自己と世界と「歪み」の話

前回の記事の最後に、続けて「ヒトの狂気」の話をすると書いた。

後から考えると、直接に関係しているとは言えないかもしれないし、もはや単なる連想ゲームかもしれないが、それでも一旦書いてみることにする。
なお、前の話を読まなくても本記事は読み進められる、と思う。



前の記事で語った「主観的な正義」を僕は以下のような言葉で表した。

適当に他人を否定することで、それを糾弾することで、自分を正義(仮)、つまり新しい秩序とすることで。
そうしてやっと自分が認められるような気持ちになり、そして同時に、なにかおぞましいものが満たされたような感覚になってしまう。

ここで導入したいのが、「自己」と「世界」という分け方だ。
「自己」は自分自身、「世界」はまわりのそれ以外。とりあえずは深く考えなくても問題ない。自分と世界は違うよ、ずれているよ。ということだけ理解しておけばよい。
加えて、もう一つ重要なのが、先ほど挙げた「ヒトの狂気」に繋がる「歪み」という概念である。これも言葉そのままの意味だ。
それでは、これらを用い、いくつかの作品を教材としながら、ヒトの狂気について解剖していこう。

「CARNIVAL(2004、瀬戸口廉也)」において、虐待を受けていた主人公に二つ目の人格が宿り、母親と不良に報復したことも、ここで説明することができる。
母親からDVを受けていたとしても、それでも母親は愛すべきものである、というのが元の人格である。
では、なぜもう一つの人格が生まれ、母親を殺してしまったのか。
そこを「自己」と「世界」から紐解くことにする。

母親からの虐待は間違いなくつらい。にも拘わらず母親を愛さなくてはならない、それが世の中のあるべき姿であるのだから。これは「世界」に適合するために「自己」をないがしろにし否定する、という行為である。
私たちにものすごく当てはまるような例を説明すると、自分の本当に好きな音楽の話はせず、流行している、友達が好きな、そんな音楽の話ばかりする。そのためだけに知識を入れる。このような経験、似た経験は誰にでもあるだろう。しかしこの瞬間、「自己」というものは置き去りにされ、「世界」に媚びを売っているのである。
話を戻す。
ここで「自己」をないがしろにして母親を愛し続けていた主人公だったが、当然ひとは自分自身を否定し続けて生きていけるはずがない、自分を完全に失って他者や世界にあわせていたら、最後に待っているのは勿論全ての崩壊である。
つまり、彼が二重人格になったのは端的に言えば自分を守るためであり、消えそうになった「自己」をどこか別の場所に避難させておく必要があった。これが第二の人格である。そして第二の人格はもちろん暴力を受け入れることなく、自らを守るために母親を殺してしまう。

ここに示したような二重人格をはじめとして、いくつかの後天的な病理は、「世界」に適合しようとしすぎたあまりに「自己」を失いかかった人間の応急処置としてあらわれる。

(少し冗長になってしまうが、同様の概念を扱ったうえで、それをファンタジーとして完成させたという点において、「AIR(2000)」の美凪シナリオはたいへん美しく優れた物語だったと言える。
大筋としてはCARNIVALの主人公と同様なのだが、
美凪シナリオについては、そのもう一つの人格がみちるという流産したはずの妹として現実世界に現れる。(もちろんこれは超常現象である。)

流産によりこころの病に陥っていた母親は、美凪のことを「みちる」であると認識してしまう。
そんな母親に合わせるため、「世界」に適合するために、美凪は家の中で「みちる」として生きてきた。
しかし「世界」に合わせてしまったがゆえに、「自己」、つまり美凪自身の居場所がなくなってしまう。
そこでみちるが現実世界に現れる。彼女に「みちる」と言う名前を譲ることで、やっと自分は「美凪」という自己として存在できるのだ。

二重人格と似た話を、keyらしく「奇跡」を交えた別の切り口で表現する。しかもそれが実にうまく母親のほうの異常ともうまく結びつく。
「家族」というkeyの追い続けてきたテーマを溶媒にしているところも、ミームを感じる。
メインですらない1シナリオであるにもかかわらず、非常に価値のある文章であるといえるだろう。)

