誰かがいたことだけは思い出せてしまう不条理に寄せて
「センセーの旦那さんはどんな人なの?」学生時代のアルバイト先の塾で、当時受け持ちだった無邪気な小学生の質問を、どう交わしたんだっけ。スーツがそれなりに似合ってしまったことは老けた証拠のようで少し悲しさを感じた。小学校の低学年には、スーツを着たひとは皆既婚者に見えるらしい。旦那にしたいと、一生を添い遂げたいと思う人なら、居なくもなかったかもしれない。それでも、その人のことを絶望的で絶対に好きだった理由はもうすでに分からなくなってしまって、後に残る切なさの波紋ばかりが今日も揺蕩っている。わたしはいつから思い出せなくなってしまったんだろう。人間の防衛本能とはどこまでも凄いもので、案外きっちりと忘れるべきものを忘れられる。貴方もそう思いませんか。でもそれはときに形を変えて--それは香水とか、映画とか--わたしの日常に忍び込んでくる。電話とか、LINEとか、もっと有形な手段を取ってくることもあるかもしれない。わたしは後何回、誰かを忘れ、前に進み、時々その残り香に胸を軋ませるのだろう。
絶対に、この世のどこかにわたしの最後の人がいて、その人のことをいつも思っている真夜中の乙女たち。わたしもその一人だとして、わたしが気になることは、その人がどんな人かよりも、その人を最後にするにあたって、わたしが何を捨てるのか。
“結婚したい人と好きな人は違う”と最初に言った人は紛れもない天才だと思う。天才といえば、わたしは自身が天才では無かったことを大人になって知った。もちろん、努力の天才でも無かったという意味でだ。わたしのやりたいことは、もっと上手な文章を書くこと。洗練されていて、わかりやすくて、洗い立ての瑞々しい野菜みたいな文章。
今日、大好きな友達に「すなは帰巣本能がある」と言われた。
思い当たる節はあった。わたしはわたしの日常を、自分でコントロールできる部分は、お気に入りだけを揃えている。登場人物も含めて。だから、私が創りあげた私の世界を放り投げて死ぬことなど、絶対に考えられない。私の世界は今日も平穏で、私が選んで育ててきた美しいものだけで構成されていれば良い。本気で、そう思っている。きっと明日も。
でもそれは、ずっと欲しかったものの代理でできた世界で、心の底から愛して欲しかった人には愛されないし、認めて欲しい努力はなかなか日の目を浴びない。だから、代理に丁寧に丁寧に色をつけることで、偽物がホンモノになる日を待っているのかもしれないとすら思う。そんな風に日々を過ごしていたら、期待をしていないふりをしてしまうまでがセットになって、数字を明確にすることを恐れるようになった。努力をしても叶わないくらいに自分にセンスがないことを突きつけられるのが怖くて、努力を隠すようにもなった。涼しい顔をしてニコニコするのが大人で、興味のない他人と、表情を悟られないように狐のお面を被って会議をすることで、生活をなんとかやりくりする。
誰もいない静まり返った1月3日の朝は、街が死んだように静かで、わたしの住む世界そのままの投影のように思えた。駅までの道のりで、わたしは誰にも会うことはなかった。朝の小田急線がこのままどこか違う終着点に運んでくれればいいのに。つまらぬ幻想の中で溜息をつきながら、わたしは新宿に背を向けることができないでいる。
2020.1.3
すなくじら
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