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宝剣・治金丸を史料から解説してみた

治金丸(じがねまる/ちがねまる)は琉球国王・尚家が持っていた宝剣です。現在は千代金丸、北谷菜切とともに那覇市歴史博物館が所蔵しており、「琉球国王尚家関係資料」のひとつとして国宝に指定されています。

さて、この治金丸ですが、ゲーム「刀剣乱舞」の新刀剣男子として登場すると言われています。それを記念して、突貫工事ではありますが手元にある史料を用いて解説してみたいと思います^^;

※作成途中ですが公開します。誤字脱字等ご容赦ください。後日、図書館に行って調べてから修正します。

治金丸にまつわる伝承の概要

まず、治金丸にまつわる伝承について時間軸に沿って箇条書きにしてみたいと思います。

①宮古島の仲宗根豊見親が務田川で見つける。
②仲宗根豊見親が家宝にする。
③1522年に中山(首里)の尚真王へ献上する。
④京阿波根親雲上が京都で研がせるも偽物を掴まされ帰国する。
⑤再度、京阿波根親雲上が京都へ行き、本物を取り返す。
⑥北谷王子が怪僧・黒金座主を治金丸で斬る。

といった具合でしょうか。④、⑤京阿波根親雲上や⑥北谷王子と黒金座主の話は昔話として各地に伝えられているため様々なバリエーションが存在します。そのため史実とフィクションがごっちゃになっています。

そこでなるべく歴史を遡り、よりオリジナルに近い治金丸にまつわる伝承を紹介したいと思います。

『球陽』にみる治金丸

上記の①〜⑤までの話は琉球王国の正史(国が編さんした歴史書)である『球陽(きゅうよう)』に記されています。

ただし気をつけなければいけないのは、その編さん年代です。治金丸が尚真王へ献上されたのは1522年ですが、『球陽』の編さん事業がスタートしたのは1743年です。つまり、治金丸に関する『球陽』の記事というのは、書かれた時点ですでに200年以上過去の話となっており、尚真王が生きた時代の記録(同時代史料)ではありません。あくまで『球陽』が成立した当時の役人が、古記録や古老の言い伝えなどを元に200年前に遡って書いたもの、と念頭に置いて頂ければと思います。

さて、『球陽』の中に治金丸にまつわる伝承は4つの記事にまたがっています。この4つの記事を時間軸に沿って紹介します。

仲宗根豊見親が治金丸を手に入れた記事

まず、①宮古島の仲宗根豊見親が務田川で見つける、②仲宗根豊見親が家宝にする、③1522年に中山(首里)の尚真王へ献上するの話です。

仲宗根豊見親玄雅(なかそねトゥユミャげんが)は15世紀末から16世紀初めにかけて宮古島の首長を務めた人物です。「豊見親」は称号で、沖縄島で言う「親雲上(ペーチン)」のような感じです。

この仲宗根豊見親が治金丸を入手した経緯について『球陽』の読み下し文を引用します。

宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す。
平良の北、務田川、夜半に至る毎に、音響地を揺がし、光輝天に冲して人民畏懼す。鯖祖氏豊見親玄雅、彼の地に往き去くに、音弭み光滅して一物有ること無し。曙天に至るを俟ち満処に巡到し、心を用ひて之れを見るに、只一剣有るのみ。豊見親、大いに之れを奇怪とし、此の剣を収獲して回る。此れよりの後、祥光門を■め、瑞色戸を繞りて一点の災殃有ること無し。豊見親、深く之れを珍重し、以て伝家の宝と為す。後日に至り、深く此の宝剣の凡人庸民の得て宝とすべからざるを念ひ、嘉靖壬午、豊見親、朝覲入貢するの時、此の宝剣を捧げて中山に至り、聖主に奉献す。(後略)
※『球陽』尚真王46年項、角川版記事番号181

