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漫画みたいな毎日。「水風船の受けとめ方。」

水風船の受けとめ方。

え?水風船を受けとめるって?

そう思った方もいらっしゃるだろう。

受けとめるのだ。
柔らかな薄い膜で水が包まれた風船を。




先の日曜日。幼稚園でレクレーションが行われた。
我が家の子どもたちの通う幼稚園では、〈レクレーション〉とは、まあ、わかりやすく言えば《練習のない運動会》である。

そのために一切練習をすることはなく、その場で子どもも大人も楽しめるゲームをして過ごす日である。

幼稚園には、運動会がない。ついでに子どもの発表会のようなものもない。

その理由は、〈練習の為に子どもの時間を、大人が泥棒しないようにするため〉である。35年前の設立時より、園長のこのような考えの元、運動会というものは一切、行われていない。

運動会や発表会を否定している訳ではない。

そういったことを楽しみに練習したり、親に成果を見てもらいたくて頑張る子どもたちもいる。その中で自分の成長を感じる子どもたちも、子どもの成長を感じる大人たちもいると思う。

かくいう私も、運動会も発表会も嫌いではなった。どちらかと言うと張り切って参加していた。

でも、それは、比較的、運動が得意だったから苦にならなかった為だと今は感じる。徒競走でイチバンになる姿を親にみて褒めて貰いたい、リレーの選手になったと胸を張って報告したい、そんな気持ちだったと思う。しかし、それは、私がたまたま〈それらが苦にならない子ども〉だったからだと思う。

そういえば、二男は、年中組くらいの頃、他の子どもたちが皆に見てもらおうとダンスを踊って居る時も中央では踊らず、すみっこで楽しそうに踊っていた。「真ん中も空いてるよ?」と他のお母さんに声を掛けられ「誰かに見せる為に踊ってるわけじゃないから。」と言ったことがあった。


誰かに見せるためではなく、自分が楽しいから踊っているんだ。

彼は、誰かに評価されるためではなく、自分が好きだから踊るというのだ。
この言葉は、何か催しがある度に私の中に浮かび上がってくる。


運動が好きではない、集団で動くことが苦手、先生の指示の意味を理解するのに時間がかかる、他にやりたいことがあるのに皆に合わせなくてはならないことを辛く感じている子どもであったなら、運動会や発表会は、どんな意味を持つのだろうか。

私自身が大人になり、保育士として、働いていた時、運動会や年末子ども会という名の発表会があったが、苦手な行事であった。

運動会の為に、保育士がピリピリしながら子どもたちが「きちんと」演目をこなせるように、毎日練習を組み込む。

運動が好きな子も苦手な子も一括り。

やりたい子も、やりたくない子も、一括り。

どんなに他の事や遊びに集中していても、例外なく練習に参加しなくてはならない。何より、〈みんな同じように動く〉ことは大事だから。

私が経験した現場では、〈子どもたちが楽しい〉よりも〈言われたことをきちんと出来ること〉を保護者に披露する為の行事が運動会と発表会であると思えた。

いったい、誰の為の、何の為の行事なのだろう?

