祖母へ

祖母が亡くなったのは私が18歳の時

ちょうど国公立大学入試の後期日程の直前だった




亡くなったのは老衰
つまり大病などではなく、彼女は静かに寿命を全うした

私の祖母は重度の認知症で、私が高校に上がる頃には私の顔と名前も、ましてや孫の存在すら認識できていなかった。

老人ホームを転々とし、時には他県の施設まで移動していたが、面会にはよく行っていた。しかし、私の名前すら呼んでくれなかった。

当時、認知症やアルツハイマーといった症状について世間の認識は厳しく、ただの老人のボケなどと言われていた。

さっき自分がやったこと、言ったことをすぐに忘れる。自分の家を自分の家として認識できない。そんな症状が祖母にもみられた。

朝5合炊きの炊飯器にいっぱいあったはずのご飯が私や両親が家に帰ってきた時に全て空っぽになっていたことがあった。ご飯を食べたという記憶が無くなり、またお腹が一杯だという感覚さえ麻痺している状態だ。

母は看護師だが祖母の症状が悪化し、生活に支障が出ることでストレスが溜まり、たまに直接祖母にも激昂していた。それを見て育った私や妹は母の存在が怖かった


私は生まれてから、祖母が施設へ移るまでずっと祖母と2人で寝ていた。両親が共働きで2人とも夜勤の仕事があったためだ。

所謂おばあちゃんっ子だ

そんな大好きな祖母と2人で旅行に行った思い出がある。地元からと少し遠く離れた石川県金沢に叔母家族が住んでいた。私は鉄道が好きだったので特急サンダーバードで金沢に行きたかったのだ。

GWの連休に向けて計画を立てた

京都駅から特急サンダーバードに乗車、金沢へ

また復路は特急しらさぎに乗って米原経由で名古屋へ

小学4年生の立てた計画としては中々の渋い旅程


祖母の体力が心配だったが、これが一緒に行ける最後の旅行だと子供ながら感じていた私は何としても遂行させたかった。

そんなワクワクのGWの直前に事故は発生した

それは日本の鉄道員が絶対に忘れてはならない事故の1つ











2005年4月25日

「JR福知山線脱線事故」が発生した

小学4年生になったばかりの私は大好きな鉄道で多くの人が亡くなっている様をテレビの恐々しいリポートで確認した。

今度乗車予定のサンダーバードはJR西日本の管轄、両親も私と祖母の旅行を中止にするか迷っていた。

祖母との旅行は、その1年前にも計画されていたが、祖母が腰を悪くしてキャンセルになっていた。その記憶が蘇った私は、どうしても今回行かないと2度と祖母と旅行に行けなくなることを感じていた。私は人生で1番と言っていい我儘を言って祖母との旅行を決行させた。

勿論この旅行が祖母と楽しく旅行できた最後の思い出となった。









私はあまり泣かない子供だった。

泣かないというよりは人前で泣くのを我慢する子だった。落ち着いた雰囲気をだし、周りより大人くさい生意気な性格をしていた。実際はイキっていただけだが、親戚の集まりでは従姉妹たちはみんな女の子だったので叔父連中と話す方が面白かったし、大人と喋っている自分は大人なんだと錯覚させていた。


葬式が終わり、火葬場への送迎車には親族が静かに乗っていた。春の日差しが眩しい。車の外の青空が見えた。しかし車が進むにつれ、その青空は滲んで見えた。

涙だった

あれだけ人前、特に親戚の前で大人のフリをしていた自分が涙を堪えきれないでいた。もう5〜6年は名前すら呼んでくれなかった祖母との別れがこんなに悲しく悔しいものであることをここで認識させられた。自分はその涙をどうすればいいか分からなかったが、両親や親戚連中には絶対に見せたくなかった。火葬場に着くまでずっと目を閉じて寝たふりをするしかなかった。


関わりのある人が亡くなる時の悲しさは、その亡くなったの時点での関係性や関わりの深さによるだろうと考えていた。だから祖母が施設に入り、一緒に寝ることもご飯を食べることもしなくなって5年以上経って、いつ亡くなっても多分私には何の感情も生まれないだろうと思っていた。私との関わりが薄くなった人が亡くなることに感情は動かないだろうとすら考えていた。でもこの涙はその推測を裏切る証拠となってしまった。

祖母の脳内からは孫の私と旅行をした記憶は失われていたが、確実に私の中では生きていた

「鮮明に」そして「昨日のように」

楽しかったあの旅行も、一緒に暮らし両親が夜勤でいない夜も布団を隣り合わせて寝ていたあの日々が、いつまでも私の中で生きている。


祖母が亡くなって8年以上が過ぎた。

電車が好きで車窓を眺める私を優しい眼差しで見守ってくれた祖母に今でも言いたくて仕方ないことがある。

「ばあちゃん、僕電車の運転士になったよ」


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