決めること。尊いのはただそれだけ。
「〇〇する人は偉い」
「〇〇しない人はもったいない」
いつの時代でも、どんな場所でもよく聞くこの言葉。
インターネット全盛期の今、自分と他人、そして他人と他人を比較しやすくなり、より聞こえてくるようになってきた。
でも、本来的に行動で人間の優劣は決まらない。
たとえば、Twitterのフォロワーが少ないけどすごい経営者だってたくさんいるし、ただの会社員でもSNSでは有名な人もたくさんいる。
また、スポーツを途中であきらめた人も勉強を頑張っているし、学校に行かなくとも一生懸命働いている人もいる。
しかし、比べる意味がないのに、人々は比べたがる。
自ら小競り合いの場に身を置き、消耗している人も。
だから、優劣をつけたがるのだろう。
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そんなことを感じた僕は、「優劣があるとしたら、何が一番尊いのだろう?」と考えてみることにした。
本来優劣はないものだけど。
たとえば、Twitterの投稿を頑張っていたのに、突如やめてしまった人がいるとする。
すると周囲は「途中でやめてしまうなんてもったいない」「途中でやめてしまうやつなんて○○だ」と周りは好きなように言うだろう。
また、何かを頑張って成果を残した人がいるとする。
すると周囲には「この人はこうやって成果出したんだから、やらない理由はない」「この人だからできることで、自分には無理」など、さまざまな角度から物を言う人が現れる。
文章を見ただけだと、確かに優劣がついている。
それは否定できない。
だが、人間としては優劣なんて何もついていない。
人間は、どんな人間だろうと変わらず人間。
だから、「尊さ」に差はない。
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では、何が一番「尊い」のか。
それは、「決める」こと。ただそれだけである。
Twitterを頑張ることも、やめることも、スポーツを頑張ることも、勉強をやめることも、仕事に熱中するのも、サボってみるのも、すべて同じ「決める」という行為を経て生まれるもの。
いいことも悪いことも、自分でちゃんと決めている。少なくとも、他の誰かが決めたことをやっている。
何かをすることも、何かをしないことも、「決める」という尊さは等しく存在しているのだ。
だから、比較することに何も意味はない。
優劣をつけることに何の意味もない。
「決める」ことは、皆等しくやっているから。
そこに、自分のブレない何かが存在するし、存在していていい。
他人の比較の声が気になるときは、自分の心にこう語りかけてほしい。
「自分で決めたならそれでいい」
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