琉球の童名を解説してみた

童名とは

童名(ワラビナー)とは、琉球諸島で用いられていた名前です。

沖縄芝居「泊阿嘉」に登場する「樽金(タルガニ)」や「思鶴(ウミチル)」、歌人として知られる恩納ナビーや吉屋チルーの「鍋(ナビー)」「鶴(チルー)」などが童名になります。大正・昭和初期生まれのおばあさんに「カマド」さんや「ウシ」さんといった名前を見ることもありますが、これらも童名に由来するものです。

琉球王国時代には国王から庶民まで貴賤を問わず、老若男女すべての人がこの童名を持っていました。近世の士族男性は唐名(例:蔡温)や大和名(例:羽地朝秀)など公務で用いる名前も持っていましたが、それとは別に童名も持っており、家族や友人など親しい間柄では童名で呼び合っていたそうです。

童名は昭和初期頃まで名付けられていましたが、現在では廃れています。なお、近代では戸籍上の名とは別に付けられることも多くありました(例:戸籍上は花子だが童名のナビーと呼ばれていた等)。

また、宮古・八重山には「メガ」など沖縄島に無い独自の童名もありました。

階級による美称

泊阿嘉に登場する「思鶴」と、吉屋チルーの「鶴」は同じ「鶴」ですが、一方には「思」が付いて、もう一方には付いていません。この差は何でしょうか。

童名には身分によって接頭・接尾の美称が付きます。具体的には接頭語として「思(ウミ)」「真(マ)」、接尾語として「金(ガニ)」が付きます。

平民(百姓身分)には美称は付きませんが、士族であれば1字、王子・按司家になると2字の美称が付きます。

例えば鶴だと
平民:鶴(チルー)
士族:鶴(マヂル)
王子按司:(マヂルガニ)
といった具合です。

ですので、泊阿嘉に登場する金や鶴は美称が付いているので、名前を聞いただけで士族であると想定できます。一方で、恩納ナビーや吉屋チルーは美称が付いていないので平民だとわかります。

ただし気をつけなければならないのが、家族など親しい間柄であれば美称を省略して呼んでいたということです。例えば、士族女性で「真鶴(マヅル)」という女性がいたとして、家族からの呼び名は美称を省略し「鶴(チルー)」となったそうです。他人の場合は、きちんと「真鶴(マヂルー)」と言うのが作法だったといいます。

また、身分の高い人が身分の低い人を呼ぶ際の卑称もありました。「徳」は通常「トゥクー」と読みますが、士族が平民を呼ぶ場合、あるいは平民同士の場合には「トゥカー」と呼ばれたそうです。同様に「サンルー(三良)」は「サンラー/サンダー」に、「カマドゥー(蒲戸)」は「カマダー」となります。ただ、時と場合によって発音は変化したそうで、これが全てではありません。

国王から庶民まで老若男女が持つ名

「ウシ」や「カマド」といった童名は、近年ではおばあさんの名前として馴染みがあるため、童名自体、庶民女性の名前のような印象もありますが、見出しにもあるように国王から庶民まで老若男女が持っていました。

具体例をあげると、尚敬王(1700-1751)の童名は「思徳金(ウミトゥクガニ)」になります。「思」と「金」は先述した通り美称で家族から呼ばれる際は省略されるので実際には「徳(トゥクー/トゥカー)」と呼ばれていたことでしょう。

もちろん歴史の教科書に載るような人々も童名を持っています。中城城主だった護佐丸(生没年不詳)の童名は「真牛(モウシー)」です。近世の政治家・蔡温(1682-1761)は「真蒲戸(マカマドゥ)」、組踊の創始者・玉城朝薫(1684-1734)は「思五郎(ウミグルー)」が童名です。

近代に入ってからの事例をあげると、画家・彫刻家として有名な山田真山(1885-1977)は「真山戸(マヤマトゥ)」という童名です。本名は渡嘉敷兼慎で、「真山(しんざん)」というのは童名からとったものです。

また、「童(ワラビ)」は沖縄の言葉で「子ども」を意味するため、幼い時の名、つまり日本で言う「幼名」と混同されがちです。しかし、実際は生まれてから死ぬまで、見出し通り「老若男女」が用いる名でした。そのため、研究分野などでは幼名という印象を拭うため、「ワラビナー」ではなく「ドウナー」と呼ばれることもあります。

