脳過労、抵抗、一日三百円で俺は幸せだ

最近、実在の人物であれ、架空の登場人物の名称であれ、固有名詞をど忘れすることが多くなった。

昨日、放映していた医療バラエティで「脳過労」という現象が指摘されていたが、私も、そうなのかもしれない。

過労というほど脳を使っているのかどうか疑問だが、眼は確かに昔よりも使っている。

先日など、同僚の名字を思い出そうとして出てこず、その周囲の人々の名称などを書きだしていって、やっと辿りつけたこともあった。

なぜ、マルセル・プルーストやナサニエル・ウエストは覚えているのに、むしろ身近にいる人の名字も思い出せないのであろうか。

その番組では、他にも色々と不穏な病名を原因としてあげていたが、昨年11月に私も脳の画像を撮っており、そこでは特に問題はないということだったので、やはり「過労」ということなのではないか。

人の名前を覚えることだけが得意だったという自負があったので、それが磨耗しているとなると痛恨の極みである。

その番組では、「過労」を癒すにはボーッとすることだ、と述べられていたが、確かにボーッとする時間は以前に比べ少ないかもしれない。

電車の中では、本を読んでいるか、文章の粗いスケッチを書いたりしているし、交渉の時の発言や講演のシミュレーションなどをしていれば必然的に脳が休まる暇はないのだとも言える。

ただ、それでけで人より労が過ぎていると言えるのだろうか。とはいえ、最近では、180分話すと声がかすれるようになってしまうこともあって、老化しているということをしみじみと感じる。



江口寿史のマンガに、母がどんどん若くなる病気にかかり、 病状の進行とともに身体も精神も幼くなっていくという短編がある。

着想は、以前どこかで見たことのあるものだけれど、江口の画風が抑制されたセンチメンタルに充ちていたこともあって、印象深かった。病状の悪化が、視覚的に表現されているので、皆彼女がどのステージにあるのか、ということもわかっている一方で、幼くなる母は内省力を失ってしまうのでただ無邪気に振る舞う。病気の自覚もなくなり、自分がいかなる運命の途上にあるのかすらわからなくなってしまう。

悲しいのか、幸せなのか、本人しかわからない。本人もわからなくなっているのであるから、きっと誰もわからないのであろう。

朝、トイレで読んで、不覚にも動けなくなる始末。何に、そこまでこころを突き動かされてしまったのか、判断できないほど突き刺さった短編だった。

忘却するというのは自然の摂理だとしても、徐々に、脳の空白部分が増え、連結しているシナプスがプチプチ切れていき、何かを思い出すのにも、かなり迂回して辿り着かなければならなくなってしまうのか。

記憶をメシの種にして、というのは大げさだが、記憶への沈潜から語りのネタを拾い上げていく自分としては、切実に恐怖を感じた。はて、それぞれの記憶の島がモナドのようになって孤立してしまい、連想が不可能になったまま、何か究極的な自分の体験だけを抱きしめて意識が混濁してしまうのか、と思うと、身震いするほどだった。

しかしながら、この短編の母は、幼少期の甘い記憶の中で意識の消失を迎えられたわけで、そういう点では、幸せだったのではなかろうか。



ポール・ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』は、究極的に明晰な意識を論理的に追求しようとした試みとして読んだ。

そのような完全物が言語上で再現出来るはずもなく、結果としてヴァレリーの思想の反映物にすぎないのだけれども、私にとっては、何か思考していて行き詰まったときに開く魔法の扉のような本である。

レオナルドが、ルネサンスという光と闇が半々だった時代に、いかにして、合理的思考を展開しえたのか。

ヴァレリーに比べ、レオナルドの時代においては、もっと宗教的制約や迷信的な思考がはびこっていた。にも関わらず、レオナルドはいかにして明晰な思考を開始することができたのか。

その方法的意識のありようを、くり返し同じ主題に立ち戻り、アフォリズムのごとく別様の言葉で反復しながら同じ主題へと辿り着く姿に、私はうたれた。

自分の恥多き生涯の中でいつの時期が最も明晰な意識であったか。最近では、声もかすれ、体力も落ち、思考も散漫になって、読書への集中力も欠いてきている。

その理由の一つは、幼少期に読書習慣がなかったからではなかろうか、と不安になってみたりするのだが、単純に酒が、脳細胞を破壊してしまったからだし、かの由良君美翁も、そのような生活習慣において、長い文章を書くこと能わなくなってしまった、と述べていることは、四方田犬彦の『先生とわたし』の中で書かれていたか否か。

