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100年前の ある挿話_2_化学者のJasmine

なぜ、香りが精神に作用しうるのか。
謎解きのための、100年前の彼女の冒険。
100年後の今も、私たちはその香りに魅了されている。

1_彼女の希求

100年前の ある挿話_1_彼女の希求|調香師 山人ラボ sunyataperfume (note.com)

2_化学者のジャスミン


第一次世界大戦の恐怖が過ぎ去った、パリ。

新しいものと古いものは、乱雑に混じり合っていた。
混沌の中、歓喜も、悲壮も、汚いものも、奇麗なものの、何もかもが人々の興奮に繋がった。

ドアを開けると、混雑するレストランの喧噪が溢れる。
白いクロスのかかったテーブルを、右へ左へ避けながら、ココとディミトリ公は店の奥のテーブルへと案内された。

ディミトリ公の白いリネンのスーツ。
その腕に手を添えて、ココが店内を歩けば、嫌でも人の目を引く。

ディミトリ公の優雅な身のこなしはどんな場所であっても揺るがない。
埃と煙にまみれくすんだこの街で、彼のいる周りだけは、重厚で広大なロシアの宮殿の空気が漂う。
彼の愛人でいることは、ココにとって優越感でもあり、同時に何か重い歴史を背負った気分にさせた。

私たちをみとめて、奥のテーブルから立ち上がったのは、
実直そうなあまり背の高くない男だった。
「初めまして、マダム。」

そう言って、ディミトリ公の調香を請け負う調香師、エルネスト・ポーは、ココの差し出した白いグローブに覆われた手の甲にキスをした。

ディミトリ公は、ごく簡単に、ココにエルネストを紹介した。

今夜、ディミトリ公が紹介してくれるのはロシアの化学者だと聞いていたココは、気難しい老人と同席する覚悟を決めていたが、その想像は外れた。

ラボコートではなく、タキシードを纏った目の前のエルネスト・ポーは、清潔感のある紳士だった。

ディミトリ公が、自分の調香師であり、化学者でもあるエルネスト・ポーをココに引き合わせた目的は、
彼女の香水創作への熱を煽るためではなく、冷ますためであった。

ここしばらく、ココは憑り付かれたように、香りの事ばかりを話題にする。

ディミトリ公が纏っていた香りは、ココの気に入りだった。
ふと気が付くと、ココがディミトリの服に鼻を近づけ、密かに鼻を動かしている。

それは、あまり品の良い行為には見えず、ディミトリ公しばしば、クンクンと鼻を動かすことをやめるよう、視線を送ってココを諭した。

ディミトリ公が好んで纏うのは、ロシアを発つ直前に、母国で最後に創らせた香水だった。

パリで同様の香りを求めることは困難で、香水瓶に残った、限られた量を少しずつ使うようにしていたが、それも、ついに底を尽く。

求める香りを調香できる調香師はなかなか見つからなかった。
何人もに香りを創らせ、腕の良い調香師を探し続け、ようやくディミトリ公の満足する香水を納品した調香師が、
エルネスト・ポーだった。

帽子や洋服などとは違い、香水は、これまでに何の経験もない素人であるココが、一から好きなものをデザインし、創り出せる程、単純なものではない。

ディミトリ公は、自分がそのようにココに直接諭す代わりに、
実際の調香師と引き合わせ、その難しさを正確に説いてくれたならば、さすがに自分で香りを創るなどということが現実的でないことをココも理解するだろう、と考えた。

しかし、ディミトリ公はその晩のテーブルで、自分がココのパッションを甘く見ていたことを知る。

ディミトリ公とエルネスト、ココの3人で囲むディナーのテーブルで、
料理が進むのは耳だけでしか会話に加われないディミトリ公だけだった。

矢継ぎ早に香りについて尋ねるココに、エルネストが専門的な用語を噛み砕きながら、一つ一つ説明する。
ほとんど手が付けられないまま、冷めていく2人分のテーブルの上の料理。