ざっくり意訳すると次のようになります。

平良の北にある務田川で、夜中に毎日、音響が地を揺るがし、光が夜空を照らすため、人々は恐れていました。仲宗根豊見親玄雅がその地に行くと、音を出し光が消え、何もありませんでした。明け方になるのを待ち、心を用いてこれを見ると、ただ剣があるだけでした。豊見親はこれはとても奇怪だとして、この剣を持って帰りました。その後、めでたい光が門を■し、めでたい色が戸をめぐり、ひとつの災いも無くなりました。豊見親は深くこれを珍重し、伝家の宝としました。後日、この宝剣は凡人が持ってはいけないものだと思い、嘉靖壬午(1522年)、入貢の際にこの宝剣を持って中山(首里)に行き、聖主(尚真王)に献上しました。(後略)

川の中にあり、地響きがするほどの音と、闇夜を照らすほどの光ということで、SFじみた話になっています。この手の話は、その神聖性や権威性を示すあまり、非科学的な話で盛られることが多いです。

正直なところ、どこまで信憑性があるのかと問われれば答えに窮するところではありますが、ひとまず『球陽』が成立した時代にはこれが史実として掲載されています。

なお、この記事には「治金丸」という名称が出てきません。

功績を紹介する記事に登場

続いて、尚真王即位の記事にも治金丸のことが記されています。ただし、尚真王の功績のダイジェストを列記するなかに、あっさり一文だけに登場する感じになっています。

全て引用すると長いので、その一文だけ引用します。

時に、宮古島より宝剣一口、名は治金丸、宝珠一貫、名は真珠を献ず。
※『球陽』尚真王元年項、角川版記事番号141

ざっくり意訳すると「宮古島より"治金丸"という名の宝剣を1振、"真珠"という名の宝珠(宝玉)を1つ献上されました」となります。ここには「治金丸」という名称が登場します。また、先程の仲宗根豊見親の記事にはなかった宝珠が登場します。

一方、仲宗根豊見親の功績を列記した記事にも同様に、一行だけ登場します。

天順年間(1457−1464年)、「空広」なる者あり。という書き出しで始まり、仲宗根豊見親の功績を列記しています。なお、空広(ソラビー)は仲宗根豊見親の童名です。(童名についてはコチラ

空広、貢賦を制定し、又中山に入り、治金丸・藻玉一顆を賀献す。
※『球陽』尚泰久王6年項、角川版記事番号109

こちらには「治金丸」という名前が登場します。また、尚真王の記事にあった「宝珠/真珠」が「藻玉(詳細不明)」と記されています。

ちなみにトップの写真は宮古島にある仲宗根豊見親の墓(県指定史跡)です。

京阿波根親雲上が京都に行く話

さて、続いて④京阿波根親雲上が京都で研がせるも偽物を掴まされ帰国する、
⑤再度、京阿波根親雲上が京都へ行き、本物を取り返す話を見ていきたいと思います。

ここで主人公になるのは京阿波根親雲上実基(きょうあはごん・ペーチン・じっき)です。日本語読みで「きょうあはごん」と読みますが、琉球語(ウチナーグチ)読みで「チョーアハグン」とも読まれたりします。

『球陽』の記事を引用します。なお、『球陽』では京阿波根親雲上の唐名である虞建極(ぐ・けんごく)のほうがメインで記されているので、引用と意訳のほうでも唐名の方で記します。