いずれにしても、誰にも訪れる能力の劣化の速度が劣化の認識の速度に比べ速いと、どうしても、そのズレが際立ってしまうのだろう。



「精神の危機」を書いた1919年は、ヴァレリーが48歳となった日であった。この危機はエスプリのみならずヨーロッパの支柱としての知性にも及んでいたわけだが、敢えて乱暴に言えば、世界の変化に対して自身の精神が危機に見舞われた、ことの反映なのではなかろうか。

世界が変わったように見えるとき、変わっているのは実は自分自身である。ヴァレリーは、このことを敏感に察知していた。

さらば亡霊たちよ!世界はもはや汝らを必要としない。私をも必要としない。精密を求める自らの宿命的な運動に進歩という名をつけた世界は、死の利点を生の効用に結び付けようとしている。しかし、いま少し時間が経てば、すべてが明らかになるだろう。我々は、一つの動物社会、完璧にして決定的な蟻塚のような社会が奇跡的に到来するのを目の当たりにするだろう。

ヴァレリーは知性を賛美し、精確さに取り憑かれたというが、本当だろうか。

ヴァレリーは、精確さに憑かれながらもなお、雑さ、錯綜した形、複雑さといったものを愛したように見えなくもない。

それらが、世界から取り残されていくように見えたがゆえに。

デカルトが書き物を発表し始めたのは四十八歳になってからである。セバスティアン・バッハも五〇歳を過ぎてから作品を出版した。それまでは、前者は退役軍人の恩給生活者だったし、後者は教会のオルガン奏者だった・・・今日では周知の作品を世に問うことができた二人であるが、その存在が世に聞こえるようになるまでは、時代の社会的定義がなお厳密さを欠如していたおかげで、生活することができたのだ。

ヴァレリーには、彼のエスプリの形態がいつの時代においても通用するものだとは映っていなかった。

彼は、一方で階級的、社会的な見地から分析を進めるような癖があったからだ。

そのため、変わることのない社会の変化という変な状態に自分の精神が適合していないことを鋭く見て取ったに違いない。

『精神の危機 他15編』には、唯物論者のヴァレリーの姿が明確に表現されているように思う。

この種のヴァレリーの問いを、彼の「老化」の証拠として提出したいわけではない。むしろ、「老化」に対する一つの抵抗として、つまり《変化する世界》と、《世界が変わると思ってしまう自分》と、に対する抵抗として捉えたい。

ヴァレリーの講義は、マラルメについてボソボソと話していて、何を言っているか聞こえなかった、という主旨のことを中村光夫が『戦争まで』の中で書いていたように覚えているが、にもかかわらず、彼の書くものは、若々しい印象を与える。

それもこれも、世界と自分の二つの変化の間にあるアルキメデスの点としての知性のあり方を志向していたからではなかろうか。

と、自分の老化を何とかするためにヴァレリーにかこつけて、多少なりとも奮起しようと思ったが、痩せようと思って腹筋したら、腹が痛くなってたまらない。老化は、老化を押しとどめようとする努力すら押し流してしまう濁流だ。



つげ義春の短編集の中に、「散歩の日々」という短編がある。冒頭の「退屈な部屋」というのもいいが、「散歩の日々」こそ、私が目指すこれからの境地であると思った。

主人公の男は散歩が趣味で、一日に三百円あれば、事足りるし、三百円を使わずに過ごせれば何よりとも考えている。ある日、三百円を持って子どもを連れ散歩に出たところ、労務者たちが神社の境内で賭け事をしているのに出くわし、観ていたら急に勝てそうな気がして参加したらすぐに巻き上げられた。

子どもが飲み物をせがんでも、買う金がない。そのため、借りようと古本屋のオヤジのところへ行ったら、今日は縁日だから手伝ってくれと言われ、焼きそばをつくることになる。意外に上手く出来て、集まったお金から三百円をくすねる。というだけの話である。

ヴァレリーの知性と何の関係もないものだが、ここには、切り詰められた精神の働きがあるように思う、って、冗談冗談!そんな屁理屈は捏ねないよ!こんな感じで、何もないところに何かを発見しながら生きていけたらいいな、って、思っただけですよ!

この種の、急な開き直りもまた、「老化」の始まりかも知れない。

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