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100年前の ある挿話_3_特別な香り

100年を経たCHANEL No5 
新たな考察

なぜ、香りに心動かされるのか
100年前の彼女の挑戦と冒険
100年後の今でも、私たちはその香りに魅了される

1_彼女の希求

100年前の ある挿話_1_彼女の希求|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

2_化学者のジャスミン

100年前の ある挿話_2_化学者のJasmine|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

3_特別な香り

エルネストのラボで出会った,グラースの最上級のジャスミンアブソリュート.
ココは新たな香水に何としてもあのパワーを取り込みたい,
その決心は揺るがないものの,
実際にはその後の香りの構築法を生み出すことができず, 途方に暮れていた.

___「とてつもないエネルギーを放つ香りです.」
エルネストはあのジャスミンアブソリュートについてそう言った.
香りのエネルギーとは, 一体何なのか.

エルネストが香りのパワーと呼んでいるのが単なる鼻へ届けられる香りの強さのみを指しているのではないことは,
次第にココにも理解できるようになっていた.

ココはエルネストのラボに入り浸り,
棚に並んだ褐色ガラス瓶の中から香料原料となる幾種類ものレジンやアブソリュート, エクストラクト, コンクリートやそれらを薄めたものの香りを試していった.

調香前の香料原料.
調香に用いられる前のそれらの中には, 他の香料と混ざること無しに, そのもの自体で香水として完成されており, 調香の必要すらないと思える香りもあった.

なかでも
フローレンス産のムスクマロウの抽出物
グラース産のナルキッソスアブソリュート
は特にココの興味を惹いた.

しかし, あのジャスミンアブソリュートに匹敵するエネルギーがある香料原料は,100近い香料原料を試したものの見つからなかった.

香りのエネルギーとは?
初めてあのジャスミンアブソリュート嗅いだ時, 
ココの目の前にあった現実は一瞬にして, 記憶と想像の世界へと切り替わってしまった.
心の奥底で埃をかぶっていた情景に,突然光が差し込まれたような感覚.
香りが鼻を通り抜けて,心に突き刺さってしまった.

あの経験は,一体何なのだろう.
あれが香りのエネルギーとでもいうのか?

悩んだ末, ココはあのジャスミンアブソリュートのみの単一のフローラルでもよいのでは, とも考えた.
それほどまでに,あの褐色瓶のなかのジャスミンアブソリュートを気に入っていた.

しかし, エルネストは,それが不可能であると語った.

「マダム. 新たな製品としてあのジャスミンアブソリュートを使うには問題があります.
あれは, 非常に特殊なサンプルなのです.
あれきり,なのです.
つまりあの香料が得られたジャスミンの畑は,もうありません.」

「もう,あの香りは手に入らない,という事なの?」

「そうです.
あのアブソリュートを創った花が咲いた年は, いつになく強い香りが畑のあるグラースの丘一体に漂ったそうです.
花もこれまでになかったほどに大量に咲いた.
そして, 花が終わった時,畑のすべての株が一斉に枯れたそうです.」

「何故? 一体, 何があったの.」

「農家の話では, おそらく畑一体の株が病害虫か何かに侵されたのだろうということでした.
30年ほど前に一度だけ同じことが起きた.
やはりその時も, 枯れる直前の株は大きな花を大量に付け, とてつもなく強く華やかな香りが放たれていたそうです.
もともとその畑では, 例年, 通常の他のグラース産ジャスミンと同じグレードの香料を生産していました.
予見できないことでした.
畑全体で株が枯れるなどというのは突発的で,破滅的な事故の様なものです.」

「枯れてしまう直前に咲いた花の香りにしか, あのエネルギーがないというので.」
「あのジャスミンについてはそうです.
植物として,その危機的だった状況が香りに影響したのは間違いないと思います.
しかしだからといって,あのエネルギーのある香りを採るために,毎年,ジャスミンの畑全体を人為的に枯死させることは, 原因も良く分かっていないため不可能です.」

「そうね.」
ココは息を吐いた.
奇跡的なエネルギーをもつ香りを花が生み出す背景には,その元株の枯死という危機があった.
その植物としてのメカニズムがどういったものであったのか,
ココには知る由も無かった.
気に入った香料さえ見付けられれば,すぐに香水を創ることができる, などという安易なものではない仕事に取り組んでいることを思い知った.

特別な香りは,やはり,特別なのだ.
誰のどんな鼻にでも,届くというわけではないのだ.


その日, 秋が近づくパリの空は高い.
頭上,遥か遥か遠くにその向こうまで抜けそうなほどに空は碧かった.

リッツのテラスでエルネストと話すココは, コーヒーカップを挟んで教授と議論を白熱させるソルボンヌの学生にしか見えなかっただろう.

エレガントなツイードを纏いながらも,その好奇心に満ちた瞳は,
何処か,見知らぬ土地への冒険を止められない少年っぽさすら感じさせた.

