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学校に行かないという選択。「私たちはみんな、育っていく途中だから。」

昨日は、二男の学校の面談日だった。
二男の担任の先生はこの春、大学を卒業したばかりの男性教諭だ。

2週間程前だったろうか。

二男の同級生で小学校のクラスも一緒であるお母さんが、私の顔を見るなり、「けいこちゃん!聞いて!」と勢いよく話し始めた。

内容としては、「給食の時間に騒ぐ子は、給食のおかわりは無しです。」と先生が言っている、というものだった。騒いだと注意された子どもたちは、おかわりしたくても、することができないのだそうだ。「もっと食べたかったけど、我慢した。」「家に帰ってから食べるからいいや、って思ってる」と他の子どもも言っているのだという。

しかし、そのお母さんに話をした子は、「自分たちが悪いから、先生は怒るんだ。だから、余計なことを先生には言わないで欲しい。」と言うのだそうだ。

〈そんな罰を与えるようなやり方は、時代錯誤だと思う。〉とそのお母さんは憤っていた。

気持ちはわかる。

自分の子どもがそのように話をしたら、私でも少なからず、心がざわつくだろう。

しかし、子どもがその話をしてくれることで、「学校で起きている出来事」を知ることはとても大事だと思う。

子どもたちにしても、「良からぬ事柄」を親に伝えるのは、なんとなく躊躇することもあるだろう。

自分が告げ口している気持ちになったり、親が口出しして、事が大事になるのは本意ではないと思う。それでも、「親に話せる」ということで、気持ちは軽くなることもあるはずだ。

何にしても、給食の前に騒ぐのがダメという事と、おかわりをする事は、別の事柄だ。

給食の時に騒ぐことがいけないのだとしたら・・・どういう騒ぎ方なのか、私は見たわけでも、その場に居たわけでもないので、わからないが、それを注意すべきだという理由があるなら、〈なぜしてはいけないのか〉を伝えるだけでいいのだと思う。

騒ぐからと、罰則のように〈おかわり禁止〉というのは、何か違和感がある。

〈罰を与えられるから、悪いことをしてはいけない〉のではないはずだから。

それとも、先生がそのような手段に出なくてはならないくらい、困っているのか?その辺りが、私には見えてこない。

さて、優先して考えなくてはならないのは、当の子どもたちが、どの程度、その事柄で困っているのか、辛さを感じているのか、ということだと思う。

聞いた所によると、「おかわり禁止」を言い渡された子どもには、こっそり給食当番の子が、おかわりできないことを見越して、最初に多めに給食を盛り付けてくれるなど、工夫し合っているらしい。

なるほど!!と、子どもたちの対応力に感心してしまう私。子どもたちの逞しさに感動すら覚える。

「先生には言わないで。自分たちが悪いことをしているから、先生が怒るんだから。」

子どもたちは、寛容だ、と思う。

同じことをしても、怒らない人もいる。

怒るほどのことなのか、ということもある。

怒る、ということは、怒る側の問題だと私は思っている。

先生という立場は、親と同じで、知らないうちに「絶対的権力」を手に入れやすい立場だと思う。

怒りで子どもをコントロールすることは、許容し難いものがあるが、実際に先生がそうしようとしているかどうかも、わからない。無自覚である場合もあるだろう。

この話をしたお母さんは、「校長や教頭に話したら、担任の先生が萎縮するだけで何の解決にもならない気がする。」と言っていた。新卒1年目であれば、尚更、その可能性は否めない。

そのような前情報を抱えつつ、昨日は小学校へと向かったのだった。

先生に二男の近況をお話ししながら、給食のことも頭をよぎったが、何と言っても、二男はは学校に行っていない。

二男が直接その場に居たわけでもないので、現時点では、私がこの件に関して何か話すべきではない、と思った。

何にしても、〈先生が、どのようなバックボーンを持ち、何故、この仕事を選び、何を大事にしているのか〉を知ることが、私にとって必要だと思えた。先生の考え方を知ることができれば、「騒ぐ=おかわり無し」に至るまでの構図のヒントがあるかもしれないから。

私たちが訪ねた時間は、帰宅後の子どもたちとのオンライン集会の日だったらしく、それが終わるまで私と二男は図書室で待っていた。図書室と二男の3年生のクラスは同じ階にある。

オンライン集会の様子を見回っていた校長が、図書室にひょっこりと顔を出してくれた。「お?!久々に会えたね!背伸びたんじゃない?!」と二男に声を掛けてくださり、二男も、「そうかな?」と慣れた様子で受け答えしていた。

しばらくすると、担任の先生が、「お待たせしました。オンライン集会のことがあるのをご連絡し忘れていてスミマセンでした。」とやってきた。

そのあと、教室に移動して、クラスで観察している蚕やコオロギを見せてもらい、二男の日々の様子をお話しした。

二男が、「先生、教室にゴミが沢山落ちてるよ~」とゴミを拾い始めた。見回すと、教室は散らかっている、と言う表現がぴったりの様子だった。「5時間目が工作だったから。」と先生。それにしても、かなりの散らかり具合だった。

