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100年前の ある挿話_7_世に放たれたNo.5  (完結回)

1_彼女の希求

100年前の ある挿話_1_彼女の希求|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

2_化学者のジャスミン

100年前の ある挿話_2_化学者のJasmine|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

3_特別な香り

100年前の ある挿話_3_特別な香り|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

4_オークション

100年前の ある挿話_4_オークション|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

5_中世の調香

100年前の ある挿話_5_中世の調香|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

6_創られた挿話

100年前の ある挿話_6_創られた挿話|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

7_世に放たれたNo.5


CHANEL No.5

濃度が高い香水Perfumeでありながら,初めの香り立ちの強さが特徴的だ.香りにエネルギーを感じる.
かつて,ココが特別なジャスミンアブソリュートにそう感じたように.

21世紀も4半期を過ぎた.
都市には無数のフレグランス商品が溢れ,顧客は誰もがその大量の香りの中から,自分が好む香りを選ぶことができる.

webが生み出したスーパーフラットな世界に,もはやラグジュアリーは成立しない.
それはCHANELという老舗ファッションブランドにおいても例が腕は無くなっている.

陳列された無数の瓶の中から,一つを買ってはみたものの,数回使ってみると,なぜか良い香りに感じられない.
自分には合わないと感じる.
使わなくなる.
そして,次の香水探しが始まり,それは永遠に続く.

CHANEL No.5はチープな資本主義のループから外れたところに存在する.
ココの個人的な熱意,祈りにも近い情熱が込められている.
個人の熱意に端を発したからこそ,達成できた調香でもある.

ひとつのファッションブランドが供給する単独香水銘柄を,
数多ある香水の中からその高価さをものともせず,世界中の女性が繰り返し買い求めている.

ココが望んだ、女性が男性に媚びることなく自分自身を尊ぶことができる香り.
濃厚なジャスミン,媚びのないローズ.
No.5は今や香水の代名詞ですらある.
ココが金色の液体に込めた魔法。
それは、心に響く。
ほかの誰でもない、纏う人自身のための香り。

そこには,科学に裏付けされた理由がある.

あの調香のジャスミンを深く鼻腔に吸い込む時間,
怒りや不安を抱き続けるほうが難しいと気づく.

「マッチ売りの少女」にも似て,幸福な花の夢を見る瞬間はそう長くはない.
しかし,乱れ渦巻く心の潮流に,未来へ向かう整った流れを生み出すには十分だ.

香水内の成分組成に加え,「揮発性」に注目した点にその技術の秘密がある.
現在, 分子を取り扱う溶液化学で分子の揮発性を予測するには複雑系の計算を要する.

一般的には,ピネン類の柑橘系の香りに幾分遅れて香るはずの重い花の香りが,ピネン類に後れを取らず一気に鼻腔に届く.

重厚な花の香りが前面に押し出されることに因って,
軽い香りのトップ,花や草のミドル,樹脂のような香りのラスト,
という通常の順序を逸脱すると,
脳における香りの認識は特別な印象を与える.

言語化すると,陳腐な表現になってしまうが,
強いて言うなら,煌めく, キラキラする, 感じがする.

化学物質としての香りを扱う技術は
分子化学や,分子構造解析,薬理学などがまだ存在しなかった遥か昔、中世の時代から実際に存在していた.
個々の分子構造,化学挙動を除外して,当時行われたのは
アランビックを使った「分留」だった.
分留画分に対応する,感覚応答が中世の薬学の基本であった.

人間はある種の香りが精神に作用することを古くより知っていた.
その香りを求め,自然の中から取り出して,集め,保存する手法が存在した.

弱った人々を救うことは, 人の威信を集め、権力にもなる.
宗教儀式には香料が伴われる.

ココが香水の神秘を、何処まで、どのように理解していたのか.
想像の域を出ない.

*****

「やはり,これしかないわ.」
ココがそう言って,ひとつの瓶をエルネストの方にそっと寄せた.ガラスの中で金色の液体が揺れた.

「この香りに感じるエネルギーは,果たして, 誰も彼も万人に感じられるのか, その結果が分かるのは100年後なのかもしれませんね.」
「100年後,
私もエルネストもこの世からいなくなったずっと後に,
これがどんな香水であるのかがわかるのね.
私がそうありたいと願う女性がこの香りを付け, 男性の横を颯爽と進む.
女性がこの香りを纏い,幸福そうな表情を浮かべている.
そんな未来が,そんな世界が来るのかしら.」
「来ますとも.」
狂騒の1920年が終わろうとしていた.


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