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夏のおとしもの

10,000キロとすこし。

今はこんなに密着しているこの肌、指先、足先、このくちびる、この粘膜、呼吸、目線、声、きっと細胞のひとつひとつ。これからそんなに離れると思うと、どうしても私の支配された脳みそはそのことを考えて停止する。思考は停止して、つながりかけた部分の感覚に集中する、そして溶けながら声を漏らししがみつく。まだ、全体を私の体内に取り入れることは許してもらえていない。

大きくない私の胸がとにかく愛おしくなってきたという。
全体に対して乳輪と乳首が頑張っているのだそうだ、乳首が重力に逆らっているのとかが最高、とも。自分の体の一部分が誰かに愛おしく思われるのは、それだけで生きている価値が大きく上がる。愛おしそうに私のどこかを見つめる恋人を見つめ返しながら、どうにも出口のない次元に入り込んでいく、少し、空気も薄い。でも、ずっと見ていたい。いっときもその瞬間を逃したくない。

窓の外を救急車が相当な緊急度で走り抜け、騒々しい。すみません、ここにもきっと重症患者がいます。治りますか、治してもらえないと結構困ったことになりそうです。でもね分かってます、人様や文明に治していただけるようなそれではないことを、誰よりも分かっているから苦しいんです。
さらに遠くで積まれた瓶たちががらがらと崩れる音がする。ああ、どんどん崩れていくけど、その音すらも気持ちよくて困ってしまう。何でだか分からないけれど、この瞬間に学生時代に好きになった人の顔が浮かんだ、今はその人じゃないの、でもその人もとても格好よかったな。

どうして先だけしか入れてくれないんだろうと思うけれど、そうされるのも好きで、意地悪に見つめられている時間が嬉しくて仕方ない。まだだめだよと囁く彼もきっと繋がりたいはずなのに、そう言って楽しんでくれていることを感じて、苦しくて、でも幸せだ。

その瞬間には、話したいことを素直に話せるような気がする。あれこれ考える余裕がなくて、でも射精のタイミングもまだ先で、目を見て肌は触れ合っていて、お互いを死ぬほど求めている。この瞬間にだったら、愛してるの魔法だって使えてしまうのかもしれない。絶対に自分からそんなことは言わないけれど、心の中ではもしかして言ってしまっていたりして。

女が発する愛の言葉なんて、挿入直前に、悔しいから心の中で、そっと呟くくらいがいい。そんなことを無視して、男は愛の言葉を無遠慮に投げつけてくれたらいい。どうせ私たちは好きな男からは逃げられないんだから、投げつけられた言葉に尻尾を振って喜んで、開き直って首元にしがみつきに行くんだから。好きな男の前ではあまり猫らしくなれない。

懇願の末に挿入されたそれを、彼はいつもは激しく動かそうとするけれど、めずらしくその感覚を深く味わうようにただ奥に押し付けながら、苦しそうな表情で背中や腰を撫でていた。
聞こえちゃったかな、私の心の中の愛の言葉。困ったけど、嬉しいな。きっとその前にたくさん味わわせてもらったから、余裕がないんだろうなと思いながらも、そんな顔を見られるのはそれだけで嬉しい。絶頂なんて関係ない、ただ触れ合っているだけで嬉しい、そう思っている時こそ、飛んでいきそうなくらい気持ちがいい。

「行かないで」
「本当の一番になれないなら、行くよ」
「本当の一番になったら、行かないでいてくれるの?」
「もしそうなるならね、でもそんなことできないでしょ」

そういうやりとりを後この何ヶ月かで何度も繰り返すのだろう。
家族を捨てることなんてできるわけない彼は、また本当はそんなことを望んでもいない私は、絶対にできないことを考えて、手にできないものが尊く見えて、月並みな言動を繰り返すのだろう。望んでもいないは嘘だけれど、これからも一緒にいたいけれど、そうされても困ってしまう。でも、どんなに月並みでも、それでも幸せな瞬間があるのだから仕方がない。私たちはどうにも自分に甘い。全くめずらしくも何ともない、救えないストーリーだ。

ふるえたり、舐め合ったり、噛み付いたり、涙を滲ませてみたり、抱きしめたり、あらゆることを相手にぶつけ合って、射精の瞬間まで穏やかな動きで終えた。

数え切れないくらい身体を重ねているけれど、本当にそんなことは初めてで、なぜだかとても嬉しかった。最後に身体をがむしゃらに使われることに興奮を覚えていたけれど、そういうものとは違った種類の、何かをかみしめるような射精だった。穏やかに終えたくせに、いつもより飛距離もあったの、かわいい。
この後に本当は寝てしまえればいいけれど、今日はまだ金曜日じゃないし、帰らないといけない。寝るのを何とかこらえながら、どんどん気持ちよくなるのが怖いねという話をして笑いあった。明日も会えるしね、だったら帰らなきゃいいのに、そうしたいよほんとに、バカきらい、そうやって微笑みあう、これも最高に月並みな会話だ。

夏はもう終わったのかもしれない。
でも私たちはまだしぶとく鮮やかな夏の影を追いかけている。

愛してるとか、運命だとかの代わりに、大好きな夏のたくさんの思い出を押し付けて、私は遠く遠くに飛び立つ。
彼も、自分も、バカみたいに傷付いて、それでも少しの望みを信じながら、言葉や定義を超える関係を目指したり、あっという間に終わったり、色んなことを想像しながら、これから来る秋もみっともないくらい全力で過ごそう。傷跡にも、宝物にも、どちらにもなり得るこんな関係で。

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