シネマ06 夢の途中
「おーい、すみれ。こっち、こっち!」
ずっと、ずっと遠く。道の向こうで、私を呼ぶ声がする。私は、その声を知っている。あたたかくて、懐かしいその声を。
路地裏を行く。まん丸や楕円。色んな形の水溜りたちが、道に装飾を施している。…やっぱり、あのスカートを買おうと、買うか迷っていた水玉模様のスカートをお迎えするために、立ち止まる。ほしい物リスト、カート、と進んで…決済へ。思い立ったら即行動なのが私のポリシー。
見上げると、澄んだ夜空と目が合い、自然と口遊んでしまった「銀の翼をひからせて〜」。「アルト!もっとしっかり!」そんな声が聞こえてきそうで…。ふふっと微笑っていると、見慣れた建物が見えてくる。看板の文字は“シネマ”だけで、肝心の名前は姿を消している、あの建物。胸に手を当てなくてもわかるこの鼓動は、“ワクワク”の合図。
チケット売り場で、チケットを買い、一足先に〈シアター06〉へ。
〈シアター06〉の扉を開けると、スクリーンも、座席もない。代わりに、カウンター席と、たくさんのお酒が並ぶ棚が目に止まる。ここは、私のお気に入りの場所。
「すみれ」
背後で、名を呼ばれる。あたたかくて、懐かしい声だ。
「先生!来てくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ。呼んでくれてありがとう」
薄暗い店内。天井から吊るされた灯りが、テーブルに月を作る。
「マスター、お願いします」
私は、チケットを初老の紳士─マスター─に手渡した。
「少々お待ちください」と、いつものように微笑んで言うマスターに少し被せて。先生は言った。
「…すみれも。お酒が飲める年齢になったんだな…」
「どうぞ、楽しいひとときを」
テーブルの月のちょうど真ん中。そっと、カクテルが置かれる。オレンジ色したカクテル。
「もう、二十二歳ですよ」カクテルグラスを持ち上げて言う。先生は「そうだよな」と微笑い、私の方にカクテルグラスを向ける。
「乾杯…!」
「…乾杯!」
カクテルグラスが重なり合う。グラスにしては、柔らかな音が響く。その余韻に浸りながら、ひとくち。
オレンジ・ジュースのなかで、アプリコット・ブランデーが香る。柔らかくて、美味しい。
「ん?」
その声の先。見えている景色は、バーから、大きなスクリーンに。
スクリーンには、“道”が映し出されている。
「先生。私には、ずっとこの“道”が見えているんです。そして、道のずっとずっと向こうから、私を呼ぶ声がするんです。「おーい、すみれ。こっち、こっち!」って。私は、その声を頼りに“ここ”まで来ました。その声は……先生の声です」
先生は、少し驚いた顔。
「小学生の頃、私には友だちがいませんでした。ひとりぼっちは、辛くて哀しい。だから、周りの機嫌をうかがって、気を遣った。でも、無意味でした。降り注がれる冷たい視線。言葉の刃にボロボロになる日々。こんな想いをするんだったら、友だちなんていらないって思ってました。助けてくれない教師に、私は絶望していました。でも、中学生になって、先生に出会って…」
声は震えている。言いたいことがたくさんあって、どんどん早口になって。それでも。それでも、先生は。大丈夫だ、と見守ってくれている。
「私、先生“みたい”になりたい。そう思ったんです。誰かに寄り添える人に。なりたいって……そう思ったんです」
カクテルグラスの氷が、カランと音を立てる。
それは、魔法の解ける合図。
見慣れた景色のなか、ずっと言いたかった想いを打ち明ける。
「先生。私、来春から“先生”になります。ひとりぼっちの隣の。もうひとりのひとりぼっちになります。私は、私らしく。生徒に寄り添う“先生”になります。先生、だから、それまで……」
言い終わらぬうち。あたたかくて、懐かしい声が私を呼ぶ。
「すみれ。先生、待ってるから。ゆっくり、すみれらしく歩いておいで」
帰り際。先生は言った。
「“夢の途中”だなんて、いいセンスしてるじゃないか。すみれの夢。先生は、ずっと応援してるよ」
いつだって、私の道の向こうでは、先生の声がする。
「おーい、すみれ。こっち、こっち!」
って。そう呼ぶ声がする。
先生、私。絶対、先生に追いついて、「ここまで来ましたよ」って言います。だから、それまで。
「おーい、すみれ。こっち、こっち!」って。あたたかくて、大好きな。その声で呼んでください。
私、絶対。先生のところまで行きますから。
Special thanks
私のかけがえのない“先生”
先生に出会えたことに。心から感謝しています。
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