志賀直哉「白い線」

朝、「リモートするなら、ベローチェの無料チケットがあるから、これ使って」と2枚、引き換えチケットを渡された。むう、ベローチェか・・・としばし沈思した。

ベローチェは駅前の、しかも都会に店舗の多い喫茶店で、通勤目的の徒歩客を念頭においているから、駐車場が完備されているところなどほとんどない。しかも今日は雨である。

割と昔よく行っていたベローチェは、こういうときに限って、目当ての席がすでに取られていて、条件の悪い席にあたった。リモートの合間に、志賀直哉のことについて考えたいと思ったのだけれども、その目的は果たされないな、と思った。

動きを速めて、さっそく新潮文庫の『灰色の月・万暦赤絵』を借りてみたら、やっぱりこれは後期作品を中心にした短編集だった。昭和2(1927)年に芥川龍之介が自死したことが、大正文学の画期となっていると解説はいう。次に起こった潮流はプロレタリア文学であった。

昭和3(1928)年の2作品「豊年虫」「鳥取」から5年間ほど、志賀直哉は書かない時期があったという。この時期、志賀の父が亡くなり(1929)、義母を奈良に迎えた(1931)という。1男5女の父として、切り盛りしていかなければならない時期であった。義母を奈良に迎えた昭和6(1931)年、1883年に生まれた志賀直哉は48歳であった。

『灰色の月・万暦赤絵』に所収されている多くの短編集は、まさに、私の年齢と同じくらいに志賀が書いていったものになる。そういう意味で、『灰色の月・万暦赤絵』は、今読むに相応しい短編集なのかもしれない。

岩波文庫の『万暦赤絵』は、まだ、昭和13(1938)年に刊行された単行本をそのまま文庫にしたものなのかどうかについては、確認できていないが、新潮文庫版の『灰色の月・万暦赤絵』とは編集方針が異なっている。岩波文庫の『万暦赤絵』はむしろ、研究によって提起された画期とは別に、明治後期から昭和9年頃までの作品を集めた書籍である。

この時点で志賀は自分の人生をわかっているわけではないから、後期なのか第三期なのか、そんなことはどうでもよかっただろう。分類するのは後世の人間である。後世の人間からすると、筆を休めた5年間を含めた昭和期、戦中、戦後の作品は一つに括れるような色合いを持っているのである。

昭和31(1956)年の「白い線」という作品は、小説というよりはエッセイのようであり、古い自作を読み直すドラマを描いているようでもある。志賀の批評家寄生論も、この作品から引用されることも多い。ただ、それよりも、後世の私たちから見ると書きなぐっている感じの後期作品に、むしろ現在の自分の関心があって、若い頃の作品はもうどうってこともない、という述懐の方を面白く読んだ。

私自身の場合でいえば、批評家や出版屋に喜ばれるのは大概、若い頃に書いたもので、自分ではもう興味を失いつつあるようなものが多い。年寄って、自分でもいくらか潤いが出て来たように思うもの、即ち坂本君のいう裏が多少書けて来たと思うようなものは却って私が作家として枯渇して了ったように言われ、それが定評になって、みんな平気で、そんな事を書いている。

『灰色の月・万暦赤絵』p.274

「母の死と新しい母」という短編について、新しい記憶と日記のテキスト、そして、付け加わった加齢による感慨の変化が書かれていて、ドラマのような小説ではないが、記憶、記録の組み合わせで、一つの作品を構成しようとしている面白い作品だと思った。

教科書などに文学作品が紹介される場合、当然のことながら読むのは青少年なので、夏目漱石にしても芥川龍之介にしても志賀直哉においても、暗い、重いということで忌避されるのは当然と言えば当然だろう。私はそんな晩年の作品を好んで掘り起こしていたような気がする。志賀直哉の『灰色の月・万暦赤絵』は当時からして絶版で、古本屋で買ったものがとても汚かったので読まずに書架に放り込んでしまっていたが、今図書館で借りたものを読むと、なんとも味わい深い。

素直にありのままを書く事、が志賀の文学理念だったと思うが、「白い線」は、「母の死と新しい母」で書いた実母の死について、65を過ぎて思ったことを上書きしたような小説である。この「白い線」とは、ぞうきんがけをする実母のふくらはぎに「線状委縮」の跡があったという記憶であるが、そうした「ありのまま」の記憶を、この時点で頭の中から引き出して書いている志賀の観察眼は、やはり面白い。

素直にありのままを書く、というのは、話を都合のいいように脚色しないということもあるだろうが、見たものを見たままに書くという科学的観察の実践でもあるだろう。見たものを見たままに書くと、それは案外グロテスクで、奇怪なものになるだろうから。

最晩年の創作を確認するために、『志賀直哉全集 第4巻』も借りてみた。4000円くらいで全集がオークションで売っているから、それを買っても良かったが、騙されてもシャクなので図書館で借りた。誰も借りるものがいないのか、大抵はキレイである。

少子化になれば、これだけ充実している図書館も、維持費が出なくなるだろうし、そうなったら、デジタル化か縮小、読まれない本は廃棄になるだろう。志賀直哉全集は如何。これだけキレイな全集だと、借りられているわけではないから、いずれは廃棄となってしまうのではないか。それでは残念なので、借用実績をつくってみた。

それにしたって全集本は重い。

狭い家に志賀直哉全集のスペースは無いよね。残念ではあるが、世の中の趨勢でもある。



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