「小説は自然を彫琢する。自然その物は小説にはならぬ」夏目漱石『虞美人草』第七章
つい、ダウンロードして読める虞美人草に関する論文を、パラパラとめくってしまう。
こういうのは神経症的でやめにしたい。
あらゆる言及を全て追えるわけではないのに、それを集めようとするのは悪い癖、あるいは身についた職業病のようなものである。
第七章、面白いなと思うのは、やっぱり漱石はメタフィクションを意識しているという点だ。
この七章、京都から東京に向かう列車の中で、甲野さん、宗近くん、そして、小野の養父で庇護者だった井上孤堂先生、小野と結婚するつもりの小夜子の4人が居合わせ、それぞれの思いが交錯するシーンが描かれる。
『虞美人草』は1907年刊。
1887『浮雲』、1898『武蔵野』、1902『金色夜叉、1906『蒲団』、1908『破戒』。言文一致と自然主義の間で、漱石はどう考えただろう。二葉亭四迷1864年生、夏目漱石1867年生、幸田露伴1867年生、尾崎紅葉1868年生、国木田独歩1871年生、田山花袋1872年生、島崎藤村1872生。
交錯そのものの前景化は以下の引用に伺える。
シーンを交互に書けば、交錯自体は読者に見える。読者は、全体を予感しているからだ。けれども、漱石はわざわざ予告する。これをおせっかいと見るか否か。私は、小説技法についての読者の無理解を恐れて、敢えてわかりやすくするために書き込んだのではないかと見たい。
そして、新橋の停車場についたとき、これまた丁寧に
と書いている。
さらに、登場人物たちにも、わざわざ自分の運命に言及させている。京都の町で何度か見かけた小夜子の姿が、列車の中にあることに気づいた宗近くんが
こんな風である。
藤尾、小野、小夜子の三角形。継母、甲野さん、藤尾の三角形。藤尾、宗近、小野の三角形。これらの三角形の外にいる人物を内側につくっていることも、ある種物語のリアリティを失わせるという効果が生じて、それで読者は観察者として内側に入り込めない、ということもあろう。『文学論』や分析的な文学講義で、不評だった漱石らしいけれど、私は、結構、そんな漱石が好きだ。
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