童名の一覧(首里・那覇)

東恩納寛惇『琉球人名考』や『那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗』に童名の一覧が載っています。『那覇市史』掲載の一覧をベースにして、『琉球人名考』から若干の追加をして掲載したいと思います。なお読み方については『那覇市史』のものを基本にしていますが、一部、実際の発音に近くなるように修正しました。

※平民→士族→王子・按司の順で記して行きます。
※漢字表記、読み方、美称の付き方はあくまで一例です。
※一部、変則的な美称の付き方の童名があります。

【男性の童名】
徳(トゥカー)/思徳(ウミトゥク)/思徳金(ウミトゥクガニ)
五良(グラー)/思五良(ウミグル)/思五良金(ウミグルガニ)
松(マチュー)/松金(マツガニ)/思松金(ウミマツガニ)
次良(ジラー)/思次良(ウミジル)/思次金(ウミジルガニ)
山戸(ヤマトゥ)/真山戸(マヤマトゥ)/真山戸金(マヤマトゥガニ)
樽(タルー)/樽金(タルガニ)/思樽金(ウミタルガニ)
三良(サンラー)/真三良(マサンル)/真三良金(マサンルガニ)
金松(カニマツ)/金松金(カニマツガニ)/思金松金(ウミカニマツガニ)
麻刈(マカレー)/麻刈金(マカルガニ)/真麻刈金(ママカルガニ)
小樽(シュタルー)/小樽金(シュタルガニ)/思小樽金(ウミシュタルガニ)
境(サケー)/真境(マサカイ)/思真境(ウミマサカイ)
満(ミチー)/真満(マミチ)/真満金(マミチガニ)
武樽(ンダルー)/武樽金(ンダルガニ)/思武樽金(ウミンダルガニ)

【女性の童名】
鶴(チルー)/真鶴(マヂル)/真鶴金(マヂルガニ)
鍋(ナビー)/真鍋(マナビ)/真鍋樽(マナビダル)
於戸(ウトゥー)/思戸(ウミトゥ)/思戸金(ウミトゥガニ)
玉(タマー)/思玉(ウミタマ)/思玉金(ウミタマガニ)
真伊奴(メーヌー)/真伊奴金(メーヌガニ)/思真伊奴金(ウミメーヌガニ)
玉津(タマチー)/玉津金(タマツガニ)/思玉津金(ウミタマツガニ)
銭(ジニー)/真銭(マジニ)/真銭金(マジニガニ)
呉勢(グジー)/真呉勢(マグジ)/思真呉勢(ウミマグジ)
如古(ンークー)/真如古(マンク)/真如古樽(マンクダル)

【男女共用の童名】
蒲戸(カマドゥー)/真蒲戸(マカマドゥ)/真蒲戸金(マカマドゥガニ)
加那(カナー)/思加那(ウミカナ)/思加那金(ウミカナガニ)
牛(ウシー)/真牛(モウシー)/真牛金(モウシガニ)
亀(カミー)/思亀(ウミカミ)/思亀樽(ウミカミダル)
真加(マカー)/真加戸(マカトゥ)/真加戸樽(マカトゥダル)
武太(ンター)/思武太(ウミンタ)/思武太金(ウミンタガニ)

その他、仁王(ニオー)や百歳(ヒャークー)といった変わり種の童名もあります。ちなみに、おばあさんの名前で「ゴゼイ」さんというのがありますが、「呉勢(グジー)」を訓読みした名前になります。

祖父母から孫へ継承?

ネット上の情報を見ると、童名は「祖父母から継承するもの」とあります。また、「童名は親が決めるものではない」「先祖から一定の法則で与えられる」とも書かれています。

これは、誤りというわけではないですが、誤解を招く表現となっています。『那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗』に詳しく記されています。

まず「祖父母から継承するもの」という点に関して、ネット上の解説では「首里・那覇の長男・長女は」という前提が抜けています。他地域では家族の意見を聞いたり占いなどで選んだという話もあり、さらに首里・那覇でも次男・次女以下は祖先の童名の中から選んで付けていました。また、琉球王国時代の士族が編纂していた「家譜(家系図と履歴書の史料)」を見ると、代々の童名を見ることができます。