虞建極、二次京に赴き、以て剣を磨き並びに討還を為す。
嘉靖年間、王に一宝剣有り、名づけて治金丸と曰ふ。其の剣の常と異なるを以て、王、虞建極(京阿波根実基)をして京に赴きて之れを磨かしむ。王后、其の剣様を以て、密かに壁上に写して授与す。虞建極、命を奉じ高く此の剣を捧げて将に王城を出でんとす。君真物神出現して中山坊外に送る。既にして京都に入り、良匠を尋ね求めて之れを磨かしむ。磨匠、其の剣の■■たるを知り、密かに新剣を造り、換へて以て之れを還す。而して建極、其の事を知らずして帯び来る。此の時、神の出現無し。而して人之れを知らず、只之れを匣中に蔵す。一日、王后、亦其の剣を出し、其の剣様と以て相較を為すに、此の剣、符合せず。王后、即ち其の宝剣に非ざるを知り、細さに王に告ぐ。是れに由りて王、亦建極をして京に赴き宝剣を討還せしむ。建極、王命を奉じて再び京都に入り、逗留すること三年、心を尽くし力を竭し、多く奇計を用ひて宝剣を取得す。而して帰国するの時、其の神、前の如く出現して中山坊外に迎ふ。王、大いに之れを喜悦し、深く之れを褒嘉し、賜ふに采地を以てし、擢んづるに顕爵を以てす。(後略)
※『球陽』尚真王48年項、角川版記事番号188

ざっくり意訳すると次のようになります。

嘉靖年間(1522−1566年)、王は一宝剣を持っていました。名付けて「治金丸」といいいます。その剣は普通ではない(=上等)ので、これを磨かせる(研がせる)ため王は虞建極(京阿波根実基)を京都に派遣しました。王后(王妃)は、剣の形状を密かに壁に書き写してから渡しました。命を受けた建極は、この剣を高く捧げて首里城を出ました。すると君真物神が出現して、中山門のところまで見送ってくれました。そして京都で良い匠を探して、剣を磨かせました。匠はその剣の■■なことに気づき、密かに新剣を造り、すり替えてこれを返しました。建極はそのことに気付かず、帰ってきます。この時、神の出現はありませんでした。そして誰も気付かず箱の中に収められました。ある日、王后がその剣を出し、以前、書き写した剣の形状と比較したところ、一致しませんでした。王后は剣が入れ替わっていることに気付き、王に詳細を報告しました。これにより、王は宝剣を奪還するため再び建極を京都に派遣します。建極は再び京都に入り、滞在すること3年。心を尽くし、力を尽くし、多くの奇計を用いて宝剣を取り返しました。そして帰国する時、以前のように神が出現し、中山門のところで迎えてくれます。王は大いにこれを喜び、褒美や領地をあげ、位階を授けました。(後略)

一応、記事自体は尚真王48年(1524年)の項の後ろに来ていますが、本文中には嘉靖年間(1522−1566年)とあり、何年のことか明確にされていません。嘉靖年間には尚真王、尚清王、尚元王の3人が国王になっているので、そのうちの誰かが王に就いている時の話でしょう。

こちらも先程の記事と同様、200年ほど後世に書かれた話なので、これ以上のことはわかりません。とはいえ、神の出現はともかく、京都へ刀を研ぎに行く話などは全くあり得ない話ではないでしょう。「歴代宝案」など王府の外交文書を見ると、日本から刀剣を輸入し、中国や東南アジアに輸出していますし、琉球の寺院は京都の臨済宗と深い関係があります。そのため、京都の刀匠とのコネクションがあることも充分にありえます。

また、「君真物(キンマモン)」とは琉球の最高神女・聞得大君(きこえおおぎみ)につく神です。王后(=聞得大君)が治金丸の形状を壁に書き写したり、また、偽物を掴まされたことに気付いたりキーパーソンとなっています。その後ろ盾である君真物が登場するかどうかによって治金丸の正当性が証明され、さらにはそれを所有する王家の正統性を暗示しているようで興味深いですね。

京阿波根親雲上は、この功績によって兼城間切阿波根村(現・糸満市阿波根)を拝領し「阿波根親雲上」を称します。さらに京都にちなんで「京」の字がニックネーム的に付き、「京阿波根親雲上」となります。なので厳密には京都に滞在している時は「京阿波根」を称していません。

