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漫画みたいな毎日。「どんな小さなことも、自分で決めるということ。」


「なんで、そんな必要があるの?」

長男が2歳から通っていた幼稚園で、他のお母さんから言われたことがありました。

10年以上前の事になります。子どもが育つのに、もっとよい環境はないだろうか?と夫と長男と日本の中を旅していました。

札幌に気になる幼稚園の見学に行こう、と訪れたのは、長男が2歳の時でした。幼稚園を長男が気に入り、そこに入園すべく、札幌への移住を決めたのでした。

幼稚園には、毎日、お弁当を持参していました。お弁当の内容はもちろん家庭それぞれ。幼稚園には共用の台所もあり、朝、お弁当を作る時間も余裕もないときには、台所で麺を茹でたり、なにか炒めたり、お昼ご飯を作りることができます。

我が家の場合は、私の傍を離れない長男のその日の動きは予想がつかないし、基本的に外遊ぶを好んでいたので、昼の時間に園舎の中に入れるとは限らない。台所で昼食を作れない可能性の方が高いので、毎日、簡単でも、あるものを詰めるでも、何かしらのお弁当を持参することにしていました。


長男は、小さい時から、相当に意思表示がハッキリしていたので、いつからか、何か彼に関わる事柄には、「どうしたい?」と確かめるのが、日常となっていました。

意思を確認しない方が、何倍も、何十倍も面倒になる経験を重ねていたので、「どうしたい?」は、我が家では、日常の中の問いかけであり、やりとりとなっていました。

お弁当もそのひとつ。

「今日のお弁当、何がいい?」

この問いかけから、お弁当作りが始まります。

この問いに対して、長男が無理難題をふっかけてくることは殆どなく、

おむすび

納豆巻き

海苔弁

ときどき、オムライス。

ときどき、チャーハン。

とにかく、お米さえあれば満足な長男。

だいたいそのあたりを行き来し、それに何かしらのおかずを添える、といった感じでした。

給食のメニュー豊富な楽しみもあると思うし、内緒のメニューのお弁当で、蓋を開けたときの、「わぁ♪」という喜びもあると思います。

〈自分が食べたいもの選び、食べたいのではないか?〉というのは、親の思い込みなのかもしれない、とも考えた私は、一度だけ、何も聞かずにお弁当を作ってみた事がありました。

すると、お弁当の蓋を開け、中をまじまじと見つめた後、「これは自分が食べたかったものじゃない。」と言った長男の今まで見たこともないような、物凄く不満そうな横顔を、今も鮮明に思い出すことができます。


ある程度、〈大人〉という括りになった頃から、私は、できる限り、自分が選んだ好きな物を食べたいと思うようになった気がします。就職し、自分でお金を自由に使えることが増えたことも大きかったと思います。

そして、全く食に興味の無い両親に育てられたのにも関わらず、何故か姉はグルメになり、私を美味しいものを食べる時には、連れ歩いてくれたという事と、無関係ではないのかもしれません。

自分で食べたいものを作ることも、自分で選んだお店に行くことも、自分で選んだ物を食べるということは、心もお腹も満たされたものであったと思います。

大袈裟かもしれないけれど、死ぬまでにあと、どれくらいの食事の回数があるのだろう?!と考えると、できる限り、〈自分で食べるものを選びたい〉のです。それは、高級であるとか、そういったことではなく、何を食べるかを〈自分で決めること〉が自分の満足や納得につながると感じてきたからだと思います。

この〈自分で決めた〉という事実から得る感覚は、食べることに限らないと思うのです。

そして、それは、大人に限ったことではないのでは?そう感じた私は、お弁当を作る前には長男に尋ねていたのでした。

「今日のお弁当、何がいい?」

そんな我が家の「お弁当リクエスト受付制」を知った、同じ幼稚園に通う同級生のお母さんから、発せられた一言が、

「なんで、そんな必要があるの?」

でした。

〈自分が必要と感じなければ、しなくていい。〉

彼女はそう考えているようでした。日々の会話や、子どもたちとのやり取りからも、あらゆることの予定を組みたて、全てを予定通りに進めることに重きをおいている様だったので、彼女がそう思うことに違和感はありませんでした。

彼女は、自分が着るものを高校生になるまで、彼女のお母さんが決めたものを着ていたそうで、自分で決めることがなかったのだそうです。全てにおいて、お母さんが決定権を持っていた。

そして、今は、彼女はお母さんの様に、全ての決定権を持っている。

家庭を築いた後も、自分の育った地域に住まうのは、「子どもたちの今後の動きが心配ないから。」通学経路も、進学先も、全部自分の知っている範囲に収まるから、安心感があるのだそうです。

良い悪いではないと思います。ただ、何に重きを置くかの違いなのです。

その発言を聞いた時、私には子どもたちの全てを決めることなど出来ないなぁ、と思ったのを覚えています。

何故なら、私と子どもたちは、まったく違う人だから。

そして、自分のことを自分以外の人に決められてしまった時のなんとも言えない居心地の悪さを知っているから。

考え方も、好きな食べ物も、好きなものも、違う。


自分の経験を振り返ると、自分に似合う服探しに迷ったり、美味しいと評判のお店を試したり、本を表紙買いしてみたり。時に失敗も沢山しながら、自分の好きなもの、心地よいものを見つけていく過程は、今、思い出しても楽しかったと思うのです。そして、今も、〈何かを自分で選べること〉は、私にとっては、とても大切なことです。


現在、子どもたちの好みは三人三様です。興味を示す事柄も、好きな食べ物も、選ぶ本も、似合う色も、洋服も。

3人の中で、末娘は、「気に入ったものだけ、あればいい。」そんな感じです。

洋服に関して言えば、気に入ったものしか、決して身に着けません。

洋服も靴下も、気に入った同じデザインの物が数枚あれば安心らしく、「これと同じ大きいのも買ってもおいて。」と。次のサイズも、同じデザインでいいと!

母が選んでも、決して着ないので、「ハイ。わかりました。」と、次のサイズ探します。それが、一番、スムーズだし、お互いに平和なのです。のんびりしていると、モデルチェンジしていて、買えなくなることもあります。まぁ、それはそれで、きっと次のお気に入りがみつかるとは思うので良いのですが、末娘が、できる限り納得できるまで、好きなものを身に付けてけていられたらいい。そう思っています。


洋服のことだけではなく、

お弁当のことだけでなく、

どんな小さな事柄でも、自分に関することを、自分で選ぶこと。

全ての事柄は、自分で選ぶことができる、という感覚を味わうこと。

それらは、自分が心地よく過ごすことに繋がると思うのです。

今日も末娘は、二男が親切から、妹のお皿を用意しようとしたその時、こう叫んでいました。

「私が、自分で選ぶから!!!!!!」


うん、いいね。


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