#10分で読める小説「古く汚れたマッチ箱が導く奇跡の喫茶店」
雨上がりの午後
雨が上がり、灰色の雲の隙間からわずかに射し込む光が、石畳を淡く照らしていた。男はゆっくりと歩きながら、足元に感じる湿った石の感触を楽しんでいた。靴底が軽く水を吸い込むたび、どこか懐かしい感覚が心の奥に響く。土と草の匂いが風に乗って、過去の記憶を呼び起こそうとするかのように、男の胸に沁みわたる。
手の中には一つのマッチ箱があった。かつて「カフェ・オクターヴ」と呼ばれていたその店の名が、擦り切れた箱の表面にまだ微かに残っている。マッチ箱収集は男の趣味で、閉店したカフェのマッチ箱をフリマサイトで買い集め、それを手に、その店があったはずの書かれた住所へと向かうのが彼のささやかな休日の楽しみだった。
しかし、カフェ・オクターヴはもうない。その場所には、無機質な牛丼チェーン店が立っていた。かつてこの場所で淹れられていたコーヒーの香りも、温かい空間も、今はもう過去の残像にすぎない。男は小さな溜息をつくと、少し離れたベンチに腰を下ろし、水筒からコーヒーを一口飲んだ。
「オクターヴの味には敵わないな…」
自嘲気味に呟きながら、男はもう一度、マッチ箱を眺める。家にはまだ80個ものマッチ箱がある。全て、もうこの世には存在しないカフェのものばかりだ。まるで過去の記憶を集めているかのように、男はそのマッチ箱を大切に持ち歩き、時折その場所に足を運んでいた。
見つかったカフェ
その日も、男はまた新しいマッチ箱を手に、その店があった場所へ向かうことにした。「カフェ・レヴェリー」という名のマッチ箱。手書き風のデザインが施されたその箱は、時代を感じさせつつも、どこか洗練された空気を醸し出していた。住所は、街外れの静かな通りだ。
雨上がりの午後、まだ少し湿った道を歩いて、その店のあったはずの場所へと男は向かう。心のどこかで、また無くなっているのだろうと予感しつつ、それでもほんの少しだけ期待を抱いていた。
角を曲がり、目的の通りに差し掛かる。古い街並みが残るその通りは、どことなく時間が止まったような静けさを持っていた。男は歩みを進めるたびに、胸の奥が高鳴るのを感じた。見えてきた店先には、小さな看板が立っている。
「…まだ、ある」
そう呟いた男の目の前に、「カフェ・レヴェリー」の文字が確かに残る古びた店が、静かに佇んでいた。風に揺れる白いカーテン、そして店内から漏れる淡い明かり。あの日のまま、時が止まったように、そこにあった。
再会
男は震える手でドアを押し開けた。カラン、とベルの音が響く。店内に入ると、木の香りと、ほんのりと甘いコーヒーの香りが彼を包んだ。カウンターの奥から、年配の女性が微笑んで出迎える。
「いらっしゃいませ」
その一言に、男は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。まるで、ずっと探していたものにようやく出会えたかのようだった。彼は言葉もなく、ただ頷くと、一番奥の席に座った。
静かな店内、時間の流れが止まっているような心地よさに、男は深く息を吸い込んだ。かつてこうしたカフェが、街のあちこちにあった。しかし、今ではもうほとんどが姿を消してしまった。だが、この店だけは、まだここにあった。
「コーヒーを…一杯お願いします」
注文を告げた男の声は、どこか震えていた。まるで、過去と現在が重なり合う瞬間を生きているような、不思議な感覚に包まれていた。カウンターで淹れられるコーヒーの音、カップに注がれる液体の香り。それは、彼がずっと探し求めていた時間そのものだった。
失われたものと、残されたもの
カフェ・レヴェリーは閉店間際の店だった。常連客もほとんどいなくなり、店主も年を重ね、いつかはこの店も閉じることになるだろうと、女性は静かに語った。
男はその言葉を聞いて、心の中にかすかな悲しみを感じた。時の流れは残酷で、どれほど大切なものでも、いつかは消えてしまうのだ。それでも、この店はまだここにあった。男が探していた「失われた時間」は、確かにここに存在していた。
店を出ると、雨上がりの空に虹がかかっていた。男はふと、もう一度マッチ箱を取り出し、その小さな箱に刻まれた文字を見つめた。
「もう一度、来よう」
そう呟いて、男はゆっくりと歩き始めた。雨上がりの湿った石畳を、いつかまた戻ってくることを願いながら。
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