見出し画像

「私は文章を、書くことを愛しているのか」

ここ数ヶ月、表題のようなことを断続的に考え続けている。

きっかけは友人たちとのやり取りで、詳細は割愛するが、「こういう人は文章を愛している、愛していない」などという話が出たからだ。その場での「文章への愛があるか否か」の基準はさておき、「お前は文章を愛しているのか」と問われたら、私ならばまず「文章への愛とはなんだろう」という点につまずいてしまうし、素直に「はい! 愛しています!」とは答えられず、口ごもってしまうだろう。

さて、私はライターを生業としており、言葉を編むことで生計を立てている。もちろん文章を書くことが好きだったのがきっかけではあるが、「どうにか業務としてこなせる」というレベルに達するほぼ唯一の作業が文章作成であった、ということが大きい。加えて、記事を作るために調べものをするのも苦ではない。じゃあライターで頑張りましょうか、苦手な経理などはクラウドサービスなどを利用しつつ、どうにかやっていきましょう、という具合である。他に類を見ない輝ける感性だとか、読み手をドキリとさせる、独自の鋭い視点なんて持っちゃいない、「ちょっと作文の得意なおばさん」なのである。そんな私の仕事に対する姿勢や考え方は、下記のコラムに詳しいので、お暇なときにでもご参照願いたい。

とはいえ私にも、輝ける感性や独自の鋭い視点を以って文章を紡いでみたい、などと夢見ていたころもあった。でも、持たないものに憧れても仕方がない、やがて諦めざるを得ない現実に直面する。そこで私は、文章を通じていったい何ならばできるのかと考えてみたところ、「推しについての萌え語り」であると気づいた。文章という手段を使って自分の感性や視点を表現することよりも、人や物、場所や事柄について「これ、素晴らしいんです! 見てくださいよ!」と誰かに向けて説明している方がよっぽど楽しいのだ。これは広告ライティングに通じるものがあるな、と気づいたからコピーライターになったわけではなく、既に広告などの仕事を請け負っていたときに気づいたのだが。

つまり私はライターの仕事が好きで、おおむね楽しみながら取り組んでいるわけだが、「情報や、対象の魅力を分かりやすく表現する」ということに日頃注力しているからなのか、「LITALICO発達ナビ」などのコラムを手がける際、「良い記事を、役立つ記事を書かねば!」という気持ちになかなかなれない。というか、「良い記事を、役立つ記事を書かねば!」などと意気込むと、凡人の私は腰が引けてしまい、かえって何も書けなくなってしまうのだ。「私に面白いコラムなんて書けっこない」とごねる私をどうどうどうといなしてくれる、優秀な編集さんのおかげでどうにかこうにか仕事ができている、実に手のかかるライターである。凡人のくせに何様だと、我ながら思ってしまう。

世の中には「文章を書かずにいられない」「文章を書くことで生きている感覚を得られる」というタイプの方がいらっしゃる。彼らはきっと「文章を愛している」と表現するに値する存在であり、もはや文章と共に生きていると申しても過言ではないのだろう。翻って私はどうだ。文章の種類によっては、先述のようにごねては人様の手を煩わせ、仕事がなければ文章を書くという行為を失念するなんてザラ、アニメを観たりゲームに興じている時間の方が圧倒的に長い。そしてまた考える、「私は文章を、書くことを愛しているのか」と。

「あなたのように、文章に対しての愛情が薄く、さして文才もないようなが凡人が、なぜライターとして収入を得ているのだ」

面と向かって、あるいはインターネットを通じて、何度となく言われてきた。文章を深く愛している自覚がない凡人であることはぐうの音も出ない事実なのだが、なぜと問われても分からない(先方が、真に質問の意味で仰せているわけではないことは理解している)。それにしても、他の職業で「この仕事を愛していないのに」などと問われることがさして多くないであろうことを踏まえると、実に不思議な質問だなと感じてしまう。

三度、改めて考えてみる、「私は文章を、書くことを愛しているのか」と。

このように、うだうだと考える程度には愛しているのかな、と思う。「文章を書かないと生きていけない」とまでは思えないけれど。


この記事が参加している募集

#自己紹介

230,655件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?