太宰治「創世記」

筒井康隆みたいだ。

筒井にも『バブリング創世記』というリズムに特化した音楽のようなユーモア小説があるが、この太宰の「創世記」も、もちろん太宰の純な、はにかんだ心持ちが通奏低音で流れている、内容をもっているけれども、どこか音楽的で、リズムを感じる作品である。筒井康隆みたいだ、というのは、私の中の読み順での錯覚だけである。

ノッソリ出テ来テ、蝿タタキノ如ㇰ、バタットヤッテ、ウムヲ言ワサヌ。五百枚。良心。今ニ見ヨ、ナド匕首ノゾカセタル態ノケチナ仇討チ精進、馬鹿、投ゲ捨テヨ。島崎藤村。島木健作。出稼人根性ヤメヨ。袋カツイデ見事ニ帰郷。被告タル酷烈ノ自意識ダマスナ。ワレコソ苦悩者。刺青カクシタ聖僧。オ辞儀サセタイ校長サン。「話」編集長。勝チタイ化ケ物。笑ワレマイ努力。作家ドウシハ、片言満了。貴作ニツキ、御自身、再検ネガイマス。真偽看破ノ良策ㇵ、一作、失エシモノノ深サヲ計レ。「二人殺シタ親モアル」トカ。

ラップ、だよね。あるいは無意味な地口というか、ナンセンスな言葉遊びとか。電気Grooveの「B.B.E」とか「電気ビリビリ」とか、そういう感じ。ナゴムなセンス、というか。太宰、恐るべし。「オ辞儀サセタイ校長サン」とか、ナチュラルに出てこないよね。

私をだますなら、きっと巧みにだまして下さい、完璧にだまして下さい、私はもっともっとだまされたい、もっともっと苦しみたい、世界中の弱き女性の、私は苦悩の選手です、などすこし異様のことさえ口走り、それでも母の如きお慈悲の笑顔わすれず、きゅっと抓んだしんこ細工のような小さい鼻の尖端、涙からまって唐辛子のように真赤に燃え、絨毯のうえをのろのろ這って歩いて、先刻マダムの投げ捨てたどっさり金銀かなめのもの、にやにや薄笑いしながら拾い集めて居る十八歳、寅の年生れの美丈夫、ふとマダムの顔を盗み見て、ものの美事の唐辛子、少年、わあっと歓声、やあ、マダムの鼻は豚のちんちん。

「マダムの鼻は豚のちんちん」なんて、シラフじゃ出てこないフレーズだよね。イ・パクサだよね。

ただの子どもがいうナンセンスと、突き抜けたナンセンスと、違う。突き抜ける過程において燃えた灰が沈殿して、キラリと光る。灰とダイヤモンド。あいつ、くうだらねえ比喩かましやがって。キム・スー・イルのアレンジをみよ。

大丈夫っていうから黙って帰る
本当のことを言えばきっと誰かが傷つく
土産はいらない便りもいらない
どうか気をつけてまたどこかですれ違えばいいね

なんだろうな、この小説。1930年代の後半って、なんだったんだろうな。

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