「教えてほしいの.
エルネスト, 貴方が“エネルギーがある”, と言ったあのジャスミンの香りには, 私にも同じように“エネルギーがある”,と感じられたわ.
つまり,あれは単なる私の個人的な感覚ではなく,誰にとっても同じように感じられるのかしら.
なぜ,エネルギーのある香りと,そうでもない香りがあるのかしら.その違いは何なのかしら.」

「マダム,とても深い,香りの秘密にお気づきですね.
ただ, 残念ながら, 香りのエネルギーを誰でもが,万人共通に,感じられるという点は,いささか違っているかもしれません.
これまで多くの顧客に調香をしてきた私の経験に基づく,あくまで個人的な感想ですが.」

「あのジャスミンアブソリュートのエネルギーを,感じられない人もいるというのね.
とても知りたいの.
香りのエネルギーの正体は一体何なの?」

「生まれつき,香りのエネルギーを感じられるかどうかが人に因り決まっているのではなく,
ある種の人たちは,香りのエネルギーを“感じられない状態”になっている,のかもしれません.
なぜなら,それまで香りのエネルギーを感じられなかった人が感じられるようになったりなど, 感覚が変わることがあります.
残念ながら,その逆も.」

エルネストはあくまで私見であるということを断り,続けた.

「香りは現代のようにファッションの一部です,
しかし,遥か昔から,中世では薬として研究がなされてきました.」

「薬?香りを飲んだりしていたの?」

「今,香料の原料になる植物などのいくつかは,例えば飲むためのハーブウォータなどとしても知られていますし,食べ物や飲み物への香り付けが,薬効を期待している部分もありました.」

「西洋(エルボステリア)漢方薬局にあるハーブティーのような事かしら.」

「はい, マダム. ハーブティーは煎じ薬の一種でしょうね.
今 問題にしたい香りの薬効というのは,今のエルボステリアにあるハーブティーや,ラベンダーやミントの精油の香りの薬効ともやや違う.」

「どういうことかしら.」

「マダム,中世の昔,心に作用する薬が必要だったのはどんな人であったかわかりますか.」

「心に効く薬ということかしら? 
今は,誰もが明日を憂いて,心を痛めて病んでいるんじゃないかしら.恋人からの連絡がない.愛する異性に想いが届かない,というのもあるわね.」
ココは自分の周りの友人たちを想像していた.
彼女たちは常に,心の痛みを訴えながら,その週にあった事を夜な夜なアルコールとともにテーブルの上に並べるのだ.
その晩の空騒ぎのためのつまみとして.

「確かに, 愛にまつわる心の痛みというものはあります.
しかし,それは現代ゆえのこと.
中世,普通の市民は,農耕や牧畜で暮らしていましたが,十分な食べ物を得るのにも事欠く時代です.
多くの人々は,心を保つ前に,身体を保つ必要があった.
今日,今を生きることに必死だった.
民衆の誰もが,明日を憂う,ようになったのは,
現代の都市の,資本主義経済のなかで,
稼ぎさえすれば,食べることに困らない贅沢になったが故の,病でしょうね.」

「中世のことなんて,考えもしなかったわ.
それで,じゃあ,中世に心を痛めていたのは?」
「食べるものに困らなかった贅沢者,恋愛などに心を痛める余裕があった者,それは王侯貴族です.」
「なるほど.」
「しかし,食べるものに困らずとも,他国との領土の争い,王位継承,政略結婚による他国への移住,成就しない恋愛,王侯貴族の中では心を病むような悩みは尽きなかった.」

「それを香りが癒したというの?」
「かの時代は今のように,薬を含めあらゆる物資は極めて限られていた.
基本的に, 病は祈りで治すものでした.
ですので, 人を癒すことを使命にしていたのは,当時は,教会であり,修道院です.
そのうえで, 病を癒すために,身の回りにある使えるものは,あれば何でも使おうという努力があった.
その過程で, 香りが人の心に作用し,時として薬効ともいえる癒しの効果があることに気が付いていた.」

「20世紀の今,私たちが実験室で探ろうとしていることを,中世の修道院は既にやっていたという事?」

「その通りです.中世の時代,なにより今のようには物が無く,品質の消毒薬も鎮痛薬も存在しない,という環境がそうさせていました.」

「その中世の修道院の香りの研究成果は,何処へ行ってしまったの?」

「産業革命以降,物が増えました.
お金があれば医療も薬も手に入る.
逆に,中世の自然が近い暮らしの中では容易に手に入り,この都市の環境では手に入らない天然の植物は多い.
そのような流れの中で人が世代を重ねれば,時代遅れで貧しい,中世の技術など,忘れ去られてしまいます.
非科学的だとか,魔術的迷信だとか.
そう呼ばれているものの中に,中世の知恵が含まれているのかもしれません.」

そしてエルネストは,化学者という立場を嘆くように,言った.

「今私たちは,化学という切り口で香りの秘密を暴いてしまった.
分子だとか,揮発性だとか.
その代償として,中世の技術の秘密を失ったのです.」

「中世には,香りが心の病を癒していたのね.」
「はい.王侯貴族のための,特別な方法です.
誰もができることではなく,専属の祈祷師同様に,調香師がいたのだと思います.
香りを得られる植物も限られる.
植物ばかりは,王族の金の力だけで量産できるというものでもない.
ですから,香りは特別なものです.
そして,特秘なものでもあった.

「薬は時として,使い方次第では毒にもなりますから.」

修道院が知識を蓄積し、王侯貴族が求めた、それこそがエネルギーのある香りだった.

そしてそれは, 簡単には手に入らない.

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