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壊れないように抱くんじゃなくて、壊れてもいいから抱かれたい


邦画みたいな夜だと思った。

話をしてみたい、ずっとそう思ってはいたけどいつも乗り気ではない態度に「ああ、そういう人なんだ」と思ってきた。「ああ、世間話はしない人なんだ」「キャッキャと話し掛けられたくない人なんだ」「私には興味がない人なんだ」と。話し掛けてみたこともあった。むしろ週に一度見掛ける月曜日には視線と声を送っていたつもりである。それでも一向に乗ってこないので「ああ、そういう人なんだ」と確信した。淡い期待や図々しい下心が、どこか遠くへ消えていった瞬間だった。

それなのに ある日脈絡もなく「ごはんでも」と言うので驚いた。当時の私たちは業務的な話こそすれ、プライベートな話など一切したことのない関係だった。なんともいえぬ間があったので直感(もしくはこれまでの経験則)で誘われているのだとすぐにわかった。仕事としてではなく、下心を持って誘われているのだと。当時の私が勤める職場へ週に一度だけやって来る専門の業者さんだったが、昔は映画監督をしていたという噂を聞いた。私は寝ても醒めても映画が好きだったし、マニアックなジャンルを好んで観てきたせいで「映画関係者」という肩書きには惹かれないわけもなく、ふたつ返事で食事の誘いに飛び乗った。

トントン拍子に日程を決めたのはタイミングがよかったせいもあるが、ただただ映画の話をする相手を増やしたい、それが一番の動機だった。むしろそれ以外のことはまあ起きてから考えますという身軽かつ無責任なスタンス。
それは私の貞操観念がほぼ欠落しているせいでもあるし、別れたのか別れていないのかよく分からない恋人とどう頑張っても分かり合えない状況に疲れていたせいでもあるし、これからはもっと自由にやりたいんじゃ、と青臭い2X歳という時代に新たな生き方を模索し始めていたせいでもある。



さて、よく行く居酒屋に初めて足を踏み入れる連れを持つとなぜかは知らないけど色々緊張した。何度も食べた餃子はいつもと違う味がするし、何度も見た店内はいつもと違う色をしている。もはや逃げ出したい気分に近い高揚感に包まれるのだけど、なんとか耐える。すぐにお腹がいっぱいになって、久しぶりに良いストレスを感じていた。空腹なのか満腹なのか分からない状態になって初めて、「この人との食事に緊張している」自分を知る。そわそわする私を前に「初デートで餃子って、おれら大人ですね」と笑う彼に、数々の女の影を察したのは言わずもがな。話した内容はあんまり覚えていないけど、なんとなく想像通りの人であったことをただただ私の脳は受け入れている感じだった。部屋で一緒に映画でも観たい、そう思ったのもなんとなくのこと。だから部屋に誘われたことも、驚きこそあれ自然だった。このまま解散では味気なかったし、外で話せる会話はひと通りやったような気もした。ようするにもっと近い距離感になればこそ話せることは増える、世の中のほとんどの人が「順番すっ飛ばしすぎだろ」と突っ込むことを私も彼もやってのける性質だった。そしてそれを気持ち良いと望む、ごはんを待てないわんこみたいにせっかちで厄介でお行儀の悪い性質。

それからの行動はスマートかつスピーディすぎて拍手だった。お会計をし、早くも遅くもない速度で歩き、ゆるやかにタクシーを拾い、コンビニに寄り道する。当時「もうちょっとなんか、こう」的な男の傍に居たせいで、私は「部屋に女を連れ込むまでの一連の流れ」にもはや感動していた。お部屋に入って胸糞悪いマイナー映画を観たら、眠気も忘れて一緒に過ごした。彼の話は腹抱えるほど面白いわけではないし、もっと聞いていたいと感じるわけではないし、でもただ一定の共感を常に持てる話だった。それがいかに難しいことか、私はこの歳になってある程度は理解していた。全ては特別ではない、替えがきかないものでもない、ただただ自然だった。それがいかに奇跡的なことか、私はこの歳になって深く痛感していたのだ。


自分の部屋に他人が居ることは私にとっては窮屈だから、朝になったらお暇しようと考えていたのに、どうやらそういう空気でもなかったので また流れに沿うことにした。もっとも私自身が窮屈であれば用事をつけてさっさと帰ったろうし、一度きりの夜なら余韻に浸る間もなく始発で部屋を出たと思う。窮屈さはあったものの快適さも感じていたこと、一度きりにはならない予感が私を部屋に軟禁させた。煙草も吸えない部屋でただぼんやりと。

