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『砂の器』と木次線 出版までの道のり(2)

 暑中お見舞い申し上げます。前回に続いて、拙著【『砂の器』と木次線】を出版するまでのプロセスを振り返ります。今回は2022年11月から2023年3月頃にかけてやったことをお伝えします。
 本書の概要については以下の記事をご参照下さい。

 前回の記事はこちらです。


作業開始から4~9か月(22年秋~23年春)


作業開始から発売までのスケジュール

資料リサーチと執筆を並行して行う

 前回は、本を書くことを思いついてから作業を開始し、企画書と一部の仮原稿を出版社に送って相談したところまでご説明しました。
 出版元のハーベスト出版(島根県松江市)は、興味はもって下さったようですが、しかしこの段階で出版の確約を得たわけではありません。第1章までの仮原稿は読んでもらったのですが、果たしてこの先の章がどう展開するのか、今一つイメージが沸かないというのが本音ではなかったでしょうか。
 まあ、こちらとしても書いてみないことにはわからなかったので、無理もなかったと思います。とにかく、さらにリサーチを進めて、第2章以降も書いていくしかないと考えました。
 そんなわけで、この時期はひたすら文献や統計資料等を調べ、並行して第2章と第3章の執筆を行いました。少し書いてはわからないことを調べ、また書けるところまで書いて、わからないことが出てきたらまた調べる。それを繰り返し、少しずつ作業を進めていきました。

役に立ったツンドクの郷土史本

なんとなく買い集めていた郷土史の古本

 第2章では、映画『砂の器』のロケが行われた1970年代に至るまでの木次線と沿線地域の歴史に焦点を当てました。
 前回も書いたように、この時期は東京に住んでいましたので、国立国会図書館へ行って関連する資料を探し出し、コピーやプリントアウトしたものを持ち帰って読み込むというのが、主なリサーチの手段でした。この方法で古い新聞記事や雑誌など、ずいぶん多くの貴重な資料をゲットしました。ただし、ご存知のように国会図書館は本そのものの貸し出しはしていませんし、コピーも著作権法の範囲内(2分の1以下)と決められていますので、なんでもかんでもというわけにはいきません。
 ここで思いがけず役に立ったのが、筆者が15年ほど前からこれといった理由もなく、古書店のネット通販で買い集めていた地元の郷土史関連の古本でした。上の写真のような町村史(誌)や「明治百年」にあたる1968(昭和43)年前後に発行された図書などです。ほとんどがなんとなく買ったものの、ほぼ積読状態だったものでした。ところが改めて開いてみると、意外にも使えそうな情報が出てくる、出てくる!
 もちろん自分が将来『砂の器』の本を書くことを想定して備えていた…なんてことは100%ありません。人間それなりに長く生きているとこういうこともあるんだなあ、と感心したものです。

専門家にチェックをお願いする

 第3章では、映画の原作となった松本清張の小説『砂の器』がどのようにして書かれたのか、そして清張はなぜ亀嵩という地名を謎解きの鍵として採用したのか、疑問に迫りました。
 清張が小説を執筆する際に亀嵩の人たちが協力していたことなど、資料を調べれば調べるほど、自分が知らなかったことが次々とわかり、かなり興奮を覚えたのですが、一方で不安にも駆られました。これって専門家から見たら、どうなんだろうか?…筆者は清張の研究者でもなんでもありません。ただの一素人が、付け焼刃の限られた知識で本を書こうとしているわけですから、けっこうアブナイですよね。どこかに大きな勘違いや見落としがあるかもしれず、そうなると「トンデモ本」扱いされてしまう恐れだってあります。そのリスクを避けるには、専門の研究者に目を通してもらい、意見をいただくのが一番です。
 資料を調べる中で、専修大学の山口政幸教授のお名前を拝見しました。山口先生は日本近代文学が専門で、清張の研究者として『砂の器』の研究もされています。清張と亀嵩との関わりを調べるため、実際に亀嵩まで足を運ばれたこともあります。意を決して大学の研究室あてにお手紙を送ると、しばらくして先生からご連絡をいただき、大学の入試が一息ついた2023年2月末に直接会って下さることになりました。
 本書の「あとがき」にも書きましたが、お会いしたのは都営地下鉄三田線の新板橋駅前の喫茶店でした。小説『砂の器』で今西刑事の家がある設定の北区・滝野川の近くです。山口先生は今西刑事のファンで、初対面にもかかわらず、楽しいお話をいっぱい聞かせていただきました。そして第3章の仮原稿をお渡ししたところ、後日Zoomをつないで、お気づきの点など、多くのご指導、ご助言を賜りました。ほんとうに、ありがたい限りです。(続く)


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