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100年前の ある挿話_6_創られた挿話

1_彼女の希求

100年前の ある挿話_1_彼女の希求|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

2_化学者のジャスミン

100年前の ある挿話_2_化学者のJasmine|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

3_特別な香り

100年前の ある挿話_3_特別な香り|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

4_オークション

100年前の ある挿話_4_オークション|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

5_中世の調香

100年前の ある挿話_5_中世の調香|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

6_創られた挿話

ファッションアイコンとしてのCHANEL No5の成功は、様々な逸話で飾り立てられている。
「合成アルデヒドの調合を助手が誤って10倍の濃度で入れてしまった偶然により出来たのがNo.5.」
「ココのラッキーナンバー5に因んだ.」
「5番目の試作香水だった.」

化学を知る人間の興味を惹くのは,アルデヒドの添加だ.
もしも,逸話の通り,アルデヒドを助手が誤ったのであれば,
試作香水とはいえ,テストから除外されるのが通常である.

「誤って」,「偶然に」,「意図せず」,というフレーズこそ,
非恣意的であったことを不必要に強調することこそ,伏せておきたい何かがある意図を感じる.

印象的なエピソードを敢えて流布させることによって,
隠したい真実から目を反らせたか.


*****

「老いていくということは,
定められた運命として時とともに全身が劣化するのではなく,
精神や心の状態が人を老いさせるのね.」
ココは溜息を洩らした。
そうして,彼女の周囲にいる老いを感じさせる人物たちを思い描いた.

ココと顔を合わせるなり,旦那のだらしなさを愚痴るミッシェル婦人.
交通事故に遭うことを恐れながら,常に前かがみに肩を顰めて通りを歩くナタリー.
彼女たちはココの年齢よりも10歳以上若いはずだが,額に浮かぶ深い皺や青ざめた目下は,年齢とは関係なく老いを感じさせていた.

「マダム,柑橘やラベンダーの香りの効果を思い出して下さい.」
「沈んだ気分を和らげ,リフレッシュさせる.」
聡明なココは淀まず答えることができる.

「そうです. 心の中に渦巻く 乱れた流れを,一旦,フラッシュアウトする.
そうすることで,移ろい変わりゆく心の流れを,その先へと導く.
つまり, 香りというものは,その性質に応じて,不安に捉われた心を開放することもできるのです.
不安や恐れは,長期に渡れば自律神経を乱し,心肺機能にも影響がでるはずです.
中世の王家や医薬師は,不安や恐れを遠ざける効果を有する調香技術をもっていた.結果的に,老いや苦悶を取り払う香りを日常に処方され纏っていた王妃たちは不老の美女と語り継がれたのではないかと,私は理解しました.」

「私が女性のための香りを創りたいと思ったのは,女性には笑顔であってほしい,不安や恐れ,耐え難い辛さや痛みを我慢することから, 自由になってほしい, そう願ったからなの.」
ココの頭の中に,これまでに自分が女性であるがゆえに受けて来た屈辱的な出来事が次々浮かんでは消えた.

「やってみましょう.技術的にも現代であればこの調香は新しい試みになるはずです.」
エルネストは立ち上がった.
窓ガラスに映るココのシルエットから,イメージできる香りを想像した.

とはいえ,1920年を前に、ココの目指す香水の調香は難航していた.
エルネストがラボに深夜まで籠る日も少なくなかった.

ココが心酔した, かのジャスミンアブソリュートは, グラースの生産家が自家製で製造しているもので,量産は難しい.
既にジャスミン畑全体が枯死に至った以上,将来的にも継続的な安定供給は望めない.

ジャスミンの品質に多少ブレが生じたとしても,
それをもカバーできる相性の良い柑橘を探し出すことは必須だった.

「あの,奇跡のジャスミンアブソリュートが使えない以上,それに代わって,通常の大量に手に入れることが難しくないジャスミンの香り立ちに勢いを付ける必要があります.
ブースタ―効果のある香料,つまり揮発性の高い上質な柑橘(シトラス)が必要なのです.」

エルネストは,液体香水からの揮発に柑橘のブースター効果がどのように影響するのかを,考え続けていた.

