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人生の休憩記録番外編①「休養に至るまで」

そもそも、休憩に至るまで、私は休む選択肢はなく、メンタルクリニックに通いながら治そうと考えていた。
子育てしながら土日も仕事、残業しなければ終わらない。追われる毎日。
普通の企業などに比べれば、残業も普通なんだろうが、子育てしながらは厳しい。
夫も通勤時間1時間。バリバリ働いているため、残業だって好きな時にはできない。

いくつもの事業が重なると、ありえないミスをしてしまう。これはおかしい。

そしてしまいには、結婚記念日まで忘れるくらい。
それほどまでに私は仕事に追われていたのだ。
さらには、私の働く部署の上司が次々とメンタルをやられていく姿をみてとうとう決意。

メンタルクリニック。最初は抵抗があった。
でも現状を何とかしたいと思い、思い切って電話をしてみた。

どこも初診は1ヶ月後。
でも受診して目の前の悩みを一個でも解決したい。

そんな想いで予約をした。
仕事の業務量が多いせいなのか、自分がおかしいのかはっきりしたかった。
私の前任も20連勤するほどの業務量なので、職場の環境も大いに原因なのだが、100%自分を責めていた。

1ヶ月後の受診までに、取り組んだことがある。
私は自分の思いをすぐに言語化することがとても苦手なので、ノートを買い、
人生を振り返ったり、箇条書きで困っていることや自分の考え、どうしたいのかを書くことにした。

人生を振り返ると、私は昔から、人と違うというところが結構あった。習い事も練習しなさいと言われても、何からしたら良いかわからず、やらずに怒られる。
提出物も期限を守れなかった。何度も改善しようとしたが、計画を立てることに対していつも苦手意識。ちょっとしたミスが多く、テストであと一点!ということが結構あった。
同じミスも繰り返してしまう。

中学校までは、バドミントン部の部長をやって、
勉強は優秀ではないが、自分の行きたい学校へは行くことができた。

高校生の時、勉強と部活動の両立ができず挫折。
新生活や部活動の環境についていけず、誰にも相談できず、
疲れ果て、勉強も追いつかず、数学は赤点。
部活も途中でやめて、何もかも中途半端になり、心を閉ざすように。学校は行っていたし、友達もわずかだが、心を打ち解けられる友達はいた。
みんなでわいわいというよりは、1人が好きで、文化祭そっちのけで映画を見に行くような地味な高校生だった。

今思えば、ADHDで新しい環境は人より倍疲れるし、部活動も盛んな高校だったので、文武両道の校風に私はキャパオーバーだったのかもしれない。

親にとってはなんでも中途半端で、部活もやめ、勉強もできないダメな娘というところだ。
世間体を気にする親だったので、そこが私は少し寂しかった。(特に毒親とも思っていなくて、そういう性格なんだと受け入れている)

また、自己肯定感の低さは誰にも負けない。テストで良い点数を取ったって親からまぐれと言われる。

親を決して恨んでいないし、4人も子育てして、必死に私たちを育ててくれたことに感謝しているが、そういう積み重ねがたまに呪縛として私にのしかかってくることがある。

大学卒業後の仕事では新卒で新人ということもあり、ミスが多いけどこうやって覚えて、何でもこなせるようになるんだと必死に某相談員として働いていた。その時はADHDという言葉はどこか遠くて何とも思わなかった。私は努力とは無縁で、そ頭も良くないからだとずっと思っていた。

結婚出産を気に、私は人生に対する考えや価値観が変わった。
もちろん結婚しなくたって、幸せだし、子どもを持たな方って無限に幸せな形がある。異性でなくても、血がつながっていなくても、信頼できる人がそばにいれば、それだけで万万歳だ。
そんな世の中で私は、娘のおかげで、小さな幸せを感じられたり、生きる楽しさを知った。


今までは他人軸で生きていたが、自分軸をしっかりもって母親として強く生きたい。夫と協力しながらも、自立したいと思うように。
娘に恥じない生き方を、人生楽しいとイキイキしている背中を見せたかった。

自分のモヤモヤを一個ずつ解決して行こう。その想いで今までの人生で疑問に思ったことなど、ひたすら書いた。自分が自分をおかしいと思うこと。精神的に辛い時の、体の症状も。

…続く。

☆備忘録ギャラリー
先日、某水族館へ行き娘に一眼レフカメラを持たせてみた。
娘カメラマンによる水族館。娘視点の生き物達。
子どもの感性に毎回驚きと感動をもらう私。

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