私の疑問は、ずっと消えることがなかった。

目の前のやりたいことを止めてまで、止めさせてまで、練習しなくてはならないのだろうか。

集団で動けるようにならないと、小学校に上がった時に困るから。

発達段階として、これくらいは出来ていないと自分の保育士としての仕事を上司や同僚から認められず、保育者としての評価が下がるから。

だから、ちゃんとやらせなくてはならない。

そんな目には視えない、プレッシャーに近い感覚が至る所に漂ってるように感じた。

やり遂げることで、子どもたちも勿論、成長をしたり、満足をしたりすることが無いわけではない。自分の成長を見て感じ取り、喜ぶ大人の姿に喜びを覚えることもあるだろう。

しかし、私にはしっくりこなかった。

〈大人の満足のための行事〉に意味があるのだろうか。

子どもの〈やりたい〉は置き去りになっていないのだろうか。

〈行事は、いった誰のためのもの?〉

そのような疑問を抱えたまま、私は保育の現場を後にし、現在、子どもたちが通う幼稚園に出逢ったのだ。

先にも書いたように、今、通っている園長の考え方のひとつに、「子どもの時間を泥棒したくないから、練習が必要な行事はやらない」というものがある。

子どもたちから自発的に「やりたいから練習したい」という姿が出てくるのであれば、それに大人は喜んで応じる。しかし、大人の気持ちを満たす為に子どもに練習を課すのであれば、それは子どもの時間を奪っているということだと私は解釈している。


この日のレクレーションでは、綱引きに始まり、草の上で子どもをソリに乗せて大人が引っ張るソリリレー、鯉のぼりを棒にくくりつけたものを持って走る鯉のぼりリレー、スリッパ飛ばし、などが行われる。

そこには、「勝者」も「敗者」も明確には存在しないものが多い。

リレーも人数を合わせることもなく、やりたければ、何度でも、満足するまで、走って良いのだ。

子どもの性質によっては、勝ち負けにこだわる子もいる。そういう子はまた幼稚園とは違う場でその性質を発揮できることがこれからいくらでもあるだろう。幼稚園の日々の中でも柔らかいスポンジ状の棒での戦いごっこや椅子取りゲームなども行うので、勝ち負けの概念が育たない訳ではない。

我が家の長男は、幼稚園に通っている時期、ゲーム性の強いものには、一切参加しなかった。

理由は、「負けたくないから」である。

ゲームに参加しなければ、勝つこともないが、負けることもない。
ジャンケンすらしなかった時期があった。
どんだけ負けず嫌いなんだこの人は、と、驚いたことも懐かしい。
こどもの性格とは、様々なものなのだな、と思ったものだ。

昨年は参加しなかった家族レクレーションに久々に参加しながら、そんなことを思い出していた。

二男は在園していた時、一通り何でも参加して楽しんでいたが、戦いが好きではなく、「やらない」ということもあった。でも、ゲームの勝敗がついても、そこにこだわらず楽しそうだった。
 
末娘はというと、「慎重」である。とりあえず、様子を見る。「やりたくない」ということもあれば、「ちょっとやってみる」と「楽しいからもう1回」ということもある。

とにかく、よく見ている。

然程、ゲームに参加していなかった末娘だが、帰りの車の中で、「あ~!楽しかった!」と満面の笑みでいうのだ。

末娘の姿を見ていると、性質によっては、こうして「見ている」ことによって、「自分も体験している」という共感性もあるのだなぁと思う。ゲームに「参加することだけが、体験するということではない」のだ、と。

子どもたちの取っ組み合いの喧嘩に関して、そのような見解を書いてくれていたスタッフのおたよりを思い出していたが、そのことは、また別の機会に書いてみたいと思う。


このレクレーションには、最後のお楽しみがある。

それが「水風船キャッチ」である。

スタッフが前もって準備してくれた1000個近い水風船を園舎の屋根から投げ、それを草の広場に集まった子どもたち、大人たちが、受け止めるのだ。

スタッフも腰に命綱を着け、斜めになった園舎の屋根から転落しないように細心の注意を払う。

大人も子どもたちも、水風船を受け止めたくて、必死である。
どうしてそこまで、と思うくらい皆、必死になる。

水風船は、柔らかい。
そして、ちょっとした衝撃で割れ、水が弾ける。

大人も、子どもも、目の前でうまく受け止められず水風船が弾け、全身ずぶ濡れになることもある。受け止めそこねた水風船が地面で割れて泥水となり、飛沫を跳ね上げる。

水風船の行方を追いかける姿を見ていると、どちらが大人で、どちらが子どもか、見分けがつかなくなる。

この幼稚園ではよく、そういうことがある。

水風船を受け止めるのは、難しい。
素手でとろうとする人、虫網を手にする人、ビニール袋を用意する人、エコバッグを広げる人・・・私の今までの経験で言うなら、イチバン有効なのは、「自分の被っている帽子」を使うことである。