ココが競り落とした古文書に記載されている内容を読み直す.

どのように精神的効果をもたらす調香が可能だったのか.
古文書の字面だけを追えば, 
香料を採取する木を指定し,採取の方法を細かく記したその手続きは,
あたかも呪(まじな)いのようで,一見,科学とは言えない.

しかし, 実際のところ, それは深い観察と経験の積み重ねが生んだ科学だったのだ.

ある,特別な木に実る柑橘には,天然にして最良のブースター効果を生む成分に富んでいたのだろう.
突然変異か,その生えた場所の環境に因るのものなのか.

「単独では香り立ちの弱い香料をシトラスの勢いに乗せて香り立たせるというものです.
しかし,強いブースター効果を期待してシトラスを強めると,
どうしてもフローラルがその後ろに遅れてしまいます.
トップ, ミドル, ノートが途中の断絶なく長い時間をかけて香りに流れができるのが理想なのですが.」

あのエネルギーのあるジャスミンの香りの特徴を真似て,
継続的に入手可能なジャスミンアブソリュートをさらに鮮やかな香り立ちにするには,
柑橘の高い揮発性の助けを借りるしかない。
しかし一方で,勢いよく飛び出すレモンやマンダリンと,ジャスミンとの間にはギャップがあり,濃度を工夫してみたがその間がどうしても埋まらない.

エルネストは,重いジャスミンの香りが, 単純に柑橘の香りの軽さに押し出される,
ということではなく, 液体の中での成分の動きについて思いを巡らせていた.

瓶の中の液体から,気体の香りとなる揮発のスピードを上げる.

そして, 脂肪族アルデヒドの効果に思い至る.
丁度その頃, 脂肪族アルデヒドは化学的に大量合成できる工業原料の一つになっていた.
化学合成された脂肪族アルデヒドは安定的に入手可能だ.

脂肪族アルデヒドはもともとレモンの果皮の分留から得られる成分のひとつである.
しかし,酸化しやすく,熱に弱く,果皮から採れる収量も通常は多くはない.
アルデヒドそのものは, 鼻腔に残るワックス様の匂いをもつが,良い香りという印象は無く,単独で香料原料になることはない.

合成アルデヒドを調香に加えることが,
天然香料分子の複雑な混合物に対し,
何を意味しているのか,化学者であるエルネストは気付こうとしていた.

天然香料分子は,アルコールに溶かした液体の中で
分子ひとつひとつがランダムに分散しているのではなく,
化学性の似た分子同士は引き合い,分子レベルの塊を作っている.
大きな分子の塊ができている状態は, 香りの分子が液体から空気中に飛び出すのを妨げ,
結果,香り立ちは弱くなる.

例えば,素晴らしい花々の香りを単に混合濃縮した液体があったとしても,
それを香っても濃縮した花束の香りはしない.
悪くすれば, 何も香らない液体のままだ.
これは成分同士の結び付きが強く(親和性が高く),空気中に分子が出られなくなっている状態である.

一方,脂肪族アルデヒドの添加は,香料分子間の分子間結合を弱める.
液体中の大きな塊となっていた分子がバラバラになれば,
揮発性が増す.
結果,香り立ち弱かった分子の,香り立ちは鮮明になる.

単独では,香料としての役割を担うのが難しいアルデヒドは
他の天然香料と混ざった際には, ブースター効果を生むことでその香りとは関係のない驚く効果を生む.

柑橘から採られた天然香料ではなく,
その成分のひとつであるこの脂肪族アルデヒドのみをジャスミンに加えるとどうなるのか.

早朝の夢の中でその可能性に思い立ったエルネストは,いても経ってもいられず, あっけにとられる家族をよそに,食べかけの朝食もそのまま家を飛び出しラボへと向かった.



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