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漫画みたいな毎日。「親を〈個〉としてみたときに。」

私には、6歳年の離れた姉がいる。姉とは、実家を出て姉が結婚するまで、ふたり暮らしをしていた。今、思えば、いろいろあった日々も、懐かしく思えるのだから、時間とは不思議なものだと思う。

姉のことは、「同じ親の元での育ちの大変さを共有し、くぐり抜けて来た同志」だと思っている。

親や親戚、子どもの頃のあらゆる事柄を、時代や視点はやや違えど、近くで共有してきた、唯一無二の存在である。

親や親戚にまつわること、学校での出来事、思春期に友人との間で起きる悩みやもやもや・・・大変だったあんなこと、こんなことの大半を「それぞれの経験」としてではあるが、言葉にしきれない「あぁ、それね~。」「あるよね、そういうこと。」「あのとき、本当に大変だったよね・・・。」と多くを共有し、共感してきた。

美味しいもの好きの姉のおかげで、世の中には、「美味しい」というしあわせが存在することを知った。

私の生まれ育った環境は、姉にとっては、「常に自分を否定される環境」であり、私にとってはかなり窮屈で、「我慢強い、しっかりした二女」として暮らすことで、自分自身の身を守らなくてはならない場だった。

小さな子どもにとって、家庭は閉ざされた世界になりがちで、「自分の育った家庭がスタンダード」だと、知らないうちに思い込んでしまう。そして、大きくなるにつれて、自分の家庭が、どうやらスタンダードではなく、世の中には、様々は家庭の在り方があることを知るのだと思う。そしてそこから自分だけの、自分を取り巻く世界を構築し始めるのだろう。

私にとって、「自分の育った環境が絶対、唯一無二ではない」という、外の空気を持ち込んでくれたのが、姉の存在だった。姉との関係性は、今まで紆余曲折あったが、それがあって、今は良好である。その紆余曲折については、またいつか書くことになるだろう。

昨日、姉から電話がかかってきた。電話を取ることができず、留守電が入っていた。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・。」

しばらくして、また電話が鳴った。

「どうしたの?」
「あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・」

そう切り出した姉は、自分が仕事の一環で受けているセミナーで、自分と向き合うワークのようなものがあったそうだ。同じグループになった人から出された質問に答えるというものだったらしい。

姉に出された質問とは、「両親の自慢をしてください」というものだったらしい。姉は、「最も聞かれたくないことに、答えなくてはならないのか?!」と困惑したらしい。

姉も私も、両親の在り方にずっと疑問を持ってきた。姉は長女ということもあり、私以上に親や親戚との関係の重たさを背負ってきた面がある。私はそのおかげで負担が少なく済んだ部分もあると思っている。

「本当に、何も思いつかなくて、他の質問にしてもらおうかと思ったくらいだったんだよね。で、あなたならどう答えるだろう?って聞いてみたいと思ったの。」

私や姉にとって、父や母に関して他人に「自慢」できる事がない。姉はそれに戸惑ったのだ。「何かしら、あるでしょう?」と言われても、無いものは無いのだ。姉の話を聞いて、私たちの育った時間に思いを巡らせる。

私の両親は、親としては、あまりにも子どもの心や育ちに関して無関心だった。「子どもは親の所有物である」「親の言う通りになるべきもの」という感覚が私たち姉妹には、苦しいものだった。

姉に尋ねられたことに、私は答えた。

「あるんじゃないかな。〈親〉としてみたら、他の人に自慢できることなんてないのかもしれないけど、〈個人〉としてみたら、それぞれ備わっていることがあったもんね。たとえば、お父さんは、歌手を目指すほど歌が上手かったとか。お母さんは、手先が器用で段取りが良くて、仕事が早い、とか。洗濯物の畳み方、恐ろしく綺麗だよね~!」と私は笑いながら話した。

すると、姉は、「そうか、そうだね。あったね。親としてじゃなく、その人のもってる〈才能〉みたいなものは、あるもんね。」と、今までやや重たさを含んでいた姉の声が、少し晴れやかになった。

私が、両親の存在を〈親〉として思う時には、そこに矛盾と憤りと悲しさが入り混じる。そして、「深い部分で、決して理解し合うことはないであろう」という諦めもそこに含まれる。

自分も親と呼ばれる存在になり、だからこそ両親の言っていたことで、理解できることと、理解できないことがある。親として、自分にはあり得ないと思える行為も発言も多々ある。

しかし、〈親〉として、ではなく〈個〉として見た時に、両親の育ちの大変さや不遇さ、時代の中における〈どうにもならなさ〉の中で必死にやってきたのであろう事は、理解できるのだ。それは、善し悪しで判断できることではないと思える。

そして〈個〉として客観的に見ると、父や母の中の得意としていたことが、見えてくる。それが、他の人に自慢できる程のことがどうかは、問題ではなく、「そんなスゴイところもあったよね」ということが、〈自分の親である〉ということと切り離したときに感じられるのだ。

大人になって良かったと思うことのひとつに、〈親〉を客観視できるようになった、ということがあると思っている。そのことは、私を〈育ち〉の息苦しさから救ってくれた。

私、という〈個〉

あなた、という〈個〉

私と親は、違うそれぞれの人間なのだ。

私は、冗談めかして、
「あのさ、両親のことで、一番、自慢できることは、私たち姉妹をこの世に送り出したってことじゃない?」

そんなことを言って、電話を切った。



学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!