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100年前の ある挿話_5_中世の調香

なぜ、香りに心動かされるのか
100年前の彼女の挑戦と冒険
100年後の今でも、私たちはその香りに魅了される


1_彼女の希求

100年前の ある挿話_1_彼女の希求|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

2_化学者のジャスミン

100年前の ある挿話_2_化学者のJasmine|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

3_特別な香り

100年前の ある挿話_3_特別な香り|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

4_オークション

100年前の ある挿話_4_オークション|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

5_中世の調香

秘密の調香レシピが記されていると思しき,メディチ家の古文書を解読するために,
ココはもちろん、エルネストとその助手たちも駆り出されることとなった.

そしてようやく、フランス王アンリ2世に嫁いだ、メディチ家 ロレンツォ イル マニーフィコのひ孫にあたるカテリーナの名で知られるカトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis(1519-1559)の従妹、メアリーのための香水の処方と考えて間違いない,という結論に至った.

イタリアの香水とメディチ家の関わりは深い.
カテリーナアンリ2世のもとに嫁ぐ際には,
サンタマリアノヴェッラが調合した香水を持参したとされる.
1533年のことだ.
その香りは「王妃の水」と名付けられ, その処方が現代に受け継がれている.

元々, ココが想定していた装いの仕上げとして纏う華やかなファッションフレグランスとは一線を画し, メディチ家のために調香されたそれは
自分一人が静かに包まれるための香り.
「王妃の水」はベルガモットの柑橘やハーブが薫る,瑞々しい庭園の中に佇んでいる感覚をもたらす香水である.
「王妃の水」は, ココにとって, どこか古めかしい老女を想起させた.
確かに、心を鎮める香りであることは間違いないのだが。

経験を積み, 思慮深く, 人の行いの背景にある深淵を知る, 知識を皺に刻んだ老女.
その香りは, 不安を鎮静させ, 安眠に導く効果があるという.
異国に嫁ぐ若すぎる妃たちの不安や,家族と離れる寂しさを,故郷の庭園を思わせる香りが癒したのだろうか.
従妹のメアリ―のために創られた調香レシピとされる古文書の内容も,
おおよそ王妃の水に倣ったものだった.

「特別な香料原料でも使うのかと思っていたわ. 中国の山奥の幻の苔とか青い花とか.」
翻訳のメモを見て, 期待を裏切られたと言わんばかりにココは呟いた.
ベルガモットを中心とした香水が,沈みこんだ心をリフレッシュするであろうことくらいは, 最早ココにとっては秘密ともいえず, 想像には難くない.

一方, エルネストは難しい顔を崩すことなく、メモを睨み続けていた.

「マダム, 私たちは決定的な思い違いをしていたのかもしれません. 
おっしゃる通り, 単なる鼻で感じる香りではなく、心に触れる香りの鍵は
原料植物の種類というわけではないようです.」
「どういうことかしら.」

「この古文書にあるものは, 確かに, 単なる調香のレシピに過ぎません.
しかし, 目指すところが我々が知る香水ではない.
薬師であったメディチ家ならではの, 薬効にのみ期待した処方です.」
「ええ, ここにある柑橘の香りは,確かに気分の落ち込みを改善させるかもしれないわ.」
「ここには調香レシピではない, 他のことも書かれています.」
「何なの.」

「原料の集め方です.」
ココはエルネストの意味することがにわかには解りかねた.
「マダム, あのジャスミンで感じられた香りのエネルギーを思い出して下さい.」
古文書には菜園で採取したベルガモットからの香料の処理についても書かれていた.
一見、その注釈はあくまで付け足された情報にすぎないように見える。

***西の菜園の奥のベルガモットの木.
夜明け前,夜露に濡れた堅い果実の皮を集め,冷たい温度に保ったまま,精油成分のみを抽出する.***

エルネストはその一文を指さし, 読み上げた。
「おそらくこれは, 何処か別の場所に生えているベルガモットの木から収穫するのではだめなのです.
ここに記されているのとは別の処理, より合理的で簡便な手続きで香料を抽出してもいけない.」
「それは, 一体何を意味するの?ベルガモットは, 何処で採れようとベルガモットなのではないかしら.ここに書かれていることは, 私にはただの非科学的な中世の迷信上の手続き, 呪(まじな)いにしか思えないわ.」
「そうとも言えません.
私たちは今, 化学を知り, 分子を知っていますが,
しかしまだ, それだけなのです.
植物と動物の間の関係では, まだ知らないことの方が多い.
一方で,分子などがまだ発見されていなかった頃, 中世の技術は, 理屈を通り越し, 理屈に惑わされずに自然界の本質を捉えようとしていた.
見方を変えて下さい.
ここに書かれているのは,香りの抽出法ではなく,これはエネルギーを集める方法です.」
「単なるベルガモットの香りではないという事?」
「おそらく,そうでしょう. マダム, 貴方がラボで嗅いだあのジャスミンに感じられたエネルギーの理由です.」
鼻に届いたあの香りは,私を電撃的に現実とは異なる世界に移した.
ジャスミンの香りであっても, 他のジャスミンではだめという事か.
「もっと具体的に言いましょう.
たしかに, 我々は,香りを魔術的に取り扱うのではなく,より具体的に現代的に取り扱う必要があります.私は,薬師ではなく,現代の調香師ですから.」
そういってエルネストはさらに古文書の解読を続けると言った.

ある種の抽出香料は,通常は香り立ちが弱い花本体の香りの成分が,どういうわけか,強く香り立つことがある.
それは,原料が育つ土壌や,環境,植物そのもの,によって変わる.
その点では,葡萄とワインの関係に近いといえる.