このあたりは彼の一族の家譜である「虞姓家譜」が現存していて、那覇市歴史博物館に複製が所蔵されているので後日見て、確認してきます。なお、彼の子孫は現在、外間、富永、与儀、伊波、仲程、大田、安元、吉浜など姓を称しています。名乗頭字が「実」なので、外間実◯とか与儀実◯といった名前の人は、京阿波根の一門と考えられます。

なお、後略部分では京阿波根親方が名声をあげるも、その剛直な性格から人の恨みを買い、ハメられて暗殺されるといった内容が記されています。そのなかで、彼は「空手」で反撃したという記述があり、沖縄武術の元祖とも言われています。

黒金座主を切ったという伝説

最後の⑥北谷王子が怪僧・黒金座主を治金丸で斬る、という話です。『沖縄大百科事典』の「黒金座主」の項目にあらすじが要約されているのでそのまま引用します。

黒金座主は妖術で女色を漁り世人を惑わしていたので、尚敬王は弟・北谷王子に退治を命じる。王子は碁にことよせて会い、術を使って逃れようとする座主の耳を切り落とし、ついに討ちとる。以後、王子の家の前には耳なしの亡霊が出、また男子が生まれると早死にしてしまうので〈大女子(ウフイナグ)が生まれた〉と偽って祟りを避けた。

以上のようなストーリーです。耳切坊主の民謡の元ネタですね。

『沖縄大百科事典』の要約には治金丸の記述がないですが、民話などをみると、確かに治金丸で斬ったとする話もあります。例えば、糸満市の民話。

糸満の古老が語った、こちらの32番「北谷王子と黒鉄座主」に確かに「治金丸」と出てきます。

もちろんこの北谷王子と黒金座主の話は史実ではなく、実在の人物をモデルにしたフィクション(確執などはあったかもしれません)でしょう。登場する尚敬王(在位:1713−1751)は、ちょうど『球陽』の編さんが始まった頃の国王なので、もし仮に史実なら『球陽』に記述があるべきなのですが、ありません。

ですので、現状では王国時代に成立した史料の中で北谷王子と黒金座主の話をみることができず、黒金座主を斬ったのが「治金丸」なのかどうかわかりません。

個人的に怪しいと思っているのが、近代になってできた芝居です。1905年(明治38)頃に「黒金座主と北谷王子の伝説」という題で上演され、後に「悟道院変化」に改題され昭和戦前期まで上演されます。現在でも脚本を刷新し、黒金座主をテーマとした芝居が行われたりします。この芝居の中で「治金丸」を使ったという話になっているのではないか、ということです。

明治期から昭和戦前期までの台本を確認できていないので、何とも言えませんが、芝居で「治金丸」が使われたということになり、幼い頃、そのストーリーを耳にした方々が、民話として語り継いでいるのではないかなぁと思っています。

この点に関しては追ってリサーチします。

その他の史料

『球陽』以外にもいくつか、治金丸の来歴を記した史料があります。例えば「治金丸宝刀ノ由来」です。本来は漢文史料だったものを近代になって読み下した史料となっています。那覇市歴史博物館に原本があり、徳川義宣氏の1992年の論文に翻刻掲載されているそうなので、追って確認します。

また、先述した京阿波根親雲上の家譜である「虞姓家譜」のほか、仲宗根豊見親の家譜「忠導姓家譜」も残されているので、こちらも追って確認します。

製作年代と製作地

続いて、治金丸自体の製作年代と製作地を見ていきたいと思います。那覇市歴史博物館のサイトには以下のように記されています。

年代
拵:17世紀
刀身:15世紀

製作地
拵と刀身は日本製。

拵とは日本刀の外装のことです。治金丸は、美術工芸品としての名前は「黒漆脇差拵」となっており、名前の通り黒漆塗りの美しい鞘となっています。千代金丸や北谷菜切もそうですが、拵と刀身で年代や製作地が違っています。もともと別の拵だったが、修理や新調などがあって現在の拵になった、という考え方です。

このような年代は、そのモノ自体に「◯年製作」と書いていたり、製作の由来書きがあれば良いのですが、そう都合の良いことは稀です。基本的には刀剣の専門家が観察し、作風などから検討します。

