正義中毒の話

高校時代に芥川龍之介の『羅生門』を読んだ、という経験のある人も多いだろう。
盗人を働く勇気が出なかった下人が、死人の髪を抜く老婆を憎悪・侮蔑した末に、老婆に対して引剥を行うという内容だ。
この物語を読んだとき、最初に感じたのは、
「圧倒的な悪や理不尽を前にして定義した自分というものは、時として非人道的である」
ということに対する恐怖だった。

(この読み方が正しいのかどうかはわからない。たまたま僕が曲解しただけかもしれない。)

そして最近、芥川龍之介の『桃太郎』に触れた。
これは普通の昔話の桃太郎とは一線を画した内容である。
かいつまんで説明すると、

「山や川や畑の仕事が嫌だった桃太郎が、それをサボるため、鬼を退治しようと思い至り、彼らが本当は平和な種族であるにも関わらず皆殺しにし、宝を強奪する」

という内容だ。

鬼を悪と定めたならば、それを成敗する方法がどれだけ非道なものであろうと関係ない。なぜなら彼らが悪くて自分が正しいから。そうである間は、殺しさえ正義だ。



ちなみに、僕が近頃になって芥川龍之介に改めて触れたのは、
『CARNIVAL(2004)』『SWAN SONG(2005)』等を著した瀬戸口廉也が「『芥川龍之介』的」であると考えたからだ。
たとえば『CARNIVAL』では自分をネグレクトした母親やいじめを働いた先輩に対して復讐し、殺してしまう。
『SWAN SONG』では女性をレイプした挙句殺した警官をクズであると認識し、リンチして死に追いやってしまう。

同じテーマを扱っているという事は、コンテンツの世界ではパクリだ二番煎じだと忌避されることもあるが、時代を超えて繰り返し論じることにこそ、人間や世界の本質があると僕は考える。

では、これらの作品群に共通する本質とは一体何なのだろうか。
これが最近の僕の中のテーマの一つである、『正義』のあやうさと言う問題だ。


ひとつ悪を定義し、それを否定することは、人間が生きる上で非常に都合のいいことらしい。
そこで生まれる主観的な「正義」が、人道的であるかどうかは関係ない。
相手の価値体系を完全に否定するために非人道である必要があるのならば、喜んでそうする。

数多の作家たちが繰り返し論じていることが何よりの証拠であるように、
ひとつ悪を決めることで、それを批判することで、それによって充足感を得るような感覚は、人間だれしも持ち合わせているものである。

近代的な例をあまり用いたくはないが、SNSでの行き過ぎた誹謗中傷などもこれに近い問題だろう。
悪事を働いた人間をどれだけ汚い言葉で罵倒しても、自分が正しいのだ。
そして何故か、それがクセになる。

理性も本能も、そのことを十分すぎるぐらい知っているのに、
他人の批判となれば、それらを簡単にかなぐり捨てることができる。
正義は麻薬とそう変わらない。
他人の批判は心地いい。
自分に罪悪感が無ければもっと良い。
彼等はきっと正義中毒だ。

適当に他人を否定することで、それを糾弾することで、自分を正義(仮)、つまり新しい秩序とすることで。
そうしてやっと自分が認められるような気持ちになり、そして同時に、なにかおぞましいものが満たされたような感覚になってしまう。

「人間が、誰かの否定によってしか自己を確立できないのだとしたら、
そのことを通してしか、自分自身の生を実感できないのだとしたら、
それは、なんて悲しい生き物なのでしょうか。」

このような『主観的な正義』問題の更に根本を考えると、これが芥川龍之介や瀬戸口廉也に加え、『CROSS♰CHANNEL(2003、田中ロミオ)』などからぼくが感じた命題、

「人間は本質的には孤独であり、世界との間には必ずギャップが生じる。
自己を捻じ曲げてまでその溝を埋める、
もしくは自己を守るために、世界に適応することを諦める、
そのどちらかによって『ヒトの狂気』があらわれる」

ということに繋がってくる。
個人的には、今回の考察はこちらも含めて完成するものだと考えている。
機会があれば、この記事の続きとしてそのことについても触れたい。



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