を指摘しているまでだ。太宰は、肺浸潤と診断され、従軍しなかった。その中で戦況が悪化する予感を抱きながら、それが彼の創作熱を喚起していったようにも思われる。

津軽を旅しながら、17歳で亡くなった愛する弟、27で亡くなった三兄。小さい時のこと。学生時代のこと、それらをユーモラスに綴っている。死や滅びが少しづつ迫っているという感覚がなければ、太宰は創作のモチベーションを高められなかったのかもしれない。悪化する戦況は、太宰が希死念慮を自ら生じさせなくても、向こうからやってきて、彼を元気にさせたのではないかとさえ思う。

それほど『津軽』は生彩に富んでいる。輝いている。響いてくる。

私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まあまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。

序文の結節である。

こういう照れ隠しの言い方で、ある種の真正な価値をポロッと言ってのけるのが、太宰のキザなところだし、愛すべき心根である。

さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気でいこう。絶望するな。では、失敬。

全体の最後。

これも太宰だ。

ちょっと戦局に批判を述べつつ、カッコつけやがって、と思わせる。

知ったふうにいえば、太宰はナレーションにおける読者との距離を広げたり縮めたり、そういう距離感の調整が巧かった。急に懐に入って来たりする。人懐っこさが、魅力なんだろう。

才能が枯渇したって。お前が言ったら嫌味だろう。いつまでも困ったやつだった。

それだけ。

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