コーヒーが飲みたいと言うと喫茶店に連れて行ってくれて、11月にふさわしくない高い気温と雰囲気が穏やかだった。店を出てから「春みたい」と言うとわかるわかると返されたのが心地よかった。漫画の話をしたら漫画が読みたくなったから本屋に行こう、そのあと薬局に寄って歯ブラシを買おう、切れてしまったシャンプーも買おう、そしたら帰って仕事で打ち合わせがある。その間は眠っていても漫画を読んでいてもテレビを観ていてもいい。そう告げられた私はただただそれらを受け入れ、飼い慣らされた猫のように快適な空気の中に居た。

連絡先を知らないことも、下の名前を知らないことも心地よかった。きかれたら教えるし、呼ばれたら答える。ただ従うだけだったから。きかれないなら望まないし、呼ばれないなら今まで通りでいい。恋人は居るの?結婚はしてるの?そういった類のことも訊かない。訊くことはむしろ野暮でダサいことのように思えたし、訊かれると困ってしまうし、「自然」なものが「面倒」になる。もっと身軽で居ようよ、だって身軽で始まった時間だから。

私はなれもしない自由な女になりたかったし、できる自信もない束縛のない関係を築きたかった。帰り道、すっかり暗くなったあたりを駅まで歩いていると連絡先が一件増えて闇か光か見損ねる。いつもと同じ、そういう時間。

邦画みたいな夜だと思った。
「そんなことある?」ってくらいにどんどん展開していく関係。でもそこになんの違和感もなかった。だから私は24時間彼と一緒に居られた。そしてたぶんこれからも。





その後、ぽつりぽつりと連絡を取り合い、ぽつりぽつりと逢瀬を重ね、ぽつりぽつりと関係は切れていった。いや、切っていった。私は彼がもたらす「心地いい時間」がだんだんと怖くなったからだ。正確に言うと恐ろしいのは時間ではない、「心地いい時間」に身も心も骨抜きにされる自分自身が怖くなっていった。自然で身軽な関係で居ましょうね、面倒は抜きにしましょうね、私は表面でそう取り繕っておきながら、彼との逢瀬を重ねるたびに心が苦しくなっていっていくことに気づいた。昨日は何してたの?他の女がたくさん居るの?・・・「二人で居る時間以外に、その人のことを考えたら恋」だと言うのなら、私はもうめちゃくちゃに恋をしていた。でも断言できる、私は彼に恋をしていたわけではない。ただただ「心地よさ」に酔っぱらっていただけ。それを自覚していたにも関わらず、ずぶずぶと沼の中へ溺れていく感じだった。自分の心が思い通りにならない、じゃっかんのメンヘラ状態に私は耐えられず居た。おそらく彼は女を心地よくする天才で、ありとあらゆる女にいろんなものを与えてきたのだろうと思う。giveしてgiveして、その女の全てをtakeする。タチの悪いメンヘラ製造機。

気づいた時にはヤバかった。甘い味を一度知ってしまったら、もう一度食べたいと望むのが人のサガ。会いたい、会っちゃいけない、割り切れない、割り切ったら会える?転がるように彼に落ちていく。もうここまできたら断ち切るか進み切るしかない。私は断ち切ることを選んだ。進み切って、なにかを見るのが怖かったのかもしれない。

関係が終わったあと しばらくして私も会社を辞め、いつの間にか彼もこの地を出てしまった。彼の部屋に山ほどあった映画のDVD、見慣れない機材に派手な洋服。普段なら見ないSF映画も、太るから控えていたアイスクリームも、ただその空間だけでは価値のあるものだった。数年経った今も想い出す夜がある。何度部屋に行っても片付けられた気配のない私の白い歯ブラシや、贈った洋服を喜んで着て眠る横顔。彼はまた映画を撮り始めたと聞き、心を浮つかせた私は今もなお「彼の女」である自分を知る。

あの時、進み切っていたらどうなっていただろう?

私は壊れてしまったかもしれないし、こんな風には書けない思い出になっていたかもしれない。女は愛される方が幸せだ、そんな言葉には笑ってしまう。だって苦しかったけど、むちゃくちゃに胸が痛かったけど、私はあの時幸せだった。なにもかもがどうでもよくなる、そんな恋もあっていいんじゃないか。大切にされることが全ての幸せだとは思えない。壊れてもいいから抱かれたい。女には、そういう瞬間もある。

大好物のマシュマロを買うお金にします。