ここまででなんとなく理解できたかもしれないが、改めて端的に説明するならば、「世界と自己にはずれがあり、多くの人間は生きやすさのために世界に合わせようとする。しかしそれによって自己が失われる可能性があり、そのため精神病理的な症状(=狂い)があらわれる」


ここで逆の場合、つまり「世界」に適合することはせず、「自己」を完全な形で残した場合を考えてみる。
なにか作品で例えるとするならば、「アルジャーノンに花束を(1959、ダニエル・キイス)」あたりだろうか。これはあまりに有名な物語であるためほとんど割愛しておく、興味がある方は調べるか読むかしてほしい。
あの作品でのチャーリーはもともと知的障がい者であり、のちに劇的に知能が向上したにもかかわらず、最も重要な能力の一つである「世界」への適合だけはができなかった。つまり究極的に「自己」に寄せ「世界」を遠ざけた例であるといえるだろう。当然チャーリーを「世界」から見れば、つまり私たちから彼を見れば、彼は「狂った」存在である。ここで注意して欲しいのは、「世界」を選んだ「CARNIVAL」の主人公や「AIR」の美凪とは逆であるにも関わらず、結局彼は狂ってしまったという風にみなされる、ということである。
(ひとつ皮肉を言うと、こちらの場合、目線を完全に「自己」においたならば、世界にいくら異常行動と言われようが主観的には何一つ狂っていないのかもしれない。)

つまり、
「世界」に適合しすぎると「自己」を失いかかってしまい、
「自己」を守りすぎると「世界」に見捨てられてしまう。
そして、これらは真逆であれど、どちらも行き過ぎたその果てには「狂気」の表出が待っている、ということになる。

「けれど、人間はどうせ多かれ少なかれ、生きるために歪んでしまうのです。そうしなければ生きていけないから。自分がありのままに生きられるほど、他人や世界は自分と適応してはくれません。生まれた後に歪んでしまうか、生まれる前に歪んでしまうか、その程度の差異なのかもしれない」

このあたりで一つ言えるのは、そもそも、「自己」と「世界」が完全に同じであるというようなことはあり得ない。世界は必ず私たちとは違うかたちをしている(つまり、ずれを持っている)ということだ。
そしてここでやっと前回の記事との連想ゲームになるのだが、そろそろ「正義中毒」をこの流れに落としこもう。
他人を批判することはつまり自分(の考え)を肯定すること、「自己」を守るための行為であることは言うまでもないが、付け加えて言うならば、いじめ、SNS上の誹謗中傷等の集団による批判には、もう一つの側面がある。
自分一人ではなく大人数が同一の対象を否定する時、先ほどの「自己」を守る行為であることに加え、同時に他の多くの人間、つまりある一部の「世界」が同じ意見を持っている。
このとき、(限定的ではあるにしろ、)「自己」が「世界」と同一になっているということだ。ここまで、自己と世界が同一には成り得ず、そのためひとは様々な問題に苛まれることを散々論じてきた。しかしだからこそ、「自己」と「世界」のずれがなくなる瞬間を求めてしまう。「自己」が「世界」に認めれられることを求めてしまう。


これらのような「自己」と「世界」とのずれ、そしてそれ故の人間の歪みや狂いに着目し、その本質とは何たるかということを真剣に考えたのが、「CROSS+CHANNEL(2003、田中ロミオ)」である。

前記事も含め、ここまでの話がリアルで暗いものであったことに嘆息したかたも多いだろう。不快に思った方がいたら申し訳ない。
しかし僕が本当に語りたいのはむしろ「こんなにも生きることは難しく、そして悲しい中で、じゃあひとはどうすれば良いのだろうか」ということである。これまではそこに至るまでの前置き、状況や背景の説明に過ぎない。
次回が恐らくこの連想ゲームは最後。「CROSS+CHANNEL」を軸として、ひとの在り方、その答えについて思索していきたいと思う。



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