「単にどの植物の花から香りを得るのか,というだけではなく,原料の質が大事ということ.」
「その事実が示唆するのは,」
エルネストは言い難そうに言った.
「商品として量産はできないという事です.」
ココは納得し、頷いた.
特別な原料のみでしか創れない,心を刺すような驚きを有する香り.
一度身に纏えば, 2度と手放せなくなるような香り.
それは私たちに力をくれる.
仮面を外した後の,自分らしさを思い出させてくれる.
「ねえ,もう少し教えて. レモンやベルガモットのような香り立ちの強い柑橘(シトラス)が,不安を取り去って気分を明るくさせるのなら,
調香などせず,それだけ、そのものを香りとして薬にすればいいのではないかしら.
何故敢えて,ほかにも数種類の香料を混ぜるのかしら.」
「国立図書館にある, 古文書が書かれた当時の文献をいくつか探してみました.
まだ分子や揮発性などの化学は知られていない時代の事ですから,経験的な抽出物質の話になりますが.」
そう断って,エルネストは続けた.
「もともと香り立ちの高い柑橘(シトラス)や,花の香りを抽出する際に初めに香り立つ成分,つまり初めに鼻に届くトップノートは,人の意識に強く作用します.意識は言葉や,記憶となりうるエピソードを編みます.」
「しかし,トップノートの力は一瞬で過ぎ去ってしまう.その先が必要です.」
「それが花やハーブの香りということね.」
「その通りです.
それらは,柑橘に比べるとやや揮発性の劣る香りです.柑橘が作用し,ストーリーを編めるようになった脳に花やハーブが来ると, 次は意識にすら上がらない,根源的な好き, 嫌い, といった感情的な,
そう, 自分でも何故好きなのか嫌いなのか言葉ではうまく言えないような好みを司る部分を刺激する.」

ココは一言も漏らすまいと、エルネストの言葉に耳を集中させた。

「さらに, 揮発性がさらに弱く,むしろなかなか揮発せずに長く肌の上に残り香り続ける重い成分がある.ラストノートです.
これが,人間以前の,生命としての活動を司る,脳の最も奥深い,原始的な神経を刺激する.」
「その順番が重要なのね.トップ,ミドル,ラストノートの香り方自体は,自然界に咲く,花の香り方とも似ているかしら.花開き,爽やかな香りの奥に,花が秘める香りがあって,さらに最後には大地から生まれてきた力強さが広がっている.」

エルネストは,限られた手がかりから自分の中で理解を深めようとするココの聡明さに感心しつつ,大きく頷いた.
「私が手に入れたジャスミンは,奇跡的にそのアブソリュートがトップ,ミドル,ラストノートを絶妙なバランスで含んでいた.そうすると,あのような感覚への強い作用があります.」

「あの時,幸福感を感じたの.
たとえ、目の前には,厳しい,難しい現実が横たわっていても,あのジャスミンの香りの中には,いつでも戻れる自分の心の故郷のような,安心できる場があった.」
「脳の最も奥深い,生命を司る部分に揮発性の低い,重い成分が作用する,というのは,海や水生動物から始まった動物の脳の進化の段階と,その時に我々の祖先の感覚がどんな香りの成分を捉えながら生き延びて来たか,を考えると腑に落ちます. 
逆に,柑橘のトーンの高いトップノートは,進化の果ての人がもつ,複雑な心情にこそ作用するといえます.柑橘の果実が心を司る脳神経に流れをうみだすことで,心に渦をつくり停滞していた拘りや不安を一旦消し去ります.そのうえで,心地よいと感じられる花やハーブの刺激があり,それは,
生命を脅かす危機が迫っておらず,人が生きることが自然界に称賛されているというメッセージです.最後に,自然界から贈られた安心感が違和感を抱かせることなく,ラストノートとして呼吸や心拍という意識外の自律神経に送られる.まるで猫の背を毛並みに沿って撫でるかのように脳神経を香りで撫で,波を送るのです.」

「何という事なの!現代の香水の世界に、そんなことを考えている調香師がいるかしら.」
「あくまで,中世に研究されたことです.現代の化学者にとってみれば,錬金術や魔術と紙一重の技術ですよ.」
「中世において,人の病を癒す技術をもっているということは,それだけでも直接権力に繋がったでしょうね.」

「カトリーヌドメヂィシスは不老の美貌を香りの力で手に入れていたと言います.」
「香りでそんなことが可能になるの?」
エルネストは慎重に言葉を探しながら,ゆっくりと話しだした.
「中世の文献を調べました.若返り,というのではなく,逆に何が人を老いさせるか,という点が調べられていました.」
「老いの原因.」
「そうです.」
「慢性的な運動不足, 或いは、なにか病を得たり.
炎天下の中、農作業をし続けている人は皺が多いし,街で暮らす人よりも,身体が老けていると思うわ.」
ココは身の回りにいる年齢よりも老けている人たちを想起した.修道院にいたシスター.
ブティックの顧客であった背中の曲がったメアリー夫人は,自分より年齢が若いと知った時には驚いたものだ.
「そうですね. それもあるのかもしれません.しかし,何より.」
ココは秘密を語るエルネストの口に惹きつけられ身を乗り出した.
「怖れ,怒り,不安とありました.」

「身体より精神,心の状態によって人は老いるのね.」
溜息が出た。

「柑橘やラベンダーの香りの効果を思い出して下さい.」
「沈んだ気分を和らげ,リフレッシュさせる.」
「そうです.心の中に渦巻く乱れた流れをフラッシュアウトして,整った流れへと導く.つまり,不安に捉われた心を開放する.結果的に,老いる原因から遠ざける,という事なのではないかと,私は理解しました.」




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