私はこの辺については素人なので、『国宝「琉球国王尚家関係資料」のすべて』及び『日本の美術No.533 琉球の金工』の記述から見ていきたいと思います。

まず、刀身ですがいくつか説があります。
・応永年間(1394−1428年)の筑紫信国作という説。
・15世紀頃の日本刀で、相州(現・神奈川)や筑前(現・福岡)の作風に近い。

と言われています。いずれにせよ、刀身部分は日本製(日本刀)です。相州や筑前で作られた日本刀が貿易によって宮古にもたらされ、仲宗根豊見親の手に渡ったと考えられます。

一方の拵は、刀身より後の時代に整えられたもので、那覇市歴史博物館のサイトでは17世紀で日本製となっています。しかし、厳密に言えばパーツごとに検討されています。上掲の2書では尚家に伝わった1522年を遡らない16世紀と仮定し、次のように述べています。

・室町時代後期の日本の拵の形式を踏襲している(伝承と年代が符号する)。
・鐔(つば)は日本製、大切羽(おおせっぱ)は琉球製という説あり。
・鐔と大切羽ともに王府内工房で製作された可能性も十二分に考えられる。
・鞘(さや)は金具部分の作風から、日本製と見て差し支えない。
・柄頭(つかがしら)、目貫(めぬき)に関しては琉球製の可能性が高い。

という感じです。もちろん専門家の中でも様々な意見があるので、「◯◯製だ」と一概には言えませんが、長い期間にわたって、各地で製作されたパーツが組み合わさって出来ています。

千代金丸と治金丸が入れ替わっている説

こちらも有名な話なんですが、昔話などの中では、たびたび千代金丸や治金丸が入れ替わっていることがあります。「ちよがねまる」「ちがねまる」と音も近いですし混同されるのも無理もないでしょう。

また、千代金丸の鐔に「てがね丸(治金丸?)」と彫られていることから、実は千代金丸と治金丸は入れ替わっているのではないか、という話があります。

サイトの掲載写真のうち一番最後の写真が該当部分です。(横になっているので読みづらいですが…)

入れ替わりで考えられるのが、①鐔のパーツだけが入れ替わっているケース、そして②刀剣の伝承(名称)自体が入れ替わっているケースです。

まず、①鐔だけが入れ替わっているケースを考えてみましょう。治金丸の鐔には小柄(こづか、付属の小刀)を挿すための穴が空いていますが、千代金丸には小柄が付属していませんので、鐔にも穴はありません。さらに治金丸の鐔は他のパーツと作り手が同じと見られているので、鐔だけが入れ替わるという可能性は考えづらいでしょう。

次に②伝承自体が入れ替わっているケースを考えてみましょう。今、私たちが千代金丸と呼んでいる刀剣が本来は治金丸で、治金丸が本来は千代金丸なのではないか、という説です。

正直なところ、難しいです。伝承の内容はもちろん、各パーツごとの作風比較、「てがね丸」の読み方など検討事項が多すぎてここではまとめきれないです(笑)

また、もし仮に入れ替わっているとなったら、それはそれで説明しないといけないことが出てくる(例えば千代金丸には尚泰久王の神号である「大世」が彫られているが、それが後世の尚真王がもらった治金丸だとしたら、なぜ遡って尚泰久王の神号を彫った?など)ので、何とも言えません。今後の研究に期待しましょう(まぁ結論が出るとは思えませんが^^;)

参考文献

球陽研究会編『球陽 読み下し編』角川書店、1995
那覇市歴史博物館編『国宝「琉球国王尚家関係資料」のすべて』沖縄タイムス社、2006
至文堂編『日本の美術 No533 琉球の金工』ぎょうせい、2010
沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社、1983
宮古島市教育委員会『宮古島市文化財』2011
久手堅憲夫『首里の地名』第一書房、2000


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