結論から言えば、祖父母の名を継承しているケースも多いが、そうでないケースもあるため鉄則では無かったようです。『那覇市史』においては「無難ないい方をすれば祖先の名前から名を選んだといった方がよいかと思う」としています。

「童名は親が決めるものではない」「先祖から一定の法則で与えられる」という話も、前提や条件を無視した話となります。

加那志について

琉球・沖縄史に関する本を見ると「〜加那志(ガナシ)」という言葉が出てきます。これを童名のひとつだと思っている方もいらっしゃるようです。琉神マブヤーに「ガナシー」というキャラクターがいるので、それで名前のような扱いになったのかもしれません。

しかし「加那志」というのは童名ではなく敬称になります。日本語で言う「〜様」や「〜陛下」と同じです。神名にも付いたりするので日本で言う「〜ミコト」に近いかもしれません。

たとえば、国王のことを「御主加那志前」と呼んだり、王妃は代々、佐敷間切を拝領するので「佐敷按司加那志」と呼んだりします。琉球の最高神女である聞得大君(きこえおおきみ)は「聞得大君加那志」となります。

伊江御殿家史料にみる童名の改名

那覇市歴史博物館が所蔵する伊江御殿家史料の中に面白い史料を見つけたので紹介します。

短い文書なのでそのまま翻刻してみます。

 口上覚
乍恐申上候、伊江王子嫡子朝永童名之儀
此中思次良金与相用来候処、御禁止之段
承知仕候間、思樽金申様被仰付被下度
奉願候。此旨、宜様被仰上可被下儀奉願候以上。
寅十二月       大親 仲嶺筑登之親雲上

※句読点を適宜補った。太字は引用者。

タイトルの「童名改名の件」にあるように、伊江王子の嫡子(長男)である朝永の童名は、これまで「思次郎金」だったが、その名が御禁止になったので「思樽金」に改めます、という内容です。

寅12月とあって年号は書いてないですが、伊江家の家譜(家系図と履歴書の史料)を確認したところ、当該の朝永は1841年(道光21)生まれ、没年は未記載となっています。彼に関する家譜の記録は1869年(同治8)まであり、家譜にも童名改名の記述があるので、1841年から1869年までの寅年、つまり1842年、1854年、1866年のいずれかの文書ということになります。

近世期の琉球王国で士族の名前が「御禁止」により改名するケースは多々あります。そのほとんどが江戸幕府の将軍や琉球国王など高貴な人物の名前と同字を避けるための改名です。

そこで、1841〜69年の国王、尚育王と尚泰王の童名を調べると…尚泰王の童名がまさに「思次郎金」でした。この文書の事例では、朝永は尚泰王の童名を避けているわけです。

この文書から、童名に関しても「御禁止」があったことがわかります。また、王子・按司家である伊江家だからということもあるかもしれませんが、きちんと王府に訴え出て改名しているので、童名も公的な名前だったと言えます。

現代で童名を付けることについて私見

先日、Twitter上で「子どもに童名を付けたい」という意見を見ました。子どもにどのような名を付けるのかは自由なので大いに結構ですが、童名を付けることで「沖縄の伝統を継承」という空気になるのは、やや違和感があります。

琉球人は(士族男性に限ってしまいますが)唐名や大和名などの名前を持っていますし、近代になると(大和化強要の結果とは言え)女性や平民の男性も「花子」や「太郎」といった戸籍上の名を持つようになります。

また、童名は先述した通り身分制社会を大きく影響を受けたシステムになっており、美称をどうするのかという問題も出てきますし、もともとウチナーグチで発音していたものを、どう読ますのか(「鶴」を「チルー」にするのか「つる」にするのか)という問題もあります。

このような点を踏まえた上で、果たして納得の行く名前を付けれるのか不安が残ります。個人的には「琉球人は複数の名前を持っていた」という歴史的経緯を尊重し、戸籍上の名前とは別にニックネーム的に童名を付ける、というぐらいがちょうど良いのではないかと思っています。

主要参考文献

那覇市企画部市史編集室編『那覇市史 資料篇 第2巻中の7』1979
東恩納寛惇『琉球人名考』1925(『東恩納寛惇全集6』所収)
沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典 下巻』1983(「童名」の項)
那覇市企画部市史編集室編『那覇市史 資料篇 第1巻7 家譜資料三』1982

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