「マダムは、香りについてよくご存じでいらっしゃる。」
エルネストは、半ば呆れるように言った。
「ええ、花を蒸留して初めに得られる香料がトップノート、中盤がミドルノート、終盤に残るのがラストノート。肌に最後まで残っている香りがラストノートね。Enfleurage(アンフルラージュ)で採れる香りは、そのうちのどれに当たるのかしら。」
「はい、Enfleurage(アンフルラージュ)は、蒸留とは違い、実際に花から香る成分だけを取り出し、蒸留液中に含まれるような雑味がありません。どれくらい続けるかにもよりますが、概ね、トップからミドルノートが混ざった状態の香料原料が得られます。花そのものにかなり近い香りの抽出物になります。」

香水の創作は、素人である自分の手には負えない、とココが投げ出すと考えていたディミトリ公の目論見は外れ、エルネストという新たな教師を得たココは、香り創りの世界に、さらにのめり込んでいく。


数日後、ココはエルネストの勤める会社のラボに招かれた。

エルネストのオフィスでありラボであるという部屋の扉を開けると、ありとあらゆる香りが混ざり合った独特の強い匂いが立ちこめていた。

ココは思わずハンカチを鼻に当てた。
しかしそれは、吸い込むには有害なもののようでありながら、一度嗅げば癖になりそうな匂いだった。

ラボベンチの上にはガラス器具や分留器が雑然と並び、
棚には無数のメモが貼り重ねられている。

これから私が香水を生み出そうというゆりかごは、
華麗で贅沢な香水のイメージとはおよそかけ離れた、薄暗い化学実験室だ。

そこで何よりココが目を奪われたのは、棚に並ぶ無数のガラス瓶。
こんなにも、香料のための原料があるならば、確かに、何をどう調合してよいのか私ひとりでは見当もつかない。

エルネストは根気強く、ココが創りたいという香りについて、
インタビューを続けた。

「マダムのお望みはよくわかりました。古典的なフローラルではない、自立した女性のイメージで、けれども十分フェミニンでもある香り。なるほど。

実は最近は、これまで男性が纏っていた香りを、少々女性的に創り替えるという手法で、フローラルではない女性の香りが流行り出したのですが、お試しになりますか。」

エルネストは二つの香水瓶をココの前に並べた。ひとつは1882年にHoubigant(ウビガン)社が創作したFougere(フゼア) Royale(ロワイヤル)。

注意深くガラスの蓋が開けられ、ムエットの先を浸して、エルネストはまず自分の鼻で試し、それをココに手渡した。

ココが目を閉じて香りを吸い込むと、これまでに出会い、別れていった幾人かの男性の姿が思い出された。
シャワー後のローション、整髪料、化粧水として、幾度となく嗅いできた香り。

「フゼアラベンダーやベルガモットは、甘くリラックスされる香りだけれど、奥に微かな苦みとメントールのような冷たさが鼻に残るわ。
オークモスには、深い森の中にいるかのような、湿った暗さを感じる。」

エルネストはもう一つ別の瓶を取り出した。
「もうひとつが1917年にFrancois Cotyが創作したChypre(シプレ)、こちらです。」

オレンジ色の液体が揺れるガラス瓶の蓋が開くと、真っ先にココの鼻に届いたのは、先程のフゼアにも似た、苦みを含む冷たさ。
その後から柔らかい花、ジャスミンやローズが感じられる。
しかし、花の香りは繁茂する緑の奥に秘められているかの如く、華麗さや甘さが前面に出ることはなく、全体には深いグリーンのイメージを残す。

「シプレが女性でも使えるように、申し訳程度にローズとジャスミンを足したかのようね。」

それを聞いたエルネストは苦笑いをして言った。
「マダムの鼻(ネ)は、既に、調香師のそれです。」

「女性が纏うからには、フェミニンな香りであってほしいの。
優雅で淑女(レディ)な香り。
無理な背伸びをして男性と対等に、威張って振る舞うわけではない、ただただ、女性が自分らしい意志をもって、行動が自由であることを後押しするような香りにしたいの。」

「左様であれば、フローラルというのは不可欠だと思います。
それも、印象に残すためにはある程度は高い濃度でなくてはならない。
しかし、マダムがお嫌いな、ありきたりの女性が使うフローラルの香水ではいけない。
フローラルに力強い香りの立ち上りと、しっかりした残香を求めるなら、ちょっとした技術を要します。」

