【教員妻の夫観察日記】#2原爆ドームから託されたこと-夫が教員になった理由-
夫は小学生くらいのときから教員志望だったそうです。
なんとなく教えるのが楽しかったからだそう。
その夢が明確な目標になったのは、夫が大学受験のため浪人しているときでした。
夫はいわゆる転勤族の家庭で育ちました。
幼少期も頻繁に引っ越しがあったそうです。
ですから、地元と言われるものがどうもはっきりしないのですが、ルーツのひとつは父の出身地である広島県です。
転勤先が広島になることも度々あったようで、浪人時代は広島で過ごしたそう。
ぼんやりとした浪人生活のある日、ふと思い立ち、自転車で原爆ドームへ向かった夫。
原爆ドームの前のベンチに座り、ぼーっと原爆ドームを眺めました。
そのときに、「教師になろう」と夢が達成すべき目標になったそうです。
子どもたちに何を教えるか、がこれからの未来をつくると夫は言います。
これからの未来をつくる、教育というものはとても大切なものだと。
だから自分は教員になった、と。
でも、子どもたちに教えられることは限られている。
では、何を自分は選択するのか。
そのひとつが原爆ドームから託された、平和学習でした。
夫が小学生、中学生時代の大部分を過ごしたのは九州や広島です。
その中で長崎や広島の原爆のこと、また、沖縄の地上戦などをテーマとした多くの平和学習に触れてきました。
もちろん、児童、生徒であったときは戦争が生み出した悲惨な事実を目の当たりにし、それを知ることで精一杯だったでしょう。
しかし、浪人時代、少し大人になった夫は、これからの未来をより良いものにするために、戦争の事実を子どもたちに伝えなければと考えたのです。
私たちの先祖の墓に再び爆弾が落ちることのない未来をつくるため。
それが、夫が教員になった理由でした。
かく言う私も九州の出身です。
(実を言うと、夫と私は中学の同級生です。)
私自身も多くの平和学習を受けてきました。
それが当たり前だと思っていましたが、夫曰く、平和学習には地域差があるようです。
私も夫も原爆資料館を回ったり、被爆者のお話を聞いたりする経験を多感な時期にしてきました。
私は実の祖母から戦争の記憶を聞くという学校課題に取り組んだこともあります。
だからこそ、大人になった今、今の平和な私たちの生活は戦争の時代を必死に生き抜いた人々の基に成り立っていると感じるのだと思います。
戦争から時が経ち、平和な日本が当たり前、の時代が長くなるほど、その一方で戦争の記憶を体験者から聞く機会は貴重になっていくでしょう。
未来の世界をつくるのは、まぎれもなく今の子どもたちです。
その子どもたちが、できるだけ多くの人々が幸せな生活ができる未来を選択するために、私自身もたくさんの平和のための学びを子どもたちに経験してほしいと思います。
実際に教員になった夫は今、平和学習だけでなく、限られた時間の中で子どもたちに何を教えるべきか日々考えているようです。
当たり前ですが、子どもたちのそのときの学びの時間はそのときにしか訪れません。
その1時間目を逃せば、教えずに終わってしまうこともあるのです。
これからの未来をつくるという、尊くも責任の重い役割を果たそうとする夫を妻として少しでも支えられたらと思います。
※記事に記載しているのはあくまでも個人の考えです。ご参考までにお読みください。
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