程よい柔らかな生地とフォルムが水風船を包み込むのに適していると思う。

しかし、帽子を使うというだけでは、水風船を割らずに受けとめることはできない。

自分の目の前に水風船が飛んできたら、帽子の中で受け止める。
しかし、帽子に入ったからといって、水風船が無事とは限らない。
帽子で受けとめるだけでは、入った時の衝撃で水風船はいとも簡単に割れてしまうのだ。

私は、水風船が帽子に入ったその瞬間、ほんの僅か、ほんの僅かだけ、帽子を手前に引く。

すると、水風船はつるんとした様子のまま、帽子の中から顔を覗かせてくれるのだ。

この日、隣で「お母さん、水風船とって。」という末娘のリクエストに応えるために、私は広場の端っこで帽子を構える。

何故、端っこか。

人々は真ん中に集中する。
人が近い場所にいるとお互いに遠慮して、お見合いのようになって地面に落ちて割れる。逆に、我先にとに身を乗り出し、しっかりと受け止めようとし過ぎて水風船は割れてしまう。

何より、混み合っている中で水風船を奪い合うのは、性に合わない。

端っこにいても、自分の目の前に、私の受け取るべき水風船がやってくることを、私は知っている。

誰かを押しのけることなく、
誰かのテリトリーに入ることなく、
自分のタイミングと、投げるスタッフのタイミングが合う瞬間があることを、私は知っている。

そして、時には、やんわり受けとめられず割ってしまいつつも、たくさんの水風船を割らずにうけとめ、末娘の帽子に入れたり、傍に居るまだ水風船を持っていない小さな子どもたちに水風船を分ける。

「わぁ、いいの?!」と子どもたちの親が口々に言う。
うん、いいんだよ、たくさん取れるのだから、分け合った方が楽しいと思うから。

水風船をうけとめながら、私は、感じた。

これは、人との関わり方に似ている、と。
人の生き方に似ているな、と。

人を押しのけて前に出たり、強い力で握りしめれば、水風船はあっという間に割れてしまう。受けとめたと思っても掌の中で割れてしまうことも少なくない。

相手から投げられたものを、相手のタイミングと自分のタイミングを見計らい、そっとやわらかく受けとめることができたなら、そこには光と艶を帯びた宝石のような存在が残る。

そして、それを受け取ったら、周囲にも循環させることができる。

そんなことを考えながら、たくさんの水風船を割れることなく受け取った。

「水風船って、人間関係みたいですよね。ただ受けとめたら割れちゃうこともあって、受けとめ方で割れないこともたくさんある。人を押しのけたり、前に出てでも受け取れない。時には、近くで割れて泥が跳ねたりるすから、それを避けたりもしなくちゃらならないし!」と冗談っぽく笑いながら、ベテランの主任スタッフに話すと、私の肩を叩いて笑いながら嬉しそうに、「ホント、そうだね!学びは尽きないよね!」と返してくれたので、「ホント!日々が学びで溢れてますよね。だから、毎日、飽きないです!」と私も笑った。

こうやって私の投げた水風船をやさしく受け取ってくれるスタッフがいることは、しあわせだ。

帰宅後、水風船キャッチの時、ちょっと離れたところで写真をとってくれていた夫に、私が水風船から感じたことを話すと、「僕も眺めながら考えてた。水風船って人とのコミニケーションに通ずるなぁ、って。」


どの方向から投げられるかわからない水風船を受けとめられなくて、避けることがあってもいい。

でも、真摯に投げられた水風船であれば、私の精一杯で丁寧にやさしく受けとめたい。

水風船キャッチは、人の在り方、生き方そものもだった。

幼稚園に通って12年目、新たな発見をした一日。
日々、学びは尽きない。

末娘が帽子に大事にしまった水風船。










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