そう言って、エルネストはメモ紙にキーワードや簡単な図を描きながら、ココに説明する。

「ブースター効果のあるベルガモットやライム、レモン、
加えて、ラスティング効果のある重く甘い樹脂のラブダナムの力も必要かと思います。
ただ、これらはどうしても繊細なフローラルの香りを、その後ろに追いやってしまう。」

「難しいのね。まるで、気難しいシェフの創る複雑なソースの料理のよう。」

「そうかもしれませんね。シェフは皿の上でそれを完成させますが、調香のほうは、出来あがるものは瓶の中の液体でありながら、最終的には空気として纏うものです。
ソースより、さらに厄介でしょうね。」

フェミニンであり、優雅さの象徴としてのフローラルは不可欠。
けれど、何の花の香りか、すぐに言い当てられるような単純さとは違う。
かといって、何か花以外の香料を下手に混ぜたならば、肝心の花の香りは奥に押しやられてしまうという。
それでも香り立ちとしてしっかりと鼻の前に出る、パワーのある花の香りは無いものだろうか。

「マダム、これはあくまでご参考まで、というものなのですが。」

エルネストは戸棚から一つの褐色瓶を取り出した。
「先日、グラースからジャスミンアブソリュートのサンプルが届いたのですが、ちょっと特殊なのです。もし、マダムの仰るパワフルな香りというのが、このようなものであるとするなら、それはパワフルといえる香りかと思います。とてつもないエネルギーを放つ香りなのです。」

エルネストが、褐色瓶の蓋を慎重に開けると、漏れ出したその甘い空気が広がる。
その香りを目を閉じて味わおうとすると、途端に、鮮明な情景が浮かぶ。

それは、ココ自身がすっかり忘れていた、いや、思い出したくもなかった、
修道院の少女時代のこと。

聖エティエンヌの礼拝堂の裏の庭。
そこにはよく手入れされた薔薇園と薬草が植えられ、その先の、あまり広くはない果樹園の向こうに、野の花が咲き乱れる原野へと繋がっていた。

ココは、その野原で、咲き乱れる青や桃色、赤、橙色の花に囲まれることを僅かな愉しみにしていた。

その場の空気には、あらゆる花の香りが含まれていた。
花壇から溢れるように伸びる、祈りや清めのために使われていたラベンダー。
塀を覆うように伸びて、咲き乱れる薔薇の花。
色と光の中、恍惚とする。
葉の先から落ちる朝露の滴は、ダイヤモンドよりはるかに輝かしかった。

突然、これまで思い出しもしなかったそんな情景の想起(イメージ)が沸き起こったことに、ココは驚いた。
それは、一瞬だったのか、数秒、数分、数十分?
時間の流れが、変わっていた。

「原液はこちらです。」
エルネストから渡された褐色瓶そのものを鼻に近づけ、蓋を挙げた瞬間、ココは思わず、ウっと声をあげ仰け反った。

それは、ジャスミンなのか腐った前日の料理なのか、もはや何とも言い難い強すぎる香りが、暫くの間ココの鼻の奥に留まったまま、去って行かない。

「このジャスミンアブソリュートは、瓶から直接嗅ぐには濃度が高すぎます。試(ム)香紙(エット)を使って下さい。」

エルネストが試(ム)香紙(エット)を渡す。

強すぎた香りの記憶を取り去るために、ココは一旦、窓の傍で外からの風を吸い込まなければならなかった。

改めて、ムエットの先から香りを嗅ぐと、やはり、春の陽射し、白い花、薄桃色の花びらが舞う。
刹那の間、緑に包まれながらも存在を十分主張していた小さな花々、その中にいる自分を思い出す。

「これを使いたいわ。森の中で葉に覆われ隠されることのない、花。主張する花。」

「マダム。しかし、このジャスミンアブソリュートを使うには、実は深刻な問題があるのです。
しかしとはいえ、マダムの望む香りがどういったものであるのか、私には良くわかりました。」

続く

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