〈先生も、いろいろ大変なのかもなぁ・・・。〉と思った。

そりゃまぁ、大変でないことはないだろう。

この3月まで大学生として生活していたのが、4月から急に社会人という括りとなったわけである。知らないうちに感じるプレッシャー、日々の授業に加え、準備や事務処理、子どもたちや保護者の対応、クラスの運営もすべてひとりでやらなければならない。

3年生の教室は、4年生と5年生の教室に挟まれている。

4年生の担任は、去年までの二男の元担任の先生。5年生の担任は長男の5・6年生の担任の先生で、長男が「先生はトモダチ」という、信頼を置いている先生だ。

去年まで長男の担任だった先生が、教室から顔を出してくださり、「Kさんは、元気ですか?」と長男の近況などを聞いてくださった。その間、二男は担任と元担任と一緒に幅跳びの計測をしてくると体育館に向かった。

一通り、長男の中学校とのやりとりや、日常の過ごし方のお話をさせてもらい、その後、「先生に、お話するのもどうかとも思うのですが・・・」と二男の同級生のお母さんから聞いた話を伝えた。

「私も聞いた話でしかないですし、何にしても、二男は学校に通っていないので、どういったことなのか、というのはわからないんです。前後関係もわからないですし。こどもたちが、それによって学校に来るのが辛いとかになるんだったら、問題だと思うんですが。先生も、その手段に出なくてはならないくらい大変なのかな、とも思ったり。でも、騒ぐのがダメなことと、おかわりを禁止することは、別のことかな、とは思います。」と伝えた。

長男の元担任の先生は、「う~ん・・・」と考えた様子で話を黙って聞いてくださった。「先生が新任の頃はどんな感じでしたか?」と私が切り出すと、「いやぁ・・・毎日、放課後、生徒の家にいって保護者に謝ってばかりいました。失敗ばっかりで。でも、その時、保護者の方に、ダメ出ししてもらって、はっきり言ってもらって良かったって思ってます。それがないまま今まで来てたら、ちょっと怖いですねぇ・・・。」と笑っていた。

私も、自分が初めて障がい児の通所施設や保育園に勤めた時のことを思い出していた。二十歳そこそこで、「社会人」であるという責任の重さを勝手に背負い、「先生」と呼ばれる居心地の悪さと、プレッシャーに毎日押し潰されそうだった。

「私も、新人時代を思い出すと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります・・・今の自分なら・・・って。でも、その時代、子どもたちと保護者の方に受け入れてもらって、育ててもらったんだな、とありがたく思います。
それに気がつくには、ある程度の時間が必要なのかもしれませんねぇ・・・。」と私がつぶやくと、長男の元担任の先生は、「そうなんですよねぇ・・・私たちも一緒に育っているんだって、なかなか気がつくのに時間はかかります・・・。」とおっしゃった。

「時間が、かかりますね・・・」と、私と長男の元担任の先生は、顔を見合わせてから、なんとなく窓の外に視線を移した。窓の外は雨が上がったばかりで、やや重たい雲に覆われていた。


二男の担任の先生も、二男も、私も、他の子どもたちも、その親も、みんな、育っている途中なのだ。

何年かしたら、何十年かしたら、

〈あのときの自分の発言や行動って、なんか違っていたかもしれない。もっと違うやり方があったかも・・・未熟な自分を子どもたちが、受け入れてくれていたんだ。〉

そう思うかもしれない。

過去を振り返って、後悔したり、反省したり、恥ずかしいと思い出しつつ、「あの時の自分は周囲に見守られていたんだ、受け入れてもらっていたんだな。」と感じられる事は、今の自分を支え、励ましてくれるものだと思う。

クレームを言うのは簡単だ。

しかし、指摘の仕方によっては、少なからず、ひとりの人の人生を左右してしまうこともあるだろう。

子どもたちは、理不尽だと思われることからも、きっと学んでいる。

自分たちで考えている。

子どもの「先生には言わないで」という気持ちは、基本的には尊重すべきだと思う。親は、出ていくタイミングを見誤らないように、慎重に物事の成り行きを見守っていく必要があると思う。

まずは、先生自身のことを知ること。

月に2回しかお会いしないけれど、「次にお会いした時は、どんなことを聞いてみようかな。」と考える。

関係性の構築。

先生のおかれている状況の把握。

異議を唱えるのは、その後でも遅くはないはずだから。

子どもたちが「学校、楽しい!」と通っているなら、親はそれが一番うれしいのだと思う。

それには、親も学校や先生のことを知って、共に育っていくのだ、というスタンスがやはり欠かせない気がしている。

子どもたちも、先生も、親も、まだまだ育っている途中だから。

私も、まだまだ育っている途中だから。

〈お互いの違いを感じながら、もっとあたたかで、やわらかな眼差しを向け合っていきたいなぁ・・・。〉

そう